JOG(101) 鈴木貫太郎(下)
終戦の聖断を引き出した老宰相
(前号より続きます)
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■1.平和を求める意思■
昭和20年6月8日、首相・鈴木貫太郎は第87回臨時議会を召集した。これには日本はドイツとは違って、激しい本土空襲の只中でも毅然として議会尊重の原則を崩さない近代的立憲君主制国家であることを海外、特に主要交戦国であるアメリカに示す狙いがあった。[3,p85]
そしてもうひとつの狙いは、首相就任後の最初の施政方針演説により、日本の和平意思を世界の報道機関を通じて、表明すること。しかもこれは国民の戦意を維持したまま、講和の落とし所を暗に示そうという綱渡りであった。
鈴木は施政方針演説で、「今や我々は全力をあげて戦い抜くべきである」という決意を示しつつ、特に次の二点を訴えた。[4,p279]
鈴木は、支那事変の時などは、健康を害されるまでに心労を重ねられた天皇に、侍従長として8年間お仕えしてきた。その鈴木にとって、これはゆるぎない確信であった。この点がわが国の基本姿勢であることを確認した上で、鈴木はさらに続ける。
■2.太平洋は「平和の海」■
鈴木は、日米が戦うことの無意味さを説いた。しかし、米国が無条件降伏を主張する限り、日本は戦いを継続するしかない。
鈴木のメッセージを読んで、心理作戦課のザカリアス大佐は部下にこう言った。
本誌99号で述べたように、天皇制存続を認めるという条件を提示して、日本に降伏への道を開き、日米双方での犠牲を早く食い止めようという主張が、米政府、軍部、マスコミなどで幅広く起こり、実際に、天皇制容認条項がポツダム宣言の原案に入れられた。鈴木の和平への意思は明確にアメリカに伝わっていたのある。
■3.天皇の名によって始められた戦争を■
しかし、原爆使用を決意していたトルーマン大統領は、ポツダム宣言から天皇制容認条項を削除して、これで「ジャップは降伏しないだろう」と考えた。[JOG(99)]
そしてトルーマンの思惑通り、日本政府はポツダム宣言を受諾できないまま、8月6日に広島に原爆攻撃がなされた。さらに、日本政府が和平交渉仲介を依頼していたソ連が、9日未明、突如宣戦布告し、満洲になだれ込んだ。
9日の深夜より、緊急の御前会議が開かれた。「天皇の国法上の地位を変更しない」という条件のみをつけて受諾しようというもの、東郷外相ら3名。阿南陸相ら3名は、さらに占領、武装解除、戦犯処置に関する合計4条件での受諾を主張した。
このまま鈴木が前者に賛成すれば、4対3の多数決で決議できる。しかし、鈴木はあえてそうせずに、静かに真っすぐに陛下の前に進み、大きな体を低くかがめて礼をして言った。
後に昭和天皇は次のように述べている。
鈴木が多数決の形をとらなかったのは、それでは軍の強硬派が納得すまいと考えたからであろう。小堀桂一郎氏は、この点につき、さらに次のように述べている。[3,p258]
そのお言葉は次のようなものであった。
■4.スティムソンの感動■
聖断は下った。しかしこれは立憲制度下ではまだ天皇の個人的見解の表明にすぎず、そのまま国家の意思となるわけではない。鈴木はこれをもって最高戦争指導会議の議決とし、さらに閣議の承認を得て、国家の意思決定とした。
日本政府はスイス、スウェーデン両中立国を通じて「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾すると回答した。
スティムソン陸軍長官は、「日本がこのような苦境に陥っても、なお、天皇制の保証を求めている」と、しばし言い知れぬ感動に浸った。米政府内の調整の後、「最終的の日本国の政府の形態は・・・日本国国民の中に表明する意志により決定されるべきものとす・・・」という回答が返された。[4,p356]
■5.私自身はいかになろうとも■
日本の提案に対して、明確な保証は与えていない連合国の回答に、大本営は受諾絶対反対を唱えた。鈴木は、再度の御前会議招集を決定した。「もう二日だけ待ってほしい」との阿南陸相の要望を、鈴木は毅然として断った。
8月14日午前10時50分、二度目の御前会議が開かれた。各人の意見陳述の後、天皇が静かに口を開かれた。
これが最終的な決定となった。二度の御前会議での天皇のご発言をもとに、終戦の詔勅が作られ、翌8月15日天皇御自身がラジオで国民に直接呼びかけるという異例の玉音放送がなされた。強硬派の多い陸軍も、阿南陸相が「承詔必謹」の大方針を打ち出し、全軍が静かに矛を納めた。
15日の午後、鈴木は辞表を天皇に差し出した。退出しようとする鈴木に、天皇は「鈴木」と親しく呼び止められた。「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた」とやさしく言われた。さらにもう一言、「本当によくやってくれたね」
その夜遅く、鈴木はたか夫人、長男の一(はじめ)らに、その時の様を物語り、しばし面を伏せてむせび泣いた。就任以来130日間にわたる老宰相の苦闘はここに終わった。[4,p390]
■6.護持すべき「国体」とは■
終戦決定の最終段階で、最大の焦点となった「国体の護持」であるが、奇妙なことに、天皇だけが常に、大丈夫だ、との確信を示されていた。
たとえば天皇は、その地位を心配する阿南陸相に対して、「阿南よ。もうよい。心配してくれるのはうれしいが、もう心配しなくても良い。私には確証がある。」と言われている。「確証」とはただならぬ言葉である。[4,p367]
連合国側の回答に関しても、木戸内大臣に次のように言われている。
以下は私見であるが、天皇の国政上の地位は、「国体」というよりも、「政体」と言うべきもので、当時の政体は明治憲法制定以来たかだか50余年の歴史しかない。皇室の歴史は有史以来、さまざまな政体のもとで、ほとんど武力も財力も持たずに、代々の国民の支持によって続いてきた。この歴史を鑑みれば、皇室の政体は従来から実質的には「人民の自由意志によって」決められてきたのである。
■7.常に汝国民と共にあり■
それでは、「政体」とは異なる「国体」とは何か? 終戦の詔勅にはこうある。
これを裏返せば、「国民の真心を信じ、常に国民と共にあり」ということが、すなわち天皇にとっての国体そのものであったと言えないだろうか。
終戦時の御製(天皇の御歌)である。「身はいかならむ」とも「たふれゆく民を思ふ」という御覚悟で、「国民と共にあり」という「国柄」を守ろうとされた。その胸中のご覚悟こそ国柄を守れるという「確証」であると言えよう。
8月14日深夜、阿南陸相が鈴木を訪れた。翌早朝、阿南は全陸軍の責任をとって自刃するのだが、口には出さなくとも別れの挨拶にきたことは、鈴木にはすぐに分かった。その阿南に鈴木は言った。
阿南は強くうなずいた。「まったく同感であります。日本は君臣一体となって必ず復興すると堅く信じております。」[4,p14]
先祖のお祭りとは、先祖の遺志を継ごうという儀式に他ならない。皇室にとってのそれは、ひたすらに国民の安寧を祈る、という「おおみたから」の伝統である[JOG(74)]。この御決意がある限り、「国民と共にあり」、すなわち、阿南の言う「君臣一体」の国体は、護持しうるのである。
(文責:伊勢雅臣)
■参考 ■
1. 「原爆投下決断の内幕・上」、ガー・アルペロビッツ、ほるぷ出版、 H7.8
2. 「敗者の戦後」、入江隆則、徳間文庫教養シリーズ、H10.2
3. 「宰相鈴木貫太郎」、小堀桂一郎、文春文庫、S62.8
4. 「聖断 天皇と鈴木貫太郎」、半藤一利、文春文庫、S63.8
5. 「平和の海と戦いの海」、平川祐弘、講談社学術文庫、S5.5
■リンク
JOG(99) 冷戦下のヒロシマ
トルーマンは、ソ連を威圧するために原爆の威力を実戦で見せつけた。
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JOG(74) 「おおみたから」と「一つ屋根」
神話にこめられた建国の理想を読む。
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