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JOG(315) 日本帝国海軍、地中海に奮戦す
第一次大戦、同盟国イギリスの要請に応え、日本の駆逐艦隊は地中海でドイツ軍潜水艇と戦った。
■1.海軍創設以来の壮挙■
大正6(1917)年2月18日午後1時、片岡覚太郎・中主計(後の主計中尉、以下、片岡中尉と略す)の乗った駆逐艦「松」は3隻の僚艦とともに佐世保港を出発した。港に停泊している艦船では、乗員が艦上に整列し、帽子を振って見送っている。出港する4艦の乗組員もこれに答礼する。
駆逐艦4隻からなる第11駆逐隊は、これからシンガポールに行き、南シナ海からインド洋方面を警備している巡洋艦「明石と駆逐艦4隻に合流する。そこからインド洋を渡り、スエズ運河経由で地中海に進出し、暴れ回るドイツ軍の潜水艇からイギリス・フランスの輸送船を護衛する任務に就くのである。1914年に始まった第一次世界大戦はすでに4年目に入っていたが、膠着状態が続く中で、日英同盟に基づくイギリスの支援要請に応えるためであった。
これまでもスエズを越して地中海に入った日本の軍艦は多かったが、いずれも新造艦の回航とか国際儀礼を目的としたもので、実戦に向かうのは今回が初めてである。日本帝国海軍創設以来の壮挙に向かう艦隊の士気は高かった。
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何かというと二口目にはジャップと軽蔑した西洋人の鼻先に、ジャップが自分で拵えた艦を持って行って、骨のあるジャップの腕っ節を見せてやる。[1,p29]
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■2.地中海マルタ港■
4月13日、2ヶ月近くの航海の後に、艦隊は地中海のマルタ島に入港した。長靴の形をしたイタリア半島のつま先にあるシシリー島のさらに南部にマルタ島は位置する。ちょうどアフリカ大陸もやや北に張り出して、地中海が最も狭くなる海峡に近い。東西方向では地中海の中央に位置し、まさに地中海の制海権を握るには絶好の要衝である。英国はこの島を1814年にフランスから獲得し、それ以来、英国海軍の地中海における一大基地としていた。
日本艦隊はここを基地として英国海軍とともに英仏運送船の護送にあたる事となった。イギリス、フランス、イタリアの各国艦隊は、地中海の制海権を握り、オーストリアとトルコの艦隊をそれぞれの母港に封鎖していた。しかし、ドイツの潜水艇は厳重な封鎖線を突破して、輸送船を手当たり次第に沈めて、暴れ回っていた。そのため輸送船護送と潜水艇攻撃が、海上作戦の中心であった。
こうして日本艦隊の8隻の駆逐艦は、護送任務や、襲われた輸送船の緊急救助にと、マルタ港にゆっくり停泊している暇もない多忙な日々を送るようになった。
■3.「トーピードー(魚雷だ!)」■
5月3日、片岡中尉の乗る「松」と僚艦「榊」は、フランス・マルセイユ港からエジプト・アレキサンドリア港に3千の陸兵、および大砲・小銃などを運ぶ英国運送船「トランシルヴァニア」を護送する任務に就いた。
翌4日午前10時20分、イタリア半島沿岸を南下中、トランシルヴァニアは突然、左舷に魚雷を受けた。船体中部から爆煙があがり、船はやや左舷に傾いて停止した。榊が周囲を警戒する間に、松が運送船左舷に横付けし、人員収容にかかる。
トランシルヴァニアの陸兵たちは、ロープや縄ばしごを伝って、続々と松に移乗する。気の早い兵は運送船の高い甲板から飛び降りて、足を折る者が続出した。半数ほどが乗り移った頃、「トーピードー(魚雷だ!)」という叫び声。人々の指さす方向を見ると、一条の白い航跡を引きながら、敵の魚雷が真一文字に疾走してくる。松とトランシルヴァニアを串刺しにしようとするかの如くである。
■4.決死の救出作業■
松はトランシルヴァニアに横付けしているので、とっさには 動けない。片岡中尉は命中は避けがたいと観念して目をつぶっ た。しかし、しばらくしても何も起こらない。はて、と目を開 けた途端に、艦首の方で轟然たる爆発音が聞こえた。
魚雷は松の艦首をわずか10メートルほどはずれて、トラン シルヴァニアの左舷に命中したのである。折悪しく40人あま りを載せた救命ボートを吊り下げている所で、ボートは運悪く 爆風に吹き飛ばさて、影も形もなくなってしまった。
松はすでに800名余りを収容したので、後進してトランシルヴァニアから離れ、敵潜水艇攻撃に移った。入れ替わりに榊 が右舷に横付けして、5分ほどで1千人もの兵員を収容する。 甲板はたちまち黒山の人だかりで埋め尽くされた。榊は近隣の イタリア・サヴォナ港に向かう。松は急遽出動したイタリアの 駆逐艦2隻とともに、付近に浮かんでいる兵員の救助にあたっ た。
敵潜水艇がいつまた魚雷攻撃を仕掛けてくるか分からないが、 それを恐れていては人命救助はできない。微速でいかだや浮標 (ブイ)につかまって海面に漂う兵員に近づいては、停止して 艦内に収容する作業を続けた。やっとの事で引き揚げた兵員た ちに、ビスケットや衛生酒を与え、寒さにふるえている者には 毛布を掛けてやる。毛布が足りなくなると、松の乗員は自分の 服を脱いで着せてやった。
やがてトランシルヴァニアの巨体は、逆立ちしてから、海面 に飲み込まれていった。こうして3千2百余名の乗員のうち、 約3千は救出された。
■5.総出の見送り■
松と榊は、救助した兵員をサヴォナ港に送り届けた。片岡中尉が報告の電報を打とうと上陸して郵便局を探していると、大勢の英兵たちが取り巻き、四方から握手を求めて、「スプレンディッド(天晴れ)!」などと賛辞を振りまく。道ですれ違った汚れた服のままの看護婦の一隊は、敬礼して深い謝意を表す。
翌日夕刻、松と榊はサヴォナ港を出港した。海岸には救助された英国の陸兵たちが見送りのために黒山のように集まっている。海岸や山際の家々の二階、三階のベランダはことごとく住民たちに満たされ、帽子やハンカチを振り、小さな子供たちまで手を振って、松と榊を見送った。
その後、駐英大使館付武官・船越少将から、英国海軍大臣から次官経由で以下のような謝辞があったとして、電報が寄せられた。__________
運送船「トランシルヴァニア」遭難の際、松、榊はすこぶる勇敢に行動し、かつ生存者の大部分は両艦によりて救助せられたる由、「サヴォナ」英国総領事の報告に接し、英国海軍大臣は、取り敢えず英国海軍および英国海軍省の名をもって、右両艦の勇敢なる行為と作業とに、深き謝意を表することを貴官に伝達ありたき旨、英国海軍次官より申越せり。[1,p133]
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■6.榊やられる■
6月11日、松と榊はエーゲ海のミロス島を出港して、並んで航行していた。榊は左舷横約2百メートルの近距離に、敵潜水艇の潜望鏡を見つけ、すぐさま砲撃を開始したが、その寸前に敵の放った魚雷が左舷艦橋下に命中・爆発した。艦橋は吹き飛び、船体は少し前方に傾いて、煙に包まれたまま停止した。
松は、榊の周囲を不規則に旋回しながら、敵の第二波攻撃を警戒した。敵の航跡らしきものを見つけて、爆雷を投ずる。約2百メートルの後方で爆発して、太い水柱が噴き上がった。
やがて、英国駆逐艦「リッブル」「ゼッド」、フランスの水雷挺が救援に駆けつけた。共に戦う男たちは、国籍など問わずに助け合う。松が周囲を警戒する中を、リッブルは勇敢にも榊に近づくや、ボートを降ろして負傷者を引き取り、さらに榊を曳き綱で曳航し始めた。低速で進む両艦は敵潜水艦の絶好の餌食であるが、松やゼッドの警戒で寄せ付けなかった。
榊はクレタ島スダ港に曳航され、負傷者は病院に収容された。夜を徹して榊の破損箇所を片づけていくと、悲惨な屍体が次々と出てきた。翌日昼から始めた59名もの殉職者の火葬は夜になっても続き、松の艦上からも遠目に凄惨な炎が見えた。
■7.沈黙の奮闘■
榊がやられた翌日、駆逐艦「梅」と「楠」は陸兵千五百を載せた英国運送船「アラゴン」を護送して、スエズ運河地中海側入り口のポートサイドから、マルタに向かっていた。午後7時15分、日没間もなくで、洋上にはまだ明るさが残っている頃、梅は右舷前方6,7千メートルに敵潜水艦が司令塔を海上に現しているのを発見。梅は全速力で近づきつつ、砲撃を開始した。楠はアラゴンの右舷に媒煙幕を張って、敵の視界を遮った。
梅が近づくと、敵潜水艦は慌てて潜行して逃げ出したが、梅は左舷前方6百メートルに航跡を発見、その進路方向に先回りして爆雷を投下した。投下10秒後、後方100メートルの所で、6,7メートルの水柱があがった。梅が反転して投下位置に戻ると、海面に黒色の油が大量に浮遊していた。敵潜水艇を撃沈して、見事、榊のかたきをとった形となった。
このような戦果は何度もあったが、そのためには見張り員は暑い日に照らされ、寒い風にさらされ、雨に打たれて、哨戒を続けなければならない。戦闘員も上着も脱がずに仮寝し、ラッパ一声で飛び起きて、持ち場に着く。緊張の日々を何日も続け、ようやく港に帰ったと思ったら、すぐに次の任務に出て行かねばならない。
こうした「沈黙の奮闘」に、縁の下の力持ちのようだ、という不平が乗組員から漏れ聞こえてくることもあったが、片岡中尉はこう諭す。
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自分の努力が認められると、認められないとは、自分の知ったことではない。ただ、国民としての本分を尽くしたという自覚が、自分にとって大なる安心である、満足である。少しでも自分の努力を認めて貰いたいと云う、さもしい私心が、その間に萌すと、折角の御奉公に疵がつく。[1,p319]
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■8.大輸送船団■
この年の暮れから大会戦の準備を進めていたドイツ軍は、翌1918年3月20日夜から大攻勢を始め、23日にはパリを長距離砲で脅かすまでに接近した。連合軍はあわてて各方面から兵力をかき集めて対抗を図る。英国は東南アジアやインドなど、東方の陸兵をエジプトのアレキサンドリア港に集結させ、そこからフランスのマルセイユ港まで大型輸送船6,7隻でピストン輸送する事とした。
輸送は4月から7月まで5回に渡り、そのすべてを日本の駆逐艦群が護送した。大きな輸送船がうち並び、日本の駆逐艦に守られて、堂々と洋上を進む光景は絵のように美しかった。しかし当然、敵からも目をつけられ、ほとんどの航海で敵潜水艇に遭遇した。
護衛の駆逐艦は絶えず海上に目を光らせ、敵潜望鏡が浮上しているのを見つけると、即座に近づいて爆雷を投下する。あたかも羊の一群を狼から守る番犬である。5往復のべ65隻の航行で犠牲となったのはわずかに2隻。1回の往復で2万ほどの兵員を輸送するので、合計10万ほどの大兵力を欧州戦線に送り込んだことになる。
これらの戦力を加えたイギリス軍は8月8日、ソンムの戦いでドイツ軍の優勢を覆した。この後、9月から11月にかけて同盟国側はブルガリア、トルコ、オーストリアが次々と脱落し、最後のドイツも11月11日に休戦条約に調印し,ここに4年3ヵ月にわたる第一次世界大戦が終結した。日本帝国海軍の駆逐艦隊はまさに縁の下の力持ちの役割を見事に果たしたのである。
■9.平和な島の墓地で■
[1]の編者C.W.ニコル氏は1997年7月6日にマルタを訪問した。その時の事を解説でこう記している。
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翌朝早く、ポーターに海軍墓地の場所をたずね、タクシーをつかまえた。墓地は開放されていて、敷地内はマルタの管理人によってきちんと手入れされていた。日本帝国海軍の記念碑は、飾りけのない一本の柱で、地中海の任務中に亡くなった全艦隊員の名前と階級が、銅板に日本語で彫られている。背後には古い石壁があって、ブーゲンヴィリアの緑と紫に彩られ、近くの木では何十羽もの雀がにぎやかにさえずっていた。眼下には、グランド・ハーバーが広がっている。
ぼくは、日本酒の小壜と、小さな「海苔」のパックと「梅干し」を、記念碑の石台に供え、頭を垂れた。この男たちは、故郷からかくも遠く離れて亡くなった。連合軍の勝利に多大な貢献をした。それなのに、ほとんど忘れ去られていた。第二次大戦のために、彼らの物語は歴史にうずめられてしまったのだ。
涙が浮かんできた。この男たちのためばかりではなく、彼らのことを考えていたら、祖父たちの思い出がよみがえってきたのだ。祖父の一人は、あの戦争のさなか、フランスの塹壕で戦った。その話を、ぼくは子供のころに聞いていた。そしてもう一人の祖父、ニコルは、英国海軍の一員として同じ戦争に出征、彼ら勇敢な若い日本人と、同じ敵を相手に戦ったのだ。
あたりを見回すと、イギリス人、イタリア人、フランス人、ドイツ人水兵の墓があるのに気づいた。敵も味方もともに、静かで手入れのゆきとどいた、同じ平和な島の墓地に葬られているのだ。
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(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(113) 日本・ベルギー交流史
第一次大戦と関東大震災を機縁にした友情の歴史
b
. JOG(169) 欧州合衆国案の母・クーデンホフ光子
欧州連合の原案を提唱したカレルギー伯爵は、日本人として誇
りを抱く光子に生み、育てられた。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
→アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
片岡覚太郎、「日本海軍地中海遠征記」★★、河出書房新社、H13
//////////// おたより ////////////
■「日本帝国海軍、地中海に奮戦す」について
「大正生まれのNZの隠居」さんより
「日本帝国海軍、地中海に奮戦す」を興味深く,また感激しながら読みました。嘗て海上自衛隊がマルセイユに寄港した時、日本海軍として心地よく歓迎されたと聞いていますが、その理由が分かったように思えます。
第一次大戦中、南太平洋でも日本海軍が数隻の巡洋艦を配備して、ドイツ海軍の攻撃からオ-ストラリアやニュージーランド(NZ)その他の南の島国や、その国々の商船の警護、護送に地味な活動をしたと聞いていますが、資料が見つかりません。もしご存じであれば、是非とも教えて戴きたくお願い致します。
と言いますのは、私は今ニュージーランドに住んでいますが、南太平洋はまだ第二次世界大戦の余韻が残っており、今になっても時々不快な反日のイヤガラセがあります。例えば、ANZACdayです。この日は元々、ニュ-ジ-ランド軍が第1次世界大戦でトルコのトリポリで数千人の戦死者を出した悲しい日を忍ぶ日ですが、それが最近は在郷軍人の戦勝記念日になっており、彼らのマ-チングが行われます。このマ-チングには、第2次大戦当時連合国側にあった国国の人の参加は歓迎されますが、枢軸国側の国の参加は拒絶されます。
更に、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争で戦友であった韓国人の参加は歓迎されますが、日本人留学生の若者が参加を申し出た時、厳しく拒否されました。マーチングに参加したいとは思っていませんが、こうした不快な出来事に対して、少なくともニュージーランドの友人達、周囲の人達には真実の史実も話たいと思い資料を探しております。
健一さんより
第一次大戦での日本駆逐艦隊の働きは確かに立派で恥ずかしくないなものでした。太平洋戦争でも日本の駆逐艦隊は米海軍も舌をまく戦いをして米海軍戦史の中で輝いている事と思います。しかし問題は学習の貧しい事です。
近代戦で海上輸送の護衛戦が国の安危に関わる事を、折角の機会に学習せず、太平洋戦争で海上護衛司令部が出来たのは手遅れの戦争末期でした。日本海軍の日露戦争での余りの活躍と成功に、米海軍の戦略家マハン提督は賞賛すると共に、敗戦の経験からは学べるが勝利からは学ぶ事が少なく危険と忠告していました。地中海での苦しい経験を生かしたらば、太平洋の海底に無数の輸送船とともに十数万の犠牲者が未だに沈んでいる悲劇を避けられたにと残念です。
■ 編集長・伊勢雅臣より
「大正生まれのNZの隠居」さんからご質問のあった「第一次大戦中に日本海軍がオーストラリアやニュージーランドを守った」という史実に関しては、お二人の方から情報を頂きました。
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