特別号外 拙著『大御宝』(1,683円)がKindle日替わりセール(明日26日のみ)で499円
藤原道長、源頼朝、織田信長、豊臣秀吉、、、歴代の為政者たちは、民を大御宝として大切にしようと、苦闘してきた。
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この機会にぜひ、多くの方々にお読みいただきたく、改めて拙著の中で、歴代の為政者が「日本史を貫く」かたちで、民を大御宝として大切にする政治に向けて、苦闘してきた姿をご紹介します。
■1.大化の改新・・・唐は納税者のみに田を与え、日本は6歳以上のすべての民に田を支給。
唐で口分田を与えたのは、納税者である18歳以上59歳以下の男だけで、女や奴(男の奴隷)・碑(女の奴隷)には与えませんでした。税を負担する者だけに口分田を与えたということで、人民は単に国家の小作人となっただけです。
それに対し、大化の改新では、6歳以上の男子に田を与え、女子はその3分の2、奴・碑はそれぞれ良民の3分の1と、税を課されない女性や子供、奴碑にも口分田を与えたということで、今日の言葉で言えば国民の基本的人権に基づいて、生活できるようにした、ということです。
■2.聖武天皇・・・奈良の大仏造立は、大半がボランティアの貢献で完成し、経済波及効果も大きかった。
聖武天皇は国民一人ひとりが仏の心を持つ事を目指して、大仏建立に「一枝の草、一把(にぎり)の土」でも寄進を歓迎しました。その結果、労働や木材、資金の寄進者が約210万人、税として年10日の労役を提供した人々が約50万人。これらの人々にも食料が供されました。合計260万人は同時の日本の人口の半分に相当します。
造立費用は現在価値で4657億円ですが、経済波及効果は人々の消費増大などで1兆246億円もあったと推定されています。
■3.坂上田村麻呂・・・東北の蝦夷(えみし)を公民として迎え入れた。
田村麻呂が築いた胆沢(いさわ)城(現在の岩手県奥州市)には、農業試験場まであり、蝦夷たちに農業を教えました。反乱の首謀者アテルイが降伏したのも、周囲がみな朝廷に服属してしまったから。
一部の蝦夷は、関東から九州まで移住し、各地で口分田を支給され、子の代までは食料の不足分は国家から供与され、租税も免除されました。武力に優れた蝦夷は、九州太宰府で防人(さきもり)として活躍したり、各地で警察として働きました。こうして蝦夷は国家の公民として、迎え入れられました。
■4.藤原道長・・・関白の地位は固辞して、内覧(総理大臣)として天皇を支えて、よき政治を行った。
道長の姉・詮子(せんし)が生んだ一条天皇は後に聖帝とみなされるようになりましたが、道長と詮子、そして道長の長女で一条天皇の皇后(中宮)となった彰子(しょうし)が、天皇をしっかり支えて、そのような治世を実現しました。
道長は「この世をばわが世とぞ思う望月(もちづき)の欠けたることも無しと思えば」の歌だけで、専横的権力を振るったとされていますが、天皇や皇太子以外が「わが世」を「自分が支配する世」の意味で使った例はなく、臣下が「わが世」と言えば、単に「私の楽しい時間」という意味でした。
■5.源頼朝・・・地方で武士が登場し、朝廷の地域行政が崩壊した時代に、朝廷の下部組織として幕府を作り、治安維持と徴税の機能を立て直した。
地方の武士たちにとっても、武力抗争だけではいつ打倒されるか分からず、彼らの心の中に残っていた朝廷の権威を背景に、自分の領地を保障してくれる幕府の存在は必要でした。
そこで頼朝は、朝廷の権威のもとで、幕府として権力を掌握して、国内の安定的統治を行う、という「権威と権力の水平分担」を考え出したのです。
■6.北条時宗・・・弘安の役で、当時、世界最大の元の艦隊の来寇を防いだのは、「神風」よりも、2ヶ月近くも彼らを上陸させなかった鎌倉武士たちの奮戦。
高麗は国を裏切って、元に味方する武将が続出して、その侵略に下りましたが、日本は朝廷と鎌倉幕府が一致団結して、一人も裏切り者を出さず、子孫のために命を懸けて、国土を守りきりました。
元は第三次侵攻も計画していましたが、九州の御家人たちが三ヶ月交替で警護に当たり、20年以上も、十分な報償もないまま、この役目を黙々と果たしました。その厳戒ぶりに、ついに元も第三次侵攻を諦めざるを得ませんでした。
■7.建武の中興で大御宝を救おうとした後醍醐天皇と楠木正成の生き方は、その後の日本人の志を方向付けしました。
後醍醐天皇は楠木正成などの活躍で、建武の中興を成し遂げましたが、野心家の足利尊氏が武将たちを利で釣って反抗。そこから発足した足利幕府も利己心から内部抗争ばかり続いて、戦国の世となってしまいました。しかし、皇室を中心に万民の幸福を目指す楠木正成の志は、後世に継承されていきました。
徳川家康の九男、尾張藩の初代藩主となった徳川義直は「王命に依って催さるる事」という言葉を『藩訓秘伝の碑』に残しています。これは朝廷と幕府が対立することになったら、朝廷側につけ、という尊皇精神が込められているとされています。
その義直の甥、水戸藩二代目藩主・徳川光圀(みつくに)(水戸黄門)は『大日本史』編纂事業を始め、「我が主君は天子なり。今将軍は我が宗室なり(我々の主君は天皇であり、将軍は親戚頭である)」との言葉を残しました。
光圀が遺した水戸学が、幕末の志士たちの志に火を灯し、明治維新の原動力となりました。
■8.織田信長の「天下布武」は「幕府政治の確立」。その後は「天下静謐」を謳って、戦国の世に平和をもたらそうとしました。
信長は足利義昭を将軍として擁立し、京都を抑えましたが、その義昭は利己心ばかりの人間で、諫言する信長に対して、二度も兵を挙げました。信長は義昭を追放して、ついに室町幕府は滅びました。
その後の信長は「天下静謐」をスローガンに、平和を脅かす勢力と戦いつづけました。
■9.豊臣秀吉はバテレン追放で、キリシタンの侵略から日本を守った。
キリシタンたちは、日本は武力が強すぎるので侵略は不可能だが、九州のキリシタン大名の武力を使って、中国を征服しようと考えていました。秀吉はそうしたキリシタンの野心を見破って、彼らを追放し、日本を守りました。
キリシタンからの防衛政策は徳川幕府に受けつがれました。島原の乱では、キリシタンに立ち還った一揆勢力が、城下町で放火・略奪を行い、逃げ遅れた女性を拉致し、寺院、神社を焼き払い、住持の首を切りました。幕府は一揆を平定しましたが、ここからポルトガル、スペインとの断交、鎖国政策をとりました。
■10.徳川幕府が実現した民の仕合わせ
幕府の治政の原則は「百姓成り立ち」で、武士は百姓の生活が成り立つよう良き政治を行う責任があり、百姓はそれに応えて年貢を納める義務がある、というものでした。
領主の政治が良くないと、百姓たちは「一揆」を起こしましたが、それは階級闘争ではなく、良い政治を求めての集団交渉でした。江戸時代に発生した百姓一揆は1430件ですが、その中で役人が殺害された事例はわずか1件のみです。一揆を起こされた領主は、幕府からにらまれて、お取り潰しにあう恐れがありました。
農民たちは高度の自治組織を作り、年貢を収めるのも、自分たちの自治で行っていました。また全国で約1万もの寺子屋が開かれ、当時の世界ではダントツの就学率を達成しています。
開国後に来日した初代米国公使タウンゼント・ハリスは「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。----これが恐らく人民の本当の姿というものだろう」と述べています。
民を「大御宝」として、その幸福を目指す神武天皇の祈りは、歴代の天皇に継承され、時代時代の為政者たちが祈りの実現に向けて、苦闘してきました。これが「日本史を貫く建国の理念」です。
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(文責 伊勢雅臣)
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