JOG(1016) 香淳皇后 ~ 昭和天皇を支えたエンプレス・スマイル
「戦中、戦後にかけて陛下のご心痛をおそばで見ているのはつらい思いでした」
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■1.「エンプレス・スマイル」
昭和46(1971)年9月、昭和天皇と香淳(こうじゅん)皇后は欧州7カ国を訪問された。70歳になられていた天皇にとっては、大正10(1921)年の皇太子時代の欧州御歴訪から50年ぶり、68歳の皇后にいたっては初めての海外渡航であった。
沿道に並んだ子供たちに向けられた皇后の笑顔が、現地の新聞やテレビで報道された。当時はまだ戦争体験者が多くいたが、誠実な昭和天皇と笑顔の皇后の姿を目の当たりにして、これが「神として侵略戦争を命じた」日本の皇帝夫妻なのか、と驚きを隠せなかった。
4年後の昭和50(1975)年9月、両陛下は今度はアメリカを訪問された。ホワイトハウスでの晩餐会から、ディズニーランドでのミッキーマウスとの握手まで、ここでも皇后の微笑みは「エンプレス・スマイル」として、アメリカ国民から歓迎され、各国報道陣の称賛の的となった。
欧州訪問と米国訪問の間の昭和48(1973)年、古希を迎えられた皇后は「70年をふり返って一番印象深かったことは?」という記者団の質問に対し、こう答えた。
大東亜戦争は我が国史の中で最大の苦難であり、昭和天皇は歴代天皇の中でも最も苦しまれた天皇だったが、それを常におそばで支えていたのが皇后の「エンプレス・スマイル」であった。
■2.「ほかの人びとに尊敬されるだけのものにならねばならぬ」
香淳皇后は、明治36(1903)年3月、皇族・久邇宮(くにのみや)邦彦(くによし)王の長女として生まれた。
祖父・久邇宮朝彦親王は、孝明天皇の懐刀として公武合体のために奔走した。ために維新後は明治新政府から疎んぜられ、一時は親王号も剥奪されて、広島に幽閉された。明治8年にようやく許されたが、「皇族の間では日陰者のような存在」になってしまった。
香淳皇后の父親・邦彦王は財産もない中の子沢山で、経済的には苦労した。しかし英邁な性質で、皇族として初めて士官候補生として入営し、かつ初めて陸軍大学に入学した人物だった。
そんな家庭に生まれた良子(ながこ)女王は、幼い頃から、しっかりした子供だった。妹たちの勉強を見てやったりしながら、常に「私達は普通の身分とはちがうのだから、それだけしっかり勉強しなければならない。そうして、あらゆる点で、ほかの人びとに尊敬されるだけのものにならねばならぬ」と話していた。
その一方で思いやりもあり、次女の信子女王が背が低いのを気にしていたので、写真を撮るときには、それが分からないよう横に並ばないようにしていた。
■3.お后選び
そんな良子女王に目をとめたのが、明治天皇のお后だった昭憲皇太后[a]だった。明治45(1912)年7月、明治天皇崩御の際、9歳の良子女王は母親に連れられて、弔問に参内した。皇太后は京人形のように可愛らしい女王に目をとめ、側近の者にどこのお子かと尋ねると、久邇宮の姫だという。
皇太后は、明治天皇が常々、「久邇宮は孝明天皇に尽くしたおかげで気の毒な境遇になったので、何とかしてやりたい」と語っていたことを思い出した。
皇太后は良子女王を傍らに呼び寄せて、名前を聞き、写真を一枚所望した。そしてその母親に、娘を連れて、ときどきは御所に遊びに来るようにと伝えた。11歳になる裕仁皇太子のお妃候補の一人として、考えられたのである。
それ以来、良子女王は母親に連れられて、たびたび参内した。格式の厳しい御所でも、皇族の姫として節度と気品を持って育てられた良子女王は、昭憲皇太后にも祖母に対するように、よくなついた。
昭憲皇太后が大正3(1914)年に崩御されると、皇太子のお妃選びの中心となったのは、実母の貞明皇后[b,c]だった。貞明皇后は学習院女子部に参観されてお后選びをされたが、やはりその中でも目をつけられたのが良子女王だった。美しさだけでなく、体操や長刀の時間でも、美しい声で号令をかけられていた。
■4.お后教育と「宮中某重大事件」
大正6(1917)年末、宮内大臣から久邇宮邦彦王に「両陛下の思し召し」が伝えられた。ところが邦彦王には不安が一つあった。良子女王の母親の生母に軽度の色覚異常があったのだ。
邦彦王は出入りの医師に調査を依頼した所、「色盲因子保有の女子が健全な男子と結婚すると、出生した男子の半分は色盲となるが、その女子はみな健全にして子孫に遺伝することなし」との結果を受けた。邦彦王は、この結果を宮内大臣に伝え、婚約内定が整った。
大正7(1918)年1月から、お后教育が始まった。講師は東京女子師範学校教授を辞して良子女王と寝起きを共にする後閑菊野女史、皇太子の倫理教育を担当した杉浦重剛[d]など17名、学課は、国語、数学などの一般学科から、修身、国体、フランス語、さらには琴、ピアノ、ダンス、テニス、なぎなたまで31課目に及んだ。
二人のご学友とすぐ下の妹の信子女王と4人で机を並べたが、学友の一人は「良さまも朗らかでいらっしゃって、いつも笑いにつつまれておりました」と回想している。もともと成績優秀で、運動神経も発達していた良子女王には、それほどの重荷とは感じていなかったようだ。
しかし、お后教育が始まって3年近くが経とうとする大正9(1920)年12月頃、「宮中某重大事件」が起こった。元老の山県有朋が、良子女王に色盲の遺伝子ありとして、婚約内定取り消しを主張したのである。女王の母が島津出身という事もあり、事態は薩長の争いともなって、紛糾した。
その最中、良子女王の侍女は、御学問所の廊下で、たった一人で空を見つめている良子女王の姿を見ている。可愛がっている鳩に餌をやる時間で、女王の肩にも足にも鳩が泊まっていたが、その手のひらには、一粒の豆もなかった。侍女に気がついた女王がふり返ると、その目には涙が滲(にじ)んでいた。
ここで立ち上がったのが杉浦重剛であった。高齢と病身をおして「すでにご内定になったご婚約を細かい欠点を挙げて取り消すのは、そのお相手に対して信を失うだけでなく、天下に対しても必ず信を失う」と主張し、世論はこれに同調した。翌年2月に「御婚約御変更なし」との宮内省発表がなされて、ようやく事件は終息した。
■5.関東大震災で婚儀延期
大正12(1923)年4月12日、婚儀は同年11月27日に執り行われるとの正式発表がなされた。すでに婚約内定から5年以上が過ぎていた。しかし、その年の9月1日、関東大震災が発生し、死亡者・行方不明10万人以上、宮城前や日比谷公園に避難民が50万人も押し寄せた。東京市内を視察した皇太子は婚儀の延期を決心した。
すでに良子女王は20歳となって、学習院時代の同級生もほとんどが先に結婚している中での延期だった。しかし、女王は新聞の報道を熱心に読み、ひたすら縫い物や編み物を続けて、救援物資作りに励んだ。
結婚の儀は翌大正13(1924)年1月26日、宮中賢所で厳かに執り行われた。お二人は馬車で赤坂離宮に入られたが、沿道の市民が日の丸の小旗を振り、万歳を連呼した。この時の様子を評論家の木村毅は、次のように書いている。
震災の痛手の癒えぬ中での婚儀であり、裕仁親王みずからのご要望で、婚儀は明治天皇や大正天皇のときと比べると、質素なものであった。また祝宴も国民への配慮から5月末まで延期された。
■6.『皇太子さま お生まれなった』
幾多の苦難を乗り越えたためか、お二人の結びつきは強かった。朝食のあと、裕仁親王は政務室に向かわれる。その時、良子妃は必ず微笑んでお見送りをする。殿下は「行ってくるよ、良宮(ながみや)」と声をかける。
そして数十歩先の曲がり角で、皇太子はふり返り、軽く上体をかがめる。そんな皇太子を良子妃は、ずっとにこやかに、お姿が見えなくなるまで見守り続ける。それが毎日毎日、新婚の時から数十年も続けられたのである。
大正14(1925)年4月15日、「東宮妃良子女王殿下ご懐妊」が発表された。国民は安堵し、そして密かに「男子出生」を願った。しかし、裕仁親王は良子女王の心の負担になるので、一言も期待めいたことは言わなかった。
12月6日、よく太った女の子の赤ちゃんが生まれた。裕仁親王は内親王誕生の知らせに、落胆の様子もなく「あっ、そう、それはよかった。女の子はやさしくてよいね」と言われた。国民も期待には反したが、国を挙げてお祝いをした。
大正天皇が崩御され、皇太子が践祚し、年号は昭和と替わった。皇后となった良子妃は、次々と出産されたが、長女の照宮茂子内親王に続き、昭和2年9月の久宮(ひさのみや)祐子(さちこ)内親王、4年9月の孝宮(たかのみや)和子内親王、6年3月の順宮(よりのみや)厚子内親王と女児が続いた。
「皇后さまは『女腹(おんなばら)』に違いない」として、「早急に側室をおかれるよう」などと勧める元老もいた。だが天皇はそんな申し入れを一蹴した。「私はかまわないよ、秩父さんも高松もいるのだから(皇統に心配ない)」とやさしく慰めた。退位して、弟の宮様に譲っても構わない、という意味だった。
陛下のお言葉に救われながらも、皇后は「これほどやさしくしていただいているのに、なんとしても皇太子を生んで、ご恩返ししなければ・・・」と思った。
昭和8(1933)年夏、またも皇后のご懐妊が発表された。「今度は、男の子のような気がする」と皇后はふと漏らされた。同年12月23日午前6時39分、元気な産声が産殿に響き渡った。親王の誕生だった。知らせを受けた陛下は「それは、確かか」と、お顔いっぱいに笑みが広がった。
北原白秋作詞、中山晋平作曲の『皇太子さまお生まれなった』の歌を、国民は広く愛唱した。
■7.「慰めまつらむ言の葉もなし」
こうした御慶事の一方で、国内外の情勢は緊迫の一途を辿っていった。昭和11(1936)年には二・二六事件が勃発。日頃穏やかな陛下も憤激する日々が続いた。その様子に、良子皇后は侍従を呼んで、涙まじりのお声でこう訴えられた。
良子皇后が政治向きのことに口を出したのは、後にも先にも、この時だけであった。
昭和16(1941)年12月にはついに大東亜戦争勃発。国民の食糧事情が悪化するのに合わせて、天皇の食事も麦をまぜたご飯に一汁二菜、配給量も一般国民と同じにせよ、と命ぜられた。そのうえ、心配事ですぐ食欲が落ちるご体質で、時には皇后が野草で手料理を作ったが、それでも箸が進まず、体重は64キロから56キロへと落ちてしまった。
皇后はできるだけ明るい話題を拾って、天皇に話しかけられた。それを聞いて天皇は一瞬、明るい表情をされるが、すぐまた沈痛な様子に戻ることが多かった。
「私自身はいかになろうとも、私は国民の生命を助けたいと思う」という終戦の御聖断は、このような両陛下の苦悩を通じて、辿り着いたものである。[e,f]
■8.「たくさんのお苦しみやお悩みのなかから」
昭和59(1984)年、結婚60周年を迎え、昭和天皇は次のように語られた。
皇后の「戦中、戦後にかけて陛下のご心痛をおそばで見ているのはつらい思いでした」というお言葉と響き合うご発言である。そのれほどの「つらい思い」を乗り越えて、ようやく平和の時代を迎え、かつての敵国民からも歓迎を受けられた。「エンプレス・スマイル」は、そのような深い所から湧き出てきたものであった。
美智子皇后は40歳の誕生日に、香淳皇后について、記者団から質問を受けて、「たくさんのお苦しみやお悩みのなかから、今日のすばらしいご自分をおつくりになった方」と讃えられている。
(文責 伊勢雅臣)
■リンク■
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 河原敏明『良子皇太后―美智子皇后のお姑さまが歩んだ道』★★★、文春文庫、H12
2. 工藤美代子『香淳皇后と激動の昭和』★★★、中公文庫、H18
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