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JOG(196) 沖縄戦~和平への死闘

 勝利の望みなきまま日本軍は82日間の死闘を 戦い抜き、米国の無条件降伏要求を撤回させた。


■1.「沖縄の日本軍の作戦はスマートだった」■

 「ユダヤ人と日本人」などで知られる山本七平氏は、フィリ ピンで砲兵少尉として戦ったが、敗戦後、捕虜収容所で米軍の 将校から一兵卒に至るまで異口同音に「沖縄の日本軍の作戦は スマートだった。」「あれを徹底的にやられたら参る所だった。 」と語るのを聞いた。
 米陸軍戦史「最後の戦い」も、「沖縄における日本軍は、ま ことに優秀な計画と善謀をもって、わが進攻に立ち向かった」 と述べている。
 実際に日本軍守備隊の戦死者約6万5千人(後述する住民の 犠牲者は別にして)に対して、米軍は地上戦闘での死傷者3万 9千人、激烈な戦闘のための神経症などで2万6千人、神風特 攻による艦船の沈没・損傷4百余隻で死傷者約1万人と、合計 7万5千人もの死傷者を出している。
 沖縄戦は、米国から見れば、太平洋戦争で最も大きな損害を 出した戦いであった。また日本側から見れば大東亜戦争終盤で の激戦であり、我が国土で民間を巻き込んで行われた最大の戦 いだった。当時の日本人がこの戦いに何を思い、どう処したの か、その足跡を辿ってみよう。

■2.「エイプリル・フールではないか」■

 昭和20年4月1日は朝から抜けるような青空に断雲が浮か ぶ、清涼な日和だった。この日、米軍は沖縄本島中部の渡久地 海岸への上陸を開始した。戦艦10、巡洋艦9、駆逐艦23、 砲艦117からなる支援砲撃艦隊が、艦砲弾4万5千発、ロケ ット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2千発の史上かつてない猛砲 撃を加えた。午前8時、千数百隻の上陸用舟艇が海岸に殺到す る。幅11キロの海岸に4個師団もの大兵力が一度に上陸する のは、米軍も初めての経験だった。
 しかし、日本軍からは何の抵抗もない。硫黄島では上陸直後 に日本軍の猛砲撃を受けて大損害を被った、その記憶も生々し いだけに、米軍は「エイプリル・フールではないか」と狐につ ままれたようだった。「沖縄の日本軍最高司令官は偉大なる戦 術家であるか、そうでなければ、大馬鹿者である」と、無血上 陸をした米軍将兵は語り合った。そのどちらかは、すぐに分か ることになる。

■3.異端の作戦参謀・八原博通大佐■

 日本軍の作戦は、高級参謀・八原博通大佐が立てたものだっ た。八原大佐は陸軍大学を優秀な成績で卒業した後、アメリカ に留学した経験を持つ陸軍では数少ない米国通であった。マレ ー進攻などで参謀将校として活躍した後、陸軍大学の教官を務 めた。当時、ドイツ陸軍流の華麗な戦術がもてはやされる中で、 理詰めの地味な、しかし確実に成功する戦術を重視する異端の 教官だった。
 沖縄に進攻する米軍の膨大な火力にまともにぶつかっては、 短期間に全滅するだけである。八原大佐は島の南半部が分厚い サンゴ礁の岩盤に覆われているのに目をつけ、その下の天然洞窟などを利用して地下壕陣地を作り、ここを根拠にして米軍に 抵抗する作戦を立てた。いずれ米軍に敗れることは明白である が、華々しく玉砕するよりも、一日でも長く米軍を拘束して出 血を強要して、本土決戦準備の時間を稼ぐ事が、国家のために なる、と考えたのである。
 鹿児島出身で、西郷隆盛や大山巌と同様、万事を部下に任せ て責任は自分が負う古武士タイプの牛島満司令官は、笑顔でこ の作戦案を承認した。
 八原大佐は、島民の老幼婦女子のうち8万人を本土に避難さ せ、残りを極力、戦闘を予期しない島北部に疎開させた上で、 青壮年男子2万人を動員して、陣地構築を進めていた。米軍の 上陸前の猛砲撃も、すべてサンゴ礁岩盤に跳ね返されていたの である。

■4.夜襲失敗■

 しかし、戦略持久作戦に理解のない大本営は、易々と敵軍上 陸を許した沖縄軍に対して、もっと積極的攻勢をとるよう督促 電報を送り、その影響で、あくまで持久を説く八原大佐は沖縄 軍内でも孤立していった。
 豪傑肌の参謀長・長勇中将は、これでは牛島司令官の面目を 失わせると思い、壕陣地を打って出て積極的な反撃に出ること を主張した。八原大佐は頑強に反対したが、最後は参謀長の命 令で、4月12日に3個大隊で夜襲をかける作戦を立案した。
 しかし米軍の猛砲撃で道路は寸断され、地形も変わっており、 目標にたどり着く前に照明弾で発見されて、集中砲撃を浴びた。 結局、1個大隊は全滅し、2個大隊は大損害を受けた。八原大 佐の懸念通り、夜襲は失敗に終わった。

■5.日夜、日本軍重砲兵の猛射を浴びて、、、■

 一方、八原大佐の戦略持久作戦は、本島中部に上陸し、南下 する米軍に対してきわめて効果的であった。洞窟陣地は米軍の 鉄の暴風とも言うべき事前猛砲撃から、よく兵員や武器を守っ た。その後、米軍歩兵が近づくと、洞窟内から機関銃や小銃を 抱えた兵が稜線や敵前斜面に配置された陣地に飛びだして的確 な射撃を加える。反対斜面では、洞窟内から迫撃砲や臼砲を運 び出して、集中砲火を浴びせる。アメリカの従軍記者は以下の ように戦況を報道している。
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 現在少将ホッジ麾下の第24兵団の進撃速度は一日2百 メートルにとどまり、7日頃からは、日夜日本軍重砲兵の 猛射を浴びて苦戦の連続だ。・・・
 8日朝、アメリカ軍は要地赤色高地に向かって、戦車5 台を先頭に突入、地雷原を突破前進したが、日本軍は焼夷 弾をもって戦車を攻撃、さらに銃剣をきらめかせて突撃を 開始した。この戦闘の結果、アメリカ軍は戦車3両を喪失、 同高地を放棄しなければならなかった。・・・
 牧港と東海岸の和宇慶を結ぶ線には日本軍の一連の陣地 がある。欧州戦の体験者はこれを評して、巧緻かつ構想豊 かであると同時にこれまで見たいかなる陣地よりも見事に 組織されていると慨嘆した。・・・
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 こうした日本軍の高度な抵抗に直面した米軍は、4月いっぱ いかけても、わずか、2、3キロしか前進できなかった。そし て日本軍とのあまりに近距離での激戦により、沖縄戦全体で2 万6千人もの兵士が戦闘神経症にかかり戦列を離れた。これは 太平洋戦争では初めて経験であった。

■6.「よーし、これで思い残すことはない。」■

 地上での激戦が続く間、米海軍の機動部隊は上陸軍の支援と 補給艦隊援護のために、沖縄近海に留まっていなければならな かった。それを襲ったのが、相次ぐ神風特攻であった。
 沖縄攻略戦の総指揮官ニミッツ提督は、地上軍指揮官バック ナー陸軍中将に「海軍は一日に1.5隻の割合で艦船を失って いる。5日以内に第一線が動き始めなければ、貴官を更迭す る」ときびしい表情で申し渡した。
 4月1日から6月22日まで日本軍は82日間持ちこたえた が、その間に約1900機の特攻機が本土から出撃し、34隻 の艦船を沈め、空母・戦艦を含む368隻を損傷させた。米海 軍の戦死・行方不明は約4900名、負傷者は約4800名に上った。
 作家の山岡荘八は、鹿児島の鹿屋基地で、特攻隊員の出撃を 見送った際の光景を書き残している。日本大学から学徒出陣し た石丸進一少尉(22歳)は5月11日の出撃前に「さあ、名 残に一丁、元気で行こうぜ」と、ミットを構えた本田耕一少尉 (法政大学出身)に向けて投球を始めた。一球投げる毎に、 「ストライク」という声が青空を突き抜けるように響く。これ ほど野球が好きだったのかと思うと、山岡は涙で目がかすんで、 球はまるで見えなかった。10球、ストライクを続けると、
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「よーし、これで思い残すことはない。」躍り上がるよう にミットとグローブを校舎の中に投げ込んで、私(山岡) に笑顔を向け、手を振りながら飛行場へ駆け去った。 [3,p109]
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 石丸少尉はそのまま「爆装零戦」に搭乗、本田少尉もその3 日後に出撃した。沖縄近海で多くのこのような若者が若い命を 散らしては、米艦隊に大きな損害を与えた。

■7.過酷な運命■

 しかし物量を誇る米軍は、ゆっくりと「耕し、そして浸透す る」戦法をとった。無尽蔵の砲爆弾で、日本軍陣地を耕し、洪 水のようにじりじりと全面に渡って前進する。そして日本軍の 一角が敗れると、大河の水が堤防の小さな穴から噴き出すよう に突破する。
 大損害を受けた米2個師団は、後方の新手の2個師団と交替 した。それに対して、日本軍は増援のないまま総勢2.5個師 団のみで、最後まで戦わなければならない。勝利の望みもまっ たくないまま、一寸刻みで戦力を消耗していく。いずれ玉砕と なるのは「時間」の問題である。しかし、本土決戦のためにそ の「時間」を一日でも引き延ばし、米軍に少しでも多くの打撃 を与えることが、沖縄軍の任務だった。将兵はその過酷な運命 を甘受して死闘を続けた。
 沖縄軍は10キロほどの地帯を50余日間もじりじり後退し ながら激戦を続けてきたが、八原大佐は5月22日、司令部の ある首里まで敵が迫ると、さらに本島南端の喜屋武半島まで後 退して、抵抗を続けることとした。
 那覇の南、小禄村の那覇飛行場を守っていた海軍陸戦隊約9 千は、魚雷艇による特攻で敵艦船8隻撃沈などの戦果を上げて いたが、米軍の上陸強襲を受けて撤退を断念し、玉砕を覚悟し た。10日間の死闘を続けた後、太田実司令官は「沖縄県民カ ク戦へリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結 ばれた訣別電報をうって、6月13日、自決した。

■8.秋待たで枯れ行く島の青草は■

 八原大佐は、軍の撤退に際し、住民や首里地方から逃れてき た難民には戦場外となる知念半島への避難を命じ、そこに残置 した食糧、衣服の自由使用を許可しようとしたが、混乱の中で 指示が徹底せず、また知念半島に向かった住民も殺到する米軍 の追撃に、怖じ気づいて引き返してくる人々も多かった。
 かくして多くの島民が、軍とともに撤退した。沖縄戦で犠牲 になった住民は10万人にものぼるが、その大半がこの撤退の 最中に生じた。撤退作戦を立案した参謀として、八原大佐は 「多くの老幼婦女子を犠牲にしたのは、実に千秋の恨事であ る」と述べている。
 喜屋武半島に後退した沖縄軍は、すでに精鋭の第一線戦闘員 の8割を失い、残された3万人の大部分は未訓練の補充兵や、 島民からの防衛召集者であった。それでもさらに1ヶ月近くの 絶望的な戦闘を戦った後、6月18日夕、牛島司令官は大本営 あて訣別の電報を送った。その末尾は次の和歌で結ばれていた。

 秋待たで枯れ行く島の青草はみ国の春によみがえらなむ

 秋を待たずに枯れていく島の青草とは、また戦場となった沖 縄の土地と人々のことも暗示しているのだろうか。とすれば、 戦後の沖縄の復興を切に願った歌である。

■9.つはものの血をもて染めし喜屋武岬■

 21日、戦線視察中の米地上軍司令官バックナー中将が、日 本軍の砲撃で戦死したとの報が入り、摩文仁の洞窟内の司令部 は歓呼の声に包まれた。しかし、牛島司令官は敵将の死を悼む かのように、皆の歓喜の様を当惑げに眺めている。八原は、あ あ、牛島将軍は人間として何と偉大なのだろうと、思わず襟を 正した。
 この日、司令部地下壕にまで、敵の攻撃が及んだ。23日夜 明け、司令官と長参謀長はしばらく談笑した後、司令部将兵で 摩文仁山頂を奪還し、両将軍はそこで古式に則って見事な割腹 を遂げた。
 自決の前に長参謀長は各参謀に、大本営に戦訓を報告する為 に、この地を脱出して、本土に帰還するよう命じていた。八原大佐は幾万の戦友を見捨てて脱出するのは情において偲びがた く、また万一本土に帰還できても冷たい目を向けられるだろう、 と思ったが、弱い死を選んではならぬ、と自分に言い聞かせて、 島民に化けて脱出した。
 大佐は海岸沿いの洞窟に多数の難民とともに潜んでいる所を 米軍に発見され、米軍に難民の保護を願い出た。その後、収容 所に入れられているうちに、高級参謀の身分を見破られて逮捕され、そのまま敗戦を迎えた。
 米軍は先に徒歩半日で一周できるほどの硫黄島を奪うのに2 万6千の死傷者を出し[a]、いままた沖縄を占領するのに7万 5千人の死傷者を出した。本土決戦を敢行したら100万人規 模の死傷者が出るだろうと米国が恐れたのも、あながち誇張で はない。この恐れが米政府をして無条件降伏要求を緩和させ、 日本政府の形態は日本国国民の選択に任されるという条件を引 き出させた。そこに終戦への一筋の道が開けたのである[b,c]。
 昭和21年1月3日、本土に帰る船上で八原大佐は、再び摩 文仁の丘を眺めつつ、即興の和歌を詠んだ。 つはものの血をもて染めし喜屋武岬緑に和むときぞ悲しき (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(191) 人物探訪:栗林忠道中将~精根を込め戦ひし人
b. JOG(101) 鈴木貫太郎(下)
c. JOG(151) 阿南惟幾 ~軍を失うも国を失わず

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 稲垣武、「沖縄 悲遇の作戦」★★★、光人社NF文庫、H10
2. 上地一史、「沖縄戦史」、時事通信社、S34 3. 靖国神社編、「いざさらば 我はみくにの山桜」★★★、H6

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「沖縄戦~和平への死闘」について  ゴジラズワイフさんより  毎年のことですが6月23日の沖縄玉砕の日には、政府やマ スコミは「国内最後の地上戦」の表現を使いますが、これは歴 史的事実と相違しています。
 当時の「国内最後の地上戦」は、昭和20年4月1日からの 沖縄戦ではなく、同年8月9日からの23日までの南樺太での戦いです。南樺太は、1905年(明治38年)9月5日にポー ツマス条約により、日本に割譲され、1945年(昭和20年) 9月2日に降伏文書に調印するまでは、正当な日本の領土でした。
 昭和20年8月9日にソ連軍が翌年の4月まで有効であった 中立条約を一方的に破って南樺太に侵攻した時に、南樺太を守 備していた峯木中将の第88師団及び配属部隊は、特に北部の 国境では激戦を行い、圧倒的に優勢なソ連軍を食い止めました。
 ソ連軍は南樺太で予定外の時間を費やさざるを得なくなり、 それが大局的には、ソ連軍の北海道への侵攻を出来なくさせ、 終戦となり、北海道分割の悲劇が避けられたのです。
 現在の日本の領土でないからといって、南樺太を無視するのは、当時の日本の国土を守るために、勇戦奮闘してその地に眠 ったままの英霊に対して申し訳ないと思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より
 終戦前後の南樺太、および、北千島での戦いはまた本誌で取 り上げたいと思います。「最後の戦い」という副題は訂正させ ていただきました。ご指摘ありがとうございました。

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