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JOG(562) 井上成美 ~ 剛直、憂国の人生

毎年8月15日、井上は海に向かって瞠目し、戦争を阻止できなかった事で、自らを責め続けた。


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■1.「殺されるのがこわくてこの職務がつとまるか」■

「井上! 早く判を押さんか!」南雲は毎日、井上の部屋に来ては、声を荒げた。昭和8(1933)年3月、東京の海軍省でのことである。

 南雲とは、南雲忠一大佐・軍令部第2課長、後に第一航空艦隊司令長官として、真珠湾攻撃を指揮する人物である。対する井上成美(しげよし)大佐は海軍省軍務局第一課長。ブルドッグのような精悍な顔つきをして、机を叩いて迫る南雲を、額の広い知的な風貌の井上は、静かに見据えるだけであった。

 南雲が承認を迫っているのは、軍の統帥、編成、人事など一切の権限を海軍省から軍令部に移してしまう、という案だった。海軍省は内閣の一員である海軍大臣の管轄であるが、軍令部はそうではない。そういう機関に大きな権力を持たせることは、憲政政治の原則に反するし、また軍の独走の危険を生む、と井上は危惧した。それで、一課長の身で、改正案に立ちはだかったのである。

「おいっ、井上! 貴様みたいなものわかりの悪い奴は殺してやるっ!」と南雲が詰め寄った。井上は怒鳴り返した。

 殺されるのがこわくてこの職務がつとまるか。いつも覚悟をしておる。脅しにもならんことを口にするな!

 井上は静かに机の引き出しから、一通の白封筒を取り出し、南雲の目の前に突きつけた。「井上成美遺書」と墨書してある。さすがの南雲も、これにはたじろいだ。そこをすかさず、井上は「南雲!よく聞け、おれを殺したとしてもおれの精神は枉(ま)げられないぞ」と一喝した。

■2.「軍人はああでなければならない」■

 軍令部は井上の説得を諦めると、今度は伏見宮軍令部長を動かし、宮は大角(おおすみ)海軍大臣に「この案が通らなければ、軍令部長を辞める」と迫った。ここに至って、海軍省は抵抗を諦めた。井上は、寺島軍務局長に呼ばれて、「こんな馬鹿な改正をやったという非難は局長である私が一身に受けるから、どうかこの改正に同意して判を押してくれないか」と言われた。

 井上は淡々と、しかし、きっぱりと自分の所信を述べた。

 私は自分で正しくないと思うことにはどうしても同意できません。この案を通す必要があるなら第一課長を更え、この改正案に判を押す人を持ってきたらよいと思います。・・・こんな不正や理不尽が横行するような海軍になったのでは私も考えます。

 井上は局長室を出ると、軍服から平服に着替え、これからは平服の人生を歩む覚悟で海軍省を出た。

 数日後、大角大臣が改正案を持って、昭和天皇にご裁可を仰ぎに行くと、陛下は「こういうことは、よく考えてからにせよ」と差し戻しにされた。これを聞いた井上は「陛下の大局を見据えられたご判断が、必ず国を救って下さる」と思わず頭を垂れて、感謝の黙祷をした。

 事敗れた軍令部長の伏見宮は、海軍を辞めようとしている井上に関して、人事局第一課長にこう命じた。

 井上は立派だった。軍人はああでなければならない。自分の正しいと信じることに忠実な点は見上げたものである。第一課長更迭は止むなしとしても、必ず井上は良いポストに就けるように。

■3.米内・山本・井上の名トリオ■

 それから4年後の昭和12(1937)年2月、林銑十郎陸軍大将を首班とする内閣で、米内光政大将が海軍大臣に任命された。次官は山本五十六中将。米内は軍務局長に井上成美を抜擢した。ここで世に言う、米内・山本・井上の名トリオが誕生した。[a,b]

 日支事変の動乱の中で、林内閣、近衛内閣、平沼内閣と目まぐるしく入れ替わったが、このトリオは留任を続けた。しかしこの時期の3人の時間と精力のほとんどは、三国同盟阻止に費やされた。

 ドイツは日本を同盟に引き入れようと、ヒトラー・ユーゲント(青年団)30名を親善使節として送り込んだ。陸軍もそれに乗ろうと、日独伊三国親善の夕べを東京の日比谷公会堂で開いた。マスコミも同調して、さかんにドイツを持ち上げた。ヒトラーの『我が闘争』が、ベストセラーとなった。

 井上は『我が闘争』の原書を読んで、邦訳には、ヒトラーの日本接近の真意と、日本民族への蔑視を現した一節が削除されていることを知っていた。「日本人は、想像力のない劣った民族だが、小器用でドイツ人が手足として使うには便利だ」という一節である。日本の同盟推進論者たちは、こんな事も知らずに、ドイツを信頼に足る友邦だと考えていたのである。

 イタリアについても、井上はかつて駐在部武官として2年滞在したことがあり、その国民性から「友とするに足る」とは、どうしても思えなかった。

 日本を手足として使おうとするドイツや頼りにならないイタリアと組んで、イギリス、フランスのみならずアメリカまで敵に回してしまう危険性を持つ三国同盟案に、米内・山本・井上は徹底して反対した。

■4.「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」■

 右翼は連日海軍省に押しかけ、建物の外から三人を「国賊!、腰抜け! イヌ!」などと罵った。三人の暗殺計画まで乱れ飛んだ。

 その中でも、井上は特に強硬で、陸軍を中心に不穏な動きがあることを百も承知しながら、火に油を注ぐような発言を敢えてした。陸軍が脱線をくり返すかぎり、国を救うものは海軍を措いて外にはない。国を救うためならば、内閣なんか何回倒れたってよいではないか。

 三人が徹底して抵抗している間に、昭和14(1939)年8月、独ソ不可侵条約の締結が公表された。ドイツは、ソ連を仮想敵国とした同盟を提案していながら、その裏で日本を裏切ったのである。平沼内閣は総辞職し、三国同盟案は瓦解した。

 4代に及ぶ内閣の海軍大臣を辞して、米内が8月30日に宮中に離任の挨拶に伺った際、昭和天皇は「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」と語られた。

 その二日後の9月1日、ドイツがポーランドに侵入して、第2次大戦が勃発。この時点で、三国同盟を結んでいなかった日本は、自動参戦を避けることができた。 米内は軍事参議官に退き、山本は連合艦隊司令長官、井上は支那方面艦隊参謀長に転出し、ここに名トリオは解散した。

 しかし、この3人がいなくなると、ドイツの快進撃に「バスに乗り遅れるな」との空気の中で、翌年9月27日には三国同盟が調印されてしまった。

■5.「これは明治、大正の軍備である」■

 調印の数日後、井上は海軍航空本部長に任ぜられた。山本五十六がかねてから主張していた「空の連合艦隊」構想を井上が引き継いだ。

 昭和16(1941)年1月、軍令部が「第5次軍備充実計画案」を提出した。戦艦の対米比率が5割以下となるため、「大和」型の超大戦艦3隻建造、などと平時としては最大規模の軍備計画だった。

 海軍省、軍令部の首脳会議の席上で、井上はこの案を真っ向から批判した。

 これは明治、大正の軍備である。・・・アメリカの軍備に追従して、各種艦艇をその何割かに持っていくだけの月並みの計画だ。いったんアメリカと戦争になったら、どんないくさをすることになるのか、何で勝つのか、何がどれほど必要なのか、その計画がない。・・・この要求は撤回せよ。’

 井上の一喝で会議は流会となり、「第5次軍備充実計画案」は撤回された。

■6.井上の「新軍備計画論」■

 井上は反対するだけでなく、かねてからの自分の考え方を「新軍備計画論」にまとめた。

 井上の考えでは、まず「日本海軍はアメリカと戦うための軍備ではない。アメリカをして、日本と戦をすれば生やさしい事ではすまぬ、と思わせて理不尽の事をアメリカが日本に迫る事のない様にするのが第一義である」

 実際に米国が日本海軍を本当に恐れていたら、ルーズベルト大統領が、ハル・ノートなど無理難題を突きつけて、日本を開戦に追い込むような政策はとれなかったであろう。[c]

 その目的のためには、どんな軍備を持つべきか。今後は艦隊決戦などは起こらず、航空兵力の闘いになる。だから金を食う戦艦だと建造する必要はない。航空母艦は便利だが、極めて脆弱である。

 それよりも太平洋上に散在する島々を「不沈空母」として活用すべきである。対米戦は、これらの島々の取り合いになるので、その要塞化を進める。実際の日米戦はこの読み通り、島々の取り合いとなった。そして要塞化された硫黄島が米軍に日本軍以上の死傷被害を与えた[d]。

 戦前から日本が島々の要塞化に本気で取り組んでいたら、太平洋での戦争は大きく様相を変えたはずだ。井上の建白書は戦後、日米双方の軍事研究家から高く評価された。現在でも、米軍が沖縄やグアムに駐留しているのは、同じ発想であろう。

 井上は及川海軍大臣に「新軍備計画論」を提出し、

「これは自分の海軍に対する遺書のつもりで書いたものです。私はこれで海軍を辞めます。それは海軍という所がバカバカしい社会だからです」

と辞意を述べた。井上の才幹を知る及川は「辞めさせもしないし、首も切らんよ」と言った。そして「新軍備計画論」は海軍省の倉庫にしまいこまれた。

■7.「だから君じゃなければ駄目なんだよ」■

 井上は「対米戦は亡国につながる」として、海軍内を支配しかけている反米熱を一掃しようと努めた。しかし、その努力もむなしく、ついに昭和16(1941)年12月8日、真珠湾攻撃をもって、対米戦が始まってしまった。

 その頃、第4艦隊司令長官として南方にいた井上は、真珠湾奇襲大成功の祝いの言葉を述べた若い参謀を、「馬鹿者!」と怒鳴りつけた。

 昭和17(1942)年10月、井上は海軍兵学校長に任ぜられた。山本五十六から命ぜられた際に、井上が「冗談じゃありません。近頃のような軍国主義教育はできませんよ」とむきになって抗議すると、山本は「だから君じゃなければ駄目なんだよ」と軽く受け流した。

 戦争の行く末を読んでいた山本には、和平終戦を実現するために井上を温存しておこうという狙いがあったのだろう。同時に、戦後の日本を支える青年たちの教育を井上に託そうとしていたのかも知れない。

■8.戦後を見据えた人作り■

 井上は11月10日、広島は江田島の地を踏んだ。井上自身が、明治42(1909)年20歳で兵学校を卒業して以来、33年の星霜が流れていた。

 当時、海軍兵学校は即戦力となる将校の大量速成のために、教育年限の短縮と大幅な入学者増を図っていた。年限の短縮のために、英語を廃止しようという案が出た。この案は、井上が「とんでもない。自分の国の言葉しか話せない海軍士官が、世界のどこにあるか」と切り捨てた。

 さらに井上は、兵器に関する実技教育よりも、躾や一般教養による人作りに力を入れた。口にこそ出さなかったが、敗戦後、青年たちが社会に放り出された時に困らないようにという配慮だった。 この配慮は実を結んだ。戦後、兵学校の生徒たちは実社会の各方面で力を発揮し、四半世紀後も「校長、校長」と井上を慕って訪ねてくるようになった。

■9.終戦工作■

 昭和19年7月、井上は海軍大臣に就いていた米内から呼び出され、「おい、(次官を)やってくれよ」と言われた。井上は「冗談じゃありませんよ」と抵抗したが、戦争の幕引きをするにはお前が必要だ、という米内の心中はありありと窺えた。

 やむなく次官となった井上は、戦況を分析し、「一刻も早くいくさを止める工作をする必要があります」と米内に直言して、その研究に教育局長をしていた高木惣吉を当てることの了解を得た。

 陸軍が「一億玉砕・本土決戦」を叫んでいる中で、終戦工作は極秘に進める必要があった。井上は高木を健康上の理由で休養処分とし、多額の機密費を与えて研究させた。

 この高木が連絡役となって、和平勢力が結集し、東条内閣打倒工作、終戦工作、そして昭和天皇による御聖断という歴史が作られていく。[e]

 終戦後、井上は一切の公職を断って、横須賀の海を見下ろす断崖絶壁の上の洋館に隠棲した。食べ物にも事欠く貧窮生活だったが、見かねた近所の住民たちが、子供たちへの英語教育を頼み、御礼にと野菜などを差し入れた。正規の月謝は頑として受け取らなかったからだ。それでも日本の未来を担う子供たちの教育に、井上は生き甲斐を感じた。

 毎年8月15日になると、井上は海軍の礼服をまとい、終日、海に向かって瞑目して過ごした。戦争で命を失った人びとを思い、戦争を阻止できなかった事を自らを責め続けて、一日を過ごした。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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c. JOG(096) ルーズベルトの愚行 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
【リンク工事中】

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)  

1. 宮野澄『最後の海軍大将 井上成美』★★★、文春文庫、S57

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/

■「井上成美 ~ 剛直、憂国の人生」に寄せられたおたより

「田舎で暮らす3児の父」さんより

 私自身、日本の将来が危惧される若者?に入るのかもしれませんが、子を育てる親となって初めて一生勉強することの大切さをしみじみと感じています。

 育ててもらった両親には、もっと本、教養の溢れる家にして欲しかったなど今更言えませんが、わが子にはせめて同じ思いをさせぬよう、自分自身でお手本となれるようせっせと読書など励んでいます。

 やはり、私達(30歳台前半ですが)が受けてきた教育、特に戦争、日本の歴史には、日本人として恥じるような内容こそあれ、誇りを持てる部分はほとんど無かったように思います。はっきり言って流れや内容無視の受験暗記用のみの年表でしかありませんでした。

 私が大学生時に、韓国と香港の留学生と話したことがあるのですが、「日本の大学生は、大学で何をしたいのですか?」と言われたことがあります。大学に行く為に高校で勉強してきただけの私には、何も答えられませんでした。

 今号の「井上成美 ~ 剛直、憂国の人生」を読み、さらにリンクをたどり、米内・山本・井上の3氏と昭和天皇の号へと遡り、歴史の流れをよく理解できぬところもありながら読ませていただきました。これまでの日本の戦争史と昭和天皇の認識が完全に間違っていることに気づきました。また将来の事を思い日本を遺された方々の姿に、何度も目頭が熱くなりました。やはり教育だ!と再認識いたしました。


■ 編集長・伊勢雅臣より 先人に感謝し、子孫のための使命感を抱くことが、「歴史に学ぶ」ことの大切さだと思います。 

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