JOG(1001) ファン・ボイ・チャウとベトナム独立運動を扶けた日本人
ベトナム独立に共鳴する日本人の支援を受けて、300名に及ぶ留学生が日本で学んだ。
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■1.両陛下を大歓迎したベトナム国民
本年2月28日から3月6日にわたって、両陛下が初めてベトナムを訪問された。
両陛下はフエで独立運動家ファン・ボイ・チャウの記念館を訪問された。ベトナムで日本語・日本文化を教えていた田中孜(つとむ)ホンバン大学名誉教授はこの人物を次のように紹介している。
このファン・ボイ・チャウはフランスからの独立を目指して、日露戦争に勝利した日本に学ぶ「東遊(ドンズー)運動」を始め、一時は300人もの留学生を日本に呼び寄せて独立の志士として育てた人物である。その過程で朝野の日本人が親身になって彼らの世話をし、運動を支援した。
ベトナムの人々がこれほどまでに両陛下を歓待したのも、そういう日越の歴史的な繋がりも一役買っているだろう。本号ではファン・ボイ・チャウと彼を助けた日本人たちの足跡を辿ってみたい。
■2.「全生涯をかけて革命運動にこの身を捧げる」
静岡県浅羽町の『町史』の一節である。ファン・ボイ・チャウが日本に上陸した経路については諸説あるが、この記述が信憑性が高いと田中氏(参考図書[2]の著者)は指摘はしている。
ファンは1867年、日本の明治維新の前年にベトナム中部の旧首都フエの郊外で生まれた。父は貧しい寺子屋を営んでいた。その父に厳しく躾けられて、ファンは神童と呼ばれた。父はファンが学者として育ってくれる事を期待したが、当人は祖国ベトナムがフランスのもとで植民地化されていく現状を悲憤慷慨し、シナ古典の勉強では飽き足らなくなっていった。
フランスのベトナム侵略は、1802年にベトナムを統一した阮(グエン)朝がキリスト教宣教師とフランス人傭兵部隊の力を借りた時点から始まっている。キリスト教の浸透が徐々に進み、フランス人の影響力も強まっていった。フランスは軍艦を送って、ベトナム支配を徐々に広げ、1884年にはベトナム全土がフランスの保護下に置かれた。
抵抗したベトナム人は逮捕され、処刑された。1902~3年の間に2万4380人が収監され、1万2千人がギロチンで処刑されている。ファンは20歳の時に、「不法侵略者フランス軍から祖国の独立と同胞の自由を奪還するのには革命以外には道はない」と考え、「全生涯をかけて革命運動にこの身を捧げる」と決意した。
■3.「ベトナムは日本に学ぶべき」
ファンは、フランスの傀儡となっていた阮朝13代のバオ・ダイ帝を見限り、阮朝初代からの直系であるクオン・デ侯を盟主として、立憲君主国を建てることを目指した。同志を集めつつ、国際情勢を研究して、日本に着目した。
日本は若い志士たちが力を合わせて、明治天皇を中心とする新政府を樹立し、急速な近代化を進めていた。ロシアと戦争になりかけているが、必ず日本は大国ロシアに勝利するであろう。ベトナムは日本に学び、かつ独立のための武器援助を受けるべきだ、とファンは考えた。
1904年、ロシアのバルチック艦隊がベトナムのカムラン湾に寄港し、その威容を見た人々は「こんな凄い艦隊を日本がやっつけることができるわけがない」と、ファンを疑った。しかし日本海海戦で日本が大勝利を上げると、ベトナム人同志たちは日本の力を再認識し、ファンへの評価と信頼も一気に高まった。
1905(明治38)年1月20日、ファンはシナ人に変装して、ベトナムを脱出、香港、上海を経由して、4月下旬、日本に上陸したのである。
■4.東遊(ドンズー、日本に学べ)運動の発端
言葉も分からず、知人とていないファンを世話したのが、医師・浅羽佐喜太郎だった。朝羽邸の近くに大隈重信(おおくま・しげのぶ)の別邸があり、朝羽はファンを紹介したようだ。大隈はすでに日本初の政党内閣を組閣した元勲であり、この時点では野党・憲政本党の党首で、腹心として犬養毅(いぬかい・つよし)がいた。
浅羽とともに、大隈・犬養と会ったホァンは筆談で、革命への援助を要請した。しかし、犬養は「日本政府が武力をもって他国の革命運動に参加することは国際法上不可能であるが、政党としてなら我々は貴下の計画を支援する用意がある」と答えた。そして大隈はこう提案した。
ファンは感激し、大隈に丁寧に一礼した。さらに犬養は、クオン・デ殿下の来日を促し、将来の立憲君主国の君主としての見聞を日本で広めることを勧めた。これが東遊(ドンズー、日本に学べ)運動の発端となった。
■5.300名ものベトナム留学生
ファンは7月上旬、ベトナムに舞い戻り、日本での状況を説明した上で、9月末に横浜に再上陸した。この時は3名の学生を連れていた。また一行の後を追って、さらに6名が来日した。
一同は浅羽医師の病院に住み込み、日本語などの勉学に打ち込んだ。犬養は3名を振武学校に、1名を東京同文書院に入学させ、給費生として学費も支給されるようにした。振武学校は陸軍士官学校入学を目指すシナ人のための学校で、蒋介石もここで学んでいる。東京同文書院もシナ人留学生のために創設された学校である。
明治39(1906)年3月には、クオン・デ侯もベトナムを脱出して、横浜に辿り着いた。生まれながらの地位も名誉も捨て、妻と幼い子供たちを残しての来日だった。振武学校はクオン・デを受け入れたが、フランスの了解がないため、貴賓としてではなく一介の留学生として受け入れざるを得なかった。
ベトナム人留学生たちは、日本で懸命に勉強し、心身を鍛えた。その様子がベトナムに伝えられると、留学希望者が殺到し、明治40年には約200名に達して、さらに増える勢いだった。学生の急増で東亜同文書院の教室が足りなくなると、同校の役員たちは私財を投じて、5つの教室を増築した。
ベトナムの志ある人々は、一人でも有為な青年を日本に送ろうと高額の旅費を工面し、フランス官憲の厳重な警戒をくぐり抜けて留学生を送り出した。やがて留学生は300名もの規模に達した。
■6.ドンズー運動の終焉
ファンはドンズー運動を拡大するために、檄を書いては、母国に一時帰国する留学生に持たせて、配布させた。『全国父老に敬告する』では学生の留学費用の援助を呼びかけ、『海外血書』では、「東洋の大国日本」においては「仁義あふれる対応」をしてもらえるのに、祖国ベトナムにおいては「牛馬鶏豚の家畜類」と同類に扱われていると、フランスの統治を厳しく攻撃した。
フランス総督府はこれらの印刷物を入手し、証拠物件として日本政府に抗議をしてきた。しかし日本政府は「該当するようなベトナム人はいない」と突っぱねた。こういう時のために、ベトナム人留学生の国籍を清国としていたのである。
明治41(1908)年、フランス総督府は一計を案じて、ファンに「有志から集めた大金を渡したいので、受取の者を送られたい」とのニセの手紙を出した。二人の留学生が金を受け取りに帰国した所を逮捕され、機密書類は没収され、二人は三年の禁固刑を言い渡された。
ここに至っては、日本政府もフランス総督府の要求を断り切れなくなり、学生たちに直ちに帰国する旨の手紙を自宅宛に書くことを要求し、これを拒む者はフランス大使館に引き渡すと申し渡した。
フランス総督府は、逮捕していた留学生の父兄に「お前が帰国してくれれば、私たち家族は解放されて無罪となり、お前の罪も問われないから」と返事を書かせた。多くの親思いのベトナム留学生たちがその報せを受けて、次々と帰国していった。
フランス総督府はファンとクオン・デ侯の逮捕・引き渡しも要求したが、日本政府はこちらは断固拒否した。大隈と犬養の強い反対があったようだ。しかし、帰国旅費を工面できない大勢の留学生を見て、ファンは途方に暮れた。
犬養はファンに「一年くらい隠れていれば、かならず我々が元通りする」と約束し、日本郵船から「横浜-香港」間の乗船券100枚もの寄付を取り付けてくれた。さらに自身のポケットマネーで2千円(現在価値で約5千万円)を渡した。
これで多くの留学生は帰国できたが、なおもファンと志を共にして、秘かに日本に留まった者が百数十名いた。彼らは早稲田大学や東京帝国大学などを卒業し、後に独立戦争の将校や地域の指導者、事業家として活躍するのである。
■7.浅羽佐喜太郎の義挙
この前年、留学生の一人が街頭で行き倒れになっているのを、通りがかりの人が見つけ、応急手当をしたうえに、かなりの金額を手渡して、名も告げずに立ち去った、という新聞報道があった。この紳士が浅羽佐喜太郎であり、助けられた留学生グエン・タイ・バットは、この縁で浅羽家に書生として住み込み、同文書院に通った。
グエンはファンの窮状を知って、朝羽に金銭的援助を求めては、と勧めた。ファンは浅羽には来日以来、大勢の学生がお世話になっているのに、これ以上、多額の援助を受けるのは忍びないと、少額の援助を申し込む手紙を書いた。
ところが、その手紙を受けとった朝羽は、家中の金をかき集めて、グエンを通じて、ホァンに渡した。1700円(現在価値で約4千万円以上)の大金だった。浅羽はかねてから医学の研究にドイツ留学を考えており、そのための貯えを渡したようだ。
ファンはこの義挙に驚き、感涙にむせんだ。そしてこの資金を使って、独立のためのパンフレット作成や、活動費、旅費などに充てた。しかし、明治42(1909)年、ついに日本政府はクオン・デ侯とファンに国外退去命令を受けた。
■8.浅羽佐喜太郎の顕彰碑
その後、ファンは大隅の紹介で、タイの王室の支援を受けてバンコク郊外に農場を作り、留学生たちを呼び集めて、独立運動の拠点とした。さらに1912年の孫文による辛亥革命の成功に刺激を受けて、在シナのベトナム人を集めてベトナム革命軍を組織するが、袁世凱が権力を握ると逮捕されて、4年間も監禁された。
その後、ベトナムに戻ったファンはしばらく積極的な活動は控え、多くの著書を著した。1918(大正7)年には秘密裏に日本を訪れた。日本に残留している留学生たちと情報交換し、また大隈、犬養と会って、今後の活動の助言を受けることが目的だった。さらに浅羽佐喜太郎へのお礼に向かったが、浅羽はすでに亡くなっていた。
ファンは驚き悲嘆にくれたが、浅羽から受けた大恩を思うと、このままでは帰るに帰れないと、浅羽を顕彰する記念碑の建立を思い立つ。しかし、資金が足りない。村長の岡本節太郎に挨拶に立ち寄って顕彰碑の話をすると、村長は大いに感激して、費用の不足分は村民で運搬や据え付けなどをやって、なんとか実現しようと皆に訴えた。
こうして、わずか1週間後には、高さ2.7メートルの立派な石碑が建てられた。碑文はファンが次の内容の漢文を書いた。
1925年、フランス官憲に逮捕されたファンは、終身刑の判決を受けたが、日本で学んだ留学生を先頭に、学生や市民が総督府、裁判所、刑務所を幾重にも囲んで、減刑を求めた。その凄まじいエネルギーを恐れた総督は、「今後は活動しない」という条件で釈放し、ファンはその後、フエで軟禁生活を送った。
1940年10月25日、ファン・ボイ・チャウは75歳の生涯を閉じた。その1ヶ月前に日本軍がベトナム北部に進駐し、ベトナム独立の歴史は新たなページに入っていた。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(338) 大東亜会議 ~ 独立志士たちの宴 昭和18年末の東京、独立を目指すアジア諸国のリーダー達が史上初めて一堂に会した。
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■参考■
(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 産経ニュース、H29.03.06「日本の足跡、再発見の旅 両陛下ベトナム、タイご訪問」
2. 田中孜『日越ドンズーの華―ヴェトナム独立秘史 潘佩珠(ファンボイチョウ)の東遊(ドンズー)(=日本に学べ)運動と浅羽佐喜太郎』★★★、明成社 、H22