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JOG(655) 杉浦重剛 ~ 昭和天皇の師

無名の一私立中学校長が皇太子時代の昭和天皇の師に抜擢された。


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■1.無名の一私立中学校長

 大正3(1914)年春、皇太子時代の昭和天皇が学習院初等科を卒業され、将来の天皇としてお育て申し上げるために東宮御学問所が設立された。歴史、地理、国漢文、数学、フランス語などは、当代一流の学者が選ばれた。

 しかし、皇太子教育の中核である倫理の担当に選ばれたのが、ほとんど無名の一私立中学校長にすぎない杉浦重剛(しげたけ)だった事に世間は驚いた。

 杉浦を推薦したのが東京帝大総長、山川健次郎[a,b]である。山川は「恥ずかしいが帝大教授中には一人もしかるべき人はいない」といって民間の杉浦をあげた。それを決定したのが御学問所総裁、東郷平八郎であった。[1]

 実は、倫理のご進講担当の選定は、評議員のあいだで難航し、1ヶ月以上かかっても結論が出なかった。倫理は、いかに巧妙に理屈を説いても、それで良しという訳にはいかない。それを説く人物が人格高潔でなければならない。そのような学徳兼備の人物はなかなか見つからなかったのである。

 そんな中で、杉浦重剛の名前が挙がると、灯台下暗しとはこのことだ、と評議員一同、みな賛成した。世間的には無名の一私立校長だったが、識者の間で杉浦重剛の学徳兼備ぶりはよく知られていたのである。

■2.小村寿太郎との友情

 杉浦重剛の人となりは、若かりし頃のこんなエピソードから窺い知ることができる。

 杉浦は明治3(1870)年、15歳にして上京し、大学南校(後の東京大学)に学んだ。明治新政府は新しい時代を担う人材を育成するために、各藩に俊秀な若者を選んで送るように命じ、出身の膳所藩(ぜぜはん、現在の滋賀県大津市)から選ばれた二人のうちの一人であった。

 杉浦は、ここで日向国飫肥藩(おび、宮崎県日南市)から送り込まれた小村寿太郎[c]と知り合い、その国を思う気持ちの厚いことに敬愛の念を抱いた。

 やがて小村はアメリカで法律を学び、司法省に入った。杉浦はある時、親しくしていた外務省の高官から、「誰か法律に詳しく、英語に堪能な者はいないだろうか?」と聞かれ、即座に小村を推挙した。そのうえで杉浦はこう進言した。[2,p101]

 引き抜きに当たっては決して外務省へきてくれたら厚遇で報いるなどといっては駄目ですよ。国のためなら命を惜しまない人物ですが、欲得では釣れない人物ですから。

 こうして、明治外交史に名を残す外務官僚・小村寿太郎が誕生した。

■3.「忠告を破る諒解を得なければならない」

 しかし、小村は外務省で長く不遇の時期を過ごした。直接の上司に人を見る目がなかったからである。さらに父親が莫大な借金を残して死んだため、借金取りが毎日のように外務省に押しかけるようになった。

 それを知った大学南校の同窓・菊池武夫(後の中央大学初代学長)が、二人で連帯保証人になって金を借り、小村の窮状を救おう、と言ってきた。杉浦は「喜んで連帯保証の判は押すが、どうしてもその前にしなければならない事がある」と答えた。

 実は、同じく大学南校で学んだ河上謹一(後の住友の理事)から、「君は頼まれたらいやとは言えない性格だから、連帯保証の判だけは押すな」と忠告されていたのである。杉浦は、その忠告を破る諒解を、河上から得なければならない、と考えたのだった。杉浦は大汗をかきながら、河上の元に急ぎ、事情を説明した。

 河上が「小村のためなら話は別だ、俺も連帯保証させてもらう。で、小村はいったいいくら借りているのだ?」と聞くと、杉浦は「それは聞いてない」。友人を救うためには、額も知らない借金の肩代わりをしようとしている杉浦に、何という男だろう、と河上は思った。

 菊池、杉浦、河上が連帯保証人となって金を借りたが、今度は当の小村が受け取りを拒んだ。「自分のことで、君たちに迷惑はかけられない」というのである。

「君に金の心配をさせるのは国家の大損だ。君には国事に専念してもらいたい。この金でどうか借金のかたをつけてくれ」と頼み込んで、やっと金を受け取らせた。

 小村は3人の友情に応えるために国事に奔走し、やがて「外務省に小村あり」と言われるようになった。そして日露戦争後の講和条約をまとめるという大仕事を仕上げる。

■4.教育者の道

 明治15(1882)年、杉浦は30歳前の若さで、大学予備門長に就任した。東京大学を目指して全国各地から集まってくる俊英たちを鍛える機関の長である。

 しかし当時の地方の中学校では、予備門の入学試験を受けるにも、特に英語力が不足しており、それを補うために明治18(1885)年に、杉浦は同志と語らって、東京英語学校を創設した。

 当時は欧米流の功利主義や唯物主義が台頭し、西洋崇拝が頂点に達した時期だった。学校の名称は「英語学校」だったが、杉浦は欧米文明を学びながらも、我が国の伝統的な精神を保ち、国家に尽くそうとする青年の育成を目指した。

 明治25(1892)年4月、東京神田で大火災が発生し、東京英語学校は焼失した。杉浦は同志の協力を得て校舎を再建し、これを契機に「日本中学校」と改名した。

 杉浦は同時に、イギリスのパブリック・スクールを範に、全寮制で生徒たちが寝食を共にしながら人格を陶冶することを目的とした称好塾も設立している。

■5.「人を待つに寛」

 杉浦は、この日本中学校の校長を34年の長きにわたって努め、称好塾とあわせて、その後の日本の政治や学問の世界をリードする多くの人物を送り出した。

 そのごく一部を挙げれば、岩波書店の創業者・岩波茂雄、日本画家の大家・横山大観、児童文学者・巌谷小波、歌人・国文学者・佐々木信綱、政治家・吉田茂、河野一郎・謙三兄弟などである。いずれも我が国の文化・芸術・政治に大きな貢献を残した人物である。

 杉浦の処世訓は「人を待つに寛、身を持するに厳」だったが、その教育は「人を待つに寛」すなわち、青年の成長を寛容に、粘り強く待つ、ということだった。

 その好例が、後に冒険小説の泰斗と呼ばれるようになった江見水陰である。江見は軍人を志していたが、視力が弱いため軍人の道をあきらめ、叔父の縁を頼って称好塾に入った。軍人、官僚が幅をきかせていた世の中で、「何をしてもいい、自分の得意分野で成長すればいい」と励ます杉浦の言葉は新鮮だった。

 しかし、江見は酒にだらしがなかった。泥酔のあげく、町角でこもをかぶって寝込んでいるところを新聞社のカメラマンに写され、翌日の新聞に掲載されてしまった。塾生たちは、塾の対面を汚したと怒り、杉浦に即時退塾処分を迫った。[2,p186]

 いやそれはならん。君らは確かに江見にくらべれば品行方正、学業優秀だから、どこへ放り出したところでなんとかなるに違いないが、江見はここにおいてもあのような不始末をしでかすようなやつだから、今ここを出してしまえば、どんな悪党になるかも知れん。

 だから彼を追い出すことは断じてならん。もし君達がそれが不服なら、君達に出てもらうしか仕方がない。

 杉浦の慈悲あふれる言葉に、塾生たちも返す言葉がなかった。江見水陰は改心して、やがて冒険小説の泰斗とまで言われるようになった。

■6.「今日よりは我身にあらぬ我身とぞ思う」

 このような人物が、皇太子の師として選ばれたのである。

 大正3(1914)年6月22日、靖国神社に参拝してから、高輪御殿に参上し、第一回のご進講を行った。その翌日、次の和歌を詠んでいる。

  数ならぬ身にしあればも今日よりは我身にあらぬ我身とぞ思う

 ご進講に際しての杉浦は、「心血を注ぎ、鞠躬(きっきゅう、身をかがめ慎みかしこまること)身を忘れて奉仕せられた」と記されている。

 たとえば御学問所の幹事はご進講開始の1時間半前には出仕していたが、杉浦のご進講のある日は、いつも玄関に彼の帽子がかかっていた。「どうしていつもこんなに早くご出勤されるのです?」と聞いたが、杉浦は答えなかった。

 実は、杉浦は小石川の自宅から御学問所のある高輪御殿まで人力車で通っていたが、途中で何かあっても徒歩でも十分間に合うように家を出ていたのである。

■7.「まごころを磨く」

 とは言え、その講義はお若い殿下が飽きられないように配慮したものであった。たとえば、中江藤樹の事を三度も述べている。

「国を治め、天下を平らかにする」という政治の根本も、まずは人間一人一人の心の中にすでにある「まごころ」を磨く所から始めなければならない。そして親を思う孝心は、人間としての「まごころ」の始まり、というのが、中江藤樹の学問の中心だった。[d]

 孝心に関しては、かつて杉浦は日本中学校の生徒に「養老の孝子」の話をこんな風に説いていた。これは薪を売って得た金で父親に好きな酒を飲ませていた樵(きこり)が、ある日、薪が売れなくて困っていると、山の斜面の岩間から酒が湧き出でていた、という話である。[2,p135]

 岩間から酒がわき出てくるはずがない。非科学的な荒唐無稽な話だという人がいる。・・・私はもと化学者だが、科学的でないというだけの理由で孝道物語を否定するのは料簡があまりにも狭すぎる。

 もうひとつ忘れてはならないのは、この話を聞かれて元正天皇が美濃へ行幸され、岩間から酒が湧き出たとされている滝を「養老の滝」と命名されただけでなく、元号を「養老」と改められたということだ。皇室はそれほど孝道の普及に努められた。

 杉浦は皇太子にも、このような調子で説かれたのであろう。「倫理」を分かりやすい言葉で説く杉浦を若き皇太子は深く慕われた。

 後に昭和天皇は、終戦時に「爆撃にたふれゆく民のうえをおもひいくさとめけり身はいかならむとも」との御製を詠まれ、御聖断を下された。[e]

 ひたすらに国民を思われる昭和天皇の「まごころ」が平和への道を開いたのである。これこそ杉浦が若き皇太子に説いた「倫理」の実践であった。

■8.ご成婚を見届けるかのように

 大正7(1918)年、久邇宮良子女王(くにのみや・ながこじょおう)が皇太子殿下のお后として内定し、将来の皇后をお育てするための御学問所が創設された。杉浦はこちらの学問所でも倫理担当に任命された。

 しかし大正10(1921)年に、女王の母系島津家に色盲の遺伝があり皇太子妃には不適当、として元老山縣有朋が久邇宮家に婚約辞退を迫った。長州閥を率いる山県にとって、反長州派の久邇宮家から将来の皇后が出るのは好ましくなかったので、言いがかりをつけて、婚約をつぶそうとしたものと言われている。

 この策謀に杉浦は、立ち上がった。御学問所総裁の東郷平八郎には次のような手紙を送っている。[2,p219]

 すでにご内定になったご婚約を細かい欠点を挙げて取り消すのは、そのお相手に対して信を失うだけでなく、天下に対しても必ず信を失う。

 ご婚約がすでになっているお相手に対して、失望させるのは、不仁の甚だしきもので、普通の人でもあえてしない所だ。いわんや仁愛をもって本分とする皇室は言うまでもない。

 杉浦は、公人として戦えば皇室と久邇宮家に迷惑がかかるため、両方の御学問所御用掛を辞し、一私人として山県派に立ち向かった。杉浦辞任のニュースは、新聞で報道され、この新聞が発禁処分とされたため、かえって「宮中某重大事件」として世上に知られることとなった。

 高齢と病身をおして人倫の道を説く杉浦に、世論は大きく傾いていき、山県批判の声が広がっていった。そしてついに山県はその策謀をあきらめ、宮内省と内務省から「皇太子妃内定に変更なし」との発表がなされた。

 大正12(1923)年9月、関東大震災が起こり、その甚大な被害に、皇太子の発意でご成婚の祝典は半年後に延期された。杉浦が説いた仁を皇太子は実行されたのである。「ありがたいことだ」と杉浦は病床で合掌した。

 翌大正13(1924)年1月26日、全国民祝賀のうちにご成婚の儀が執り行われた。それを見届けたかのように、2月13日、杉浦は帰らぬ人となった。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 岡田幹彦、産経新聞、H22.03.31「【元気のでる歴史人物講座】(64)杉浦重剛 無名の中学校長のご進講」

2. 渡辺一雄『明治の教育者 杉浦重剛の生涯』★★、毎日新聞社、H15

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