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JOG(1053) 日欧貿易の草分け、宮田耕三

その「三方良し」の姿勢が、日本と欧州との貿易を発展させた。


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■1.「なんだ、宮田か。まだベルギーにいたのか。随分長いねえ」

 1971(昭和46)年9月30日、ベルギーをご訪問中の昭和天皇・皇后両陛下はブリュッセルの日本大使館にて、両国の友好発展に尽力したベルギー人や在留邦人とお会いになった。その歓迎委員長を務めたのが在ベルギー52年に及ぶ宮田耕三(76歳)だった。

 シャンデリアのまばゆい輝きのなかで一歩一歩、近づいてこられた昭和天皇に、宮田は緊張して舌をもつれさせながら申し上げた。

「歓迎委員長の宮田耕三でございます。お元気なお姿に接することができまして幸せに存じます」
「なんだ、宮田か。まだベルギーにいたのか。随分長いねえ」
「陛下が皇太子殿下時代、アントワープヘいらっしゃったとき、皇太子殿下ばんざいを叫びました宮田です。まだベルギーにおります」
「そうか、元気でやっているのか」
「はい、陛下もお元気のようでなによりでございます」

 昭和天皇が皇太子時代にアントワープを訪問されたのは、1921(大正10)年6月のことであるから、ちょうど50年前のこととなる。その時に馬にまたがって行進された皇太子を、若き宮田は感極まって「皇太子殿下バンザイ!」と声を限りに叫び続けた。

 馬上の皇太子は「こんなところにも日本人がいたのか」と声をかけられた。「ハイ。おそれいります」と答えたが、いくらヨーロッパとは言え、北海道の屯田兵の三男坊が皇太子と会話を交わすとは、と信じられない気持ちになった。皇太子はさらに姓名や出身などを尋ねられた。

 宮田は陛下が50年も前の事を覚えていて、親しみをこめて自分の名前を呼んでくれたことに心が震えた。そして、懐かしさだけでなく、本当の親しみがこみ上げてきた。この半世紀、日本は西洋諸国との交流を広げたが、戦争に負けて一切を失い、いままた復興してきた。その半世紀を陛下も自分も共に戦ってきたという思いがあったのだろう。

■2.「新天地を目ざすのは宮田家の血だ」

 宮田耕三は明治28(1895)年に札幌の北東50キロほどの現・美唄(びばい)市にあった屯田兵村に生まれた。父・利一はその4年ほど前に祖父、妻、妹、長男などを連れて、淡路島から入植した。一家は未開の荒野の開拓に明け暮れた。日露戦争後、生活が安定すると、利一は尋常小学校4年生を終えた10歳あまりの耕三を東京に送った。

「新天地を目ざすのは宮田家の血だ」と考え、三男ながら成績の良い耕三を東京で大きく成長させようとしたのである。「東京市新宿区・池田次郎吉様」と書いた白い布きれを母親が背中に縫い付けて、送り出された。

 東京では当時の麻産業の最大手である帝国製麻でアルバイトをしながら、早稲田実業予科に通った。その後、早稲田実業、早稲田専門学校で経済の勉強しつつ、帝国製麻での仕事の中で、将来貿易商となって世界で活躍したいという夢を膨らませていった。

 宮田がロンドンに着いたのは、第一次世界大戦が始まった1914(大正3)年秋の少し前であった。父親・利一は開拓した土地の半分を売って旅費をこしらえてくれた。しかし、3等の切符を買い、ロンドンで2ヶ月も勉強すると、その資金も消えてしまった。

 しかるべき筋の紹介状も持たず、単身ロンドンに乗り込んできた宮田を採用する現地企業も日本企業もなかった。毎日英字紙の求人欄を眺め、ベビーシッターや留守番の仕事で食い繋いでいた。

 ロンドンではいろいろ不愉快な思いもした。地下鉄の中で、初老の紳士から「お前はモロッコ人か、それともアラブか」などと話しかけられた。「日本人です」と答えると「日本はどこにあるのか、電気がついているのか」と根掘り葉掘り尋ねる。英語で一生懸命に答える宮田を、紳士は薄ら笑いながら見下ろしていた。

 第一次大戦で日本の駆逐艦隊が地中海で英仏の輸送船を守って奮戦し[a]、またその後、昭和天皇が皇太子としてイギリスを訪問し[b]、大歓迎される前のことである。イギリス人にとって日本はまだ東洋の未開の国の一つでしかなかった。

■3.「他人様に喜ばれることをして死んでやろう」

 働きながら、何とかロンドン大学で経済学を学んだ宮田は1919(大正8)年、24歳にしてベルギーのアントワープに移った。アントワープは日本から欧州へ行く定期航路の終点で、日本船は1週間ほど停泊し、その間に食料や燃料である石炭を積み込む。宮田はそこで日本船に食料を売り込む仕事を始めた。

 宮田は日本人の乗組員や乗客が喜ぶような品物を見つけようと、市内の店をくまなく回った。ある店で太く脂の乗ったウナギを格安で売っているのを見つけ、売り込んだところ、大好評だった。またイタリアのピエモン米も、ふっくらと炊けて、よく売れた。半年もすると日本船相手の商売が軌道に乗ってきた。

 アントワープで商売を始めてから4年経った頃、ブリュッセルの日本大使館から菊のご紋のついた手紙が届いた。当時はブリュッセル、アントワープをあわせても日本人は20数人しかおらず、その中で、商売を伸ばしつつある宮田のことは知れ渡っていた。

 大使館からの手紙は、満蒙殖産株式会社社長の向井龍蔵という日本人が「ゼラチン」を作るためにベルギーに来ているので、ぜひ助けてやってほしい、という依頼だった。宮田には会社名はもちろん、「ゼラチン」についても何の知識もなかった。

 数日後、その向井と名乗る初老の人物が訪ねてきて、子供のような年齢の宮田に深々と頭を下げた。向井は満州の開拓民たちのために肥料となるゼラチンをなんとか作りたい、と語った。ゼラチンはベルギーを中心にヨーロッパで製造されているだけで、満洲の農民には手が届かなかったからである。

 宮田も北海道の開拓民の生まれだけに、向井の志に心動かされた。またその頃、宮田は肺結核に侵されており、このまま死んでしまうかもしれないという状況に置かれていた。それなら、他人様に喜ばれることをして死んでやろう、と決心した。

 宮田は向井社長に協力して、ゼラチン製造に関するフランス語の専門書を翻訳し、ゼラチン工場で働いていた工場員を雇い、設備を自作して、ついに東洋人として初めてのゼラチン製造に成功した。成功まで1年半かかった。

■4.貿易商として頭角をあらわす

 その後、船員たちからセキセイインコを買い集められないか、という話が宮田のところにもたらされた。セキセイインコは日本で流行っており、船員たちは本場のヨーロッパで買い求め、2か月の船旅で日本に運べば、言い値で売れるという。

 しかし船員たちの1週間程度の滞在では、大量の買い集めは無理である。専門の商社もない。そこで宮田の評判を聞きつけた船員たちが話を持ち込んだのである。

 宮田はアントワープからジュネーブ、さらにパリに至る地域まで人を派遣してセキセイインコを何百羽も買い集めさせた。船員たちが提示した価格は買い入れの数十倍もの値段で、宮田を驚かせた。

「日本と貿易出来るような商品を探そう」と思い立った宮田が見つけたのが、サケの卵の筋子(スジコ)である。筋子からイクラがとれる。毎年シーズンになると鮭がカナダからアントワープの魚市場に大量に輸入されるが、町のスーパーや魚屋は筋子を捨ててしまう。ヨーロッパ人は筋子を食べないからだ。日本人は筋子が好きで、高級品として売れる。

 宮田はスーパーや魚屋と話をつけて、筋子を無料で引き取ることとした。彼らにしても廃棄の手間がはぶけると大喜びだった。しかも宮田が小さな日本人形をプレゼントすると相好を崩した。同様に捨てられていたニシンの卵である数の子も無料で引き取り、日本に輸出した。

 宮田の見つけた商品の第3弾がダイヤモンドだった。アントワープにはユダヤ人が経営するダイヤモンドの研磨工場があった。そのころ日本ではダイヤモンドが注目され始めていた。宮田はアントワープにやってくる実業家や華族階級を知り合いのダイヤモンド工場に案内し、ユダヤ人から10%のコミッションを受けとった。こうして宮田は貿易商として成功していった。

■5.「オレは、彼らにその夢を叶えさせてやりたいんだ」

 1929(昭和4)年にニューヨークで起こった大恐慌はヨーロッパも直撃し、特に生活基盤の弱いパリ在住の画学生たちはその日のパンにも事欠いた。やがて彼らの間に、アントワープで見ず知らずの人間にも黙って宿を与え、食事を与える日本人の噂が届いてきた。宮田耕三である。

 宮田の名前を聞いて、パリから画家の卵が次々とアントワープにやってくるようになった。昼飯時には宮田と社員に混じって、居候たちがベルギー名物のムール貝にかぶりつく。白ワインは樽から飲み放題だ。その後はジャガイモやソーセージとなり、メインディッシュにはビフテキが登場する。

 こうして一週間ほど、ただ飯を食った後、片道切符でやってきた画学生は「すいませんが、パリまでの汽車枕を貸していただけませんか」と宮田に小声で聞く。どうせ返せるあてなどない事は宮田は百も承知だが、相手の心を傷つけないように汽車賃に2、3日分の食費を上乗せして渡してやる。

 多いときはこんな食客が20人もいた。たいていは20歳代の若者で、30代も半ばにさしかかっていた宮田には、彼らが可愛くて仕方がなかった。社員の1人が心配して、「社長、いい加減にしたほうがいいですよ。見ず知らずの日本人をこう抱えこんだんじゃキリがないですよ」と献言した。

 宮田はこう答えた。「みんな夢を持って日本を出てきたんだ。だからオレは、彼らにその夢を叶えさせてやりたいんだ。夢が叶うまでは時間がかかるものなんだ」

 食客たちの中の何人かからは芸術に対する執念を宮田は感じとっていた。その中には後に大成して、作品がニューヨーク近代美術館にも収蔵された鳥海青児(ちょうかい・せいじ)もいた。

■6.「遠いヨーロッパの地で国家に尽くす道は無いものか」

 1936(昭和11)年には世界的な建艦競争が始まっており、日本は後に「大和」「武蔵」と命名される巨大戦艦の建造を始めた。その情報をつかんだとき、宮田は遠いヨーロッパの地で国家に尽くす道は無いものか、と考えた。宮田の見つけた答えは鉄だった。東京駅ほどの全長の戦艦を2隻も同時に作るのでは、いくら鉄があっても足りない。

「ヨーロッパの質の良いクズ鉄を日本へ送り続けることで、日本人としての役割を果たそう。自分は日本人なのだ」 そう考えて宮田はベルギー国内はもとより、ドイツやフランスなど欧州各地を飛び回って、鉄くずを買い付ける使命に没頭した。

 1939(昭和14)年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第二次大戦が始まった。ドイツ軍はフランスまで占領したが、やがて連合国側が反撃し、ドイツ軍の撤退に伴って、宮田は身一つで邦人たちと一緒にドイツ国内に避難した。三国同盟により、日本人も敵性外国人と見なされ、逮捕される恐れがあったからだ。

 ドイツ東部がソ連軍に占領されると、宮田はシベリア鉄道の満員列車に乗って満洲に逃れた。終戦の玉音放送を宮田はハルピンの街中で聞いた。雑音のため聞き取りにくかったが、紛れもなくブリュッセルで言葉を交わした皇太子時代の昭和天皇のあのお声であった。

■7.再び、ベルギーへ

 ハルピンで危ういところをシベリア抑留から逃れた宮田は、戦後しばらく日本にいた。再びベルギーに戻ったのは1950(昭和25)年だった。学生時代にアルバイトをしていた帝国製麻のためにブリュッセルで亜麻買い付けを始めたのである。おりしも朝鮮戦動乱でベルギー国内の亜麻の価格が3倍にも跳ね上がり、経営問題となった。

 しかし宮田が依頼すると、戦前から彼を無条件に信頼していたベルギーの業者たちは、市価よりも3~4割安い価格で供給してくれることになった。

 1958(昭和33)年のブリュッセル万国博覧会は、戦後初めてのもので、貿易立国再興を目指す日本は、政府も経済界も凄まじい意気込みを込めた。戦前の万博は日本の伝統文化を伝えることが中心であったが、今回は「日本人の手と機械」と銘打って、日野のダンプトラックから、ニコンやキヤノンのカメラ、日立の電子顕微鏡、ソニーのトランジスタなどを出展した。

 宮田は陰ながら、開催準備に派遣された通産省官僚の世話をし、日本館内に設けられた日本料理店「つる屋」に外米の美味しい炊き方を教え、輸入食材が税関で引っかかると、即座に解決してやった。「つる屋」で、国賓として招かれた高松宮・同妃両殿下が、ベルギー国王の弟君アルベール殿下と食事をされている光景が、現地の新聞やテレビニュースで大きく報道された。

 この万博での入場者は4千6百万人と史上最高を記録し、うち3千万人以上が日本館を訪れた。世界116か国のパビリオンのコンテストでも、日本館は堂々、9位につけた。この成功の後、日本の貿易額は倍々ゲームで伸びていった。

■8.宮田耕三の「三方良し」

 宮田の事業は、乗組員や乗船客の喜ぶようなものを売ろうとする所から始まった。その利益はベルギーの地元にも落ち、さらに日本のためにもなった。「仕事さえきちっとやっていれば金はついて回る」と宮田は常々、広言していた。

 拙著『世界が称賛する 日本の経営』では、「売り手良し、買い手良し、世間良し」の「三方良し」こそ、日本の経営の根本だと説いたが、まさしく宮田はその実践で成功したのである。

 宮田がアントワープに来た時に20数人でしかなかった在ベルギーの邦人も、その後は進出企業約130、家族を含めると3千人と成長していった。無数の名も知れぬ日本人従業員たちが、宮田の立派な後輩として「三方良し」に取り組んでいるのであろう。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. 

b.

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の経営』、育鵬社、H29

アマゾン「日本論」カテゴリー 1位(3/6調べ)

■参考■

(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 軍司貞則『「日本株式会社」を育てた男』★★★、集英社文庫、H2

■『世界が称賛する 日本の経営』へのアマゾン・カストマー・レビュー
3/10現在、計37件 5つ星のうち4.9

■★★★★☆ 日本的経営「三方よし」の精神で工事監理(Amazon カスタマーさん)

 建設業界に身置く立場として、利益確保を最優先にすると、品質や安全が疎かになってしまうことを心配する。伊勢さんの「日本の経営」を読ませていただいて、工事監理にこの「三方よし」の精神を生かして、客先はもちろん、住民、自然環境、社会の法律などいわゆる世間を大切にして地域共生を図る重要性を再認識しました。

■★★★★★「三方良し」の「日本的経営」を行うことこそ企業繁栄の源である(織田多宇人さん、ベスト1000レビュアー)

 著者は、かっての日本企業が人を大切にして事業を成長させようとした姿勢、すなわち「日本的経営」を見失っているので、近年の日本経済や日本企業がかっての活力を失いつつある原因の一つではないかと指摘している。

■★★★★★ 日本人が本来持つ崇高な理念を再認識させる良書(Amazon カスタマーさん)

 本文で社名と設立年が紹介された企業は、1700年の福田金箔から1949年のソニーまで二世紀半(見落としご容赦)。長年にわたり常にその底流を流れる理念は、私利私欲に囚われず、縁のある周りの人を幸せにする理念や使命を持って、社会に尽くしてきたことにあります。その多くの実例に光を照らした本書は、改めて長久の歴史を経た日本が、今の時代も世間で高い評価を受けることを再認識させてくれました。

■伊勢雅臣より

 特に「三方良し」を学ばなくても、この宮田耕三のように、「三方良し」を実践してしまう所に、日本文化の力があるのですね。
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伊勢雅臣『世界が称賛する 日本の経営』、育鵬社、H29

アマゾン「日本論」カテゴリー 1位(3/6調べ)
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