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JOG(46) 「責任の人」今村均将軍(下)

 戦犯として捕まった部下を救うために、自ら最高責任者として収容所に乗り込み、一人でも多くの部下を救うべく奮闘した。


■1.ラバウルの戦犯裁判■

 ラバウルの戦犯裁判は、ほとんどがインド人、支那人などの労務者の虐待容疑だった。たとえば、「衛生勤務者として、インド人労務隊の患者を虐待した」という理由で死刑にされた酒井伍長は、次のように今村に語っている。

 インド人患者の多くが熱帯潰瘍か、マラリアにかかっていました。血の一滴ともいわれる貴重なマラリアの予防薬キニーネやアテブリンを、にがいとか胃に悪いと言って捨てているものもいました。そういう者を見つけると、私はこらしめのため、平手で頬を打ったことがあるのです。言葉がよく通じませんので....。憎しみの気持ちではなく、早くなおしてやりたかったのです。

 インド人やシナ人は賃金労働者として雇われてラバウルに来たのだが、2年以上も日本軍のために働いたので、連合軍から罰せられる事を恐れて、マレー半島や南京で俘虜になって、無理にここに連れてこられたと言い張ったのである。

 訴えを起こした労務者達は告発状を残して帰国してしまう。従って、弁護側は反対尋問をする機会も与えられていなかった。結局、ほとんどの裁判で原告側の主張を鵜呑みにした判決が下された。

 片山は処刑の前に戦犯収容所長アプソン少佐あてに、「裁判を呪う気持ちなど、もう持ってはいない。...最後に、一日も早く豪州と日本との親善関係が旧に復することを祈る」という遺書を残し、少佐を感動させた。[1,p57]

 今村は、こういう部下を一人でも救うべく、自ら志願して収容所に飛び込んでいったのである。

■2.戦犯裁判は戦闘だ■

 今村は、外人労務者は日本軍が賃金で雇ったものであり、戦争捕虜ではないから、万一虐待があったとしても、それは戦争犯罪ではなく、日本の国内法によって裁くべきこと、それでもなお戦争犯罪として取り上げるなら、最高指揮者である自分を裁くべきだ、と主張した。

 最初にこの訴えをしたのが、昭和20年12月、繰り返し回答を督促し、豪軍側が根負けした形で、今村の収容所入りが実現したのが、翌年4月28日だった。

 最高指揮官としての今村の裁判は最後に回され、それまで、今村は部下の一人一人の裁判に徹底的に介入した。「戦犯裁判は戦闘であり、作戦だ、勝たねばならぬ」と言って、少しでも被告の有利になるよう知恵を絞った。

 たとえば、終戦時にまったく別の島にいた中沢という海軍の軍属が微罪で告訴されたとき、今村は「君は現役の時、陸軍で中国にいたそうだな、わしも中国にいた。その時、わしの当番兵だったことにして、」とでっちあげて、中沢は現地民を虐待するような兵ではないと説明した。もともと証拠もない事件だったので、今村の証言が決め手になって、裁判なしの不起訴とすることができた。[1,p151]

 また今村側近の参謀長だった加藤中将の裁判では、日頃仲の良い二人が、「俘虜の不法使役」の件で、お互いにそれは自分の責任だとして譲らず、大喧嘩をした。加藤は「参謀長通達」を出したのだから、自分の責任だと言い、今村は「参謀長には命令権はない。司令部の書記と同じようなものだ」とまで極論して、すべて自分の責任だと主張した。結局、裁判では今村の強引な主張が通って、加藤中将は無罪放免となる。

 今村は自分の裁判では、10年の禁固刑の判決を受けたが、これについて次のような感想を記している。

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 事実、私は監督責任者であり、父老の愛児を預かっていた身でもある。処刑される若人たちを見守ることは、これこそ義務であり、情においても願われたことである。[1,p103]
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 判決を受けてすぐ、今村は同時に下された部下への判決に対して、再審の請願をしている。自分に対する判決については、何もふれずに。

■3.インドネシア政治犯の歓迎■

 豪軍から10年の判決を受けた後、今村は今度はジャワに護送された。オランダ軍からの裁判を受けるためである。インドネシアの独立を目指した政治犯ら1500人が収容されているストラスウェイク刑務所にただ一人の日本人として拘留された。

 食事を運んできた現地人の世話人がたどたどしい日本語で言った。

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 日本時代の最高指揮官がここにはいったことを、みんなとても喜んでいます。それは今夜7時に、歌であなたに伝わるでしょう。
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 その夜、7時の点鐘を合図に、地の底から湧き立つような大合唱が始まった。それは今村自身が懸賞募集した、日本人とインドネシア人が双方の国語で一緒に歌う「八重潮」であった。

 この歌はジャワ島の町から村へと広がり、日本の将兵と現地人が同席すれば、かならず歌われたという。獄中の今村は感動に目を潤ませた。[1,p409]

■4.スカルノの友情■

 やがて今村は約700人の日本人戦犯容疑者を収容しているジャカルタ市内のチビナン刑務所に移され、裁判にかけられた。

 ある日、百二、三十人いる現地人政治犯の中のインドネシア独立軍の将校二人が今村の房にやってきて、言った。

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 これは(インドネシア)共和国からの指示です。もしあなたの死刑が確定したら、共和国政府は、刑場に行くあなたを奪回します。その場合は、ためらわず共和国側の自動車に乗り移って下さい。
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 日本統治時代に協力し、今は独立軍を指揮するスカルノは、何としても今村を助けたかったのである。しかし今村はその好意に感謝しつつも、申し出を断った。

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 日本の武士道では、そのような方法で生きのびることは不名誉とされている。まして私を救うため、独立軍とオランダ兵が鉄火(銃火)を交え、犠牲者が出るようなことは絶対に避けたい、と。[1,p419]
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■5.マッカーサーの感動■

 幸い、オランダによる裁判では、今村の紳士的な態度に共感した裁判官により、無罪の判決が下った。そこにラバウルに収容されていた戦犯230名が、マヌス島に移されたという知らせが入った。赤道直下の酷暑炎熱の小島で、重労働と粗食、不衛生な宿舎のため、病人が続出し、半数は生きて帰れないのでは、という悲惨な状況であった。特に今村が去ってからは、豪軍監視兵の虐待、暴行が甚だしいという。

 今村は、豪軍裁判による刑期を努めるべく、ただちにマヌス島に自分を送還するようオランダ軍に申請したが、激しい独立軍との戦闘に疲弊し、撤退を決めていたオランダ軍は日本人戦犯700人をすべて巣鴨拘置所に送ることにしており、今村の申し出は聞き入れられなかった。

 かくして、今村は、昭和25年1月、7年3ヶ月ぶりで日本に帰還した。今村は到着早々、巣鴨刑務所長に何度もマヌス島送還を依頼したが、どうしても応諾してくれない。

 ついには、つてを探して、マッカーサー司令部の高官に直接マヌス行きを申請した。これに対し、マッカーサーは次のように言ったと伝えられている。

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 私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役するためマヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた。[1,p452]
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■6.最後の責任■

 かくて、昭和25年2月21日、今村は横浜からマヌス島に送られた。齢すでに63歳である。今村がマヌス島につくと、その人格力で豪兵の日本人に対する取り扱いも好転し、今村の作ったネギをもらった将校がタバコを返礼として届けたり、トマトを与えた現地人の子供が椰子の木に登って実を落としてくれたりと、なごやかな生活を送った。

 昭和28年7月、豪軍はマヌス島の刑務所を閉鎖し、全員を日本に送還した。オーストラリア政府は、戦犯達が何も言わないように日本政府に約束させており、今村もそれに従った。同時に帰国した一人は、帰国の喜びを「赤い戦犯服、乾いた灼熱の太陽、強制労働、ゴムの鞭、それらはもうない。虐待、うめき、銃殺、それらはもうない。」と記している。[1,p470]

 帰国後、今村は軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、厖大な回想録を出版した。その印税はすべて、戦死者や戦犯刑死者の遺族のために使ったという。[1,p199]

[参考]
1. 責任 ラバウルの将軍今村均、角田房子、新潮文庫、昭和62年、新田次郎文学賞受賞

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■ おたより: 早苗さんより

非常に感動しました。

このテーマには沿わないかもしれません。小さいころは戦争というと、空襲で逃げ惑う日本人の姿や原爆しかなく、日本は被害者、敗者というイメージしかありませんでした。

少し大きくなってから、南京事件や度重なる政治家の失言の謝罪、撤回を通して、日本人の東南アジアの暴挙だけが印象に残るようになりました。

インターネットを通して初めて、戦争のスローガンがアジアにおける西洋人から植民地開放・民族解放であったと知りました。 実際のところ、日本軍における圧政も事実であったと思いますが、それでも何だか救われた気持ちになりました。

現在、海外で生活する身になって、より日本人を意識せざるえない状況になり、日本にいる日本人の愛国心の欠如に寂しさを覚えてしまいます。このホームページが海外にいる日本人同様、多くの日本人に読まれることを願います。

■伊勢雅臣より

 今村将軍のような人がいたという事を知るだけで、元気が出てきますね。特に海外で生活するには、そういう元気が大切です。

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