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JOG(643) 「沖縄県民斯ク戦へり」(上) ~ 仁愛の将・大田實海軍中将

玉砕寸前の海軍司令部から「県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」と電文が発せられた。


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■1.「県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」

 沖縄戦の末期、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後生特別ノゴ高配ヲ賜ランコトヲ」という電文が玉砕寸前の海軍の沖縄根拠地隊司令部から海軍次官あてに発せられた。

 日本国内で唯一の地上戦が行われ、多数の住民が戦火に斃れた沖縄戦だったが、自らの最期にあたっても、まずは県民の苦闘ぶりを報告し、県民に対して「後生特別ノゴ高配」を願った仁愛あふれる一文は、多くの県民の心を慰め、戦後は心ある政治家を動かして、沖縄の祖国復帰の原動力となった。

 この電文を発信したのは、どんな人物だったのか、そしてこの電文がどのように発せられ、どのように戦後の政治を動かしたのか、を辿ってみたい。そこから、米軍基地など今日の沖縄の抱える問題への新しい視点も見えてこよう。

■2.運命の電話

 電文の発信者は、沖縄根拠地隊司令官・大田實海軍中将である。大田中将の沖縄での運命を決めたのは、一本の電話だった。中将の5女・勝子さんは、こう書いている。[1,p67]

 昭和20年、松の取れて間もない夕餉(ゆうげ)。子供達7人を周りに機嫌の良い父にかかって来た電話は生涯忘れられないものとなった。電話を受けた母の顔にさっと走る緊張。受話器の父の口調にも子供ながら緊迫した空気を感じた。

 米軍の沖縄侵攻が迫ってくる中での、突然の任命には訳があった。前任の司令官は航海出身で、陸上のことがさっぱり分からず、状況が段々切迫してくるのに、戦備が進まない。そこで白羽の矢が立ったのが、海軍で陸戦の第一人者と言われた大田中将だった。

 大田中将は上海事変の際に陸戦隊長として勇戦し、全滅の危機に瀕していた在留邦人を救出した勇将として知られていた。この時の勝利で、日本中が提灯行列で沸き返ったが、本人は肩を落としたまま、黙々と杯を傾けていた。

「たくさん死なせてしまったからなあ。あの一つ一つの提灯の灯が、戦死した部下たち陸戦隊員の魂のように思えてならん」と語って、深夜まで飲み続けた。

■3.「沖縄の土になる積もりだな」

 昭和20(1945)年1月20日、発令の同日、大田中将は水上機で司令部に着任した。3月末の米軍侵攻開始まであと2ヶ月ほどしかなかった。

 着任草々、大田中将は島内各地の陣地を車で視察して回った。海軍陸戦の第一人者で、しかも剣道の達人と名を馳せていたので、みな勇猛果敢な猛将タイプと想像していたが、会ってみると意外にも小柄で優しそうな丸顔、いかにも田舎の好々爺といった相貌だった。

 それでも第一線の将兵たちは、司令官に来てもらうだけで勇気づけられる。そうした機微を心得た視察であった。

 視察で車の運転を務めた堀川徳栄・一等機関兵曹(沖縄出身。後に沖縄トヨペット社長)は、大田中将が車中で参謀方と作戦会議をしていたと語る。[1,p343]

 聞くともなしに聞いていて、米軍の来襲を予想しておられること、沖縄の行く末を非常に気遣っておられる様子が分かり、そこまで考えていなかった私は、ギクッとしたものです。

 そのくせ、時には笑いながら、淡々と作戦の指揮や防備の指図などをしておられる。百戦錬磨とはこういう人を言うのかと、頭の下がる思いでした。

 馬天港(知念半島)からの帰りでしたか、運転する背中越しに、「堀川、お前は幸せ者だ」と言われた。何の事だか意味を解しかねていたら、「お前は故郷の土になるんだからな」とおっしゃった。その時、ああ、この人は死ぬ覚悟だな、沖縄の土になる積もりだな、と思い、胸が詰まって、返す言葉がありませんでした。

■4.「ご迷惑をおかけして申し訳ない」

 沖縄根拠地司令部は、那覇の南、小禄村(現在の豊見城市)にあった。西の海岸沿いに小禄飛行場(現在の那覇空港)を見下ろす丘の上である。

 この地下に総延長470メートルほどの防空壕が掘られ、司令部とされた。掘り出された土は、南北二つの入り口近くに捨てられたが、南口近くに亀千(かめち)さんという農家があった。

 亀千さんはサトウキビ畑の上に土が捨てられているのを見て、働いていた兵士たちに文句を言った。すると、下士官が飛び出してきて「貴様、非常事態に、何を言うかーッ」と怒鳴り返した。米軍が来る前に司令豪を完成させなければと、気が立っていたのである。

 そこに大田中将が現れ、将兵たちが直立不動で敬礼するのには目もくれずに、亀千さんに穏やかに話しかけた。[1,p363]

 ご迷惑をおかけして申し訳ない。しかし、緊急事態の突貫工事ですので、よく理解して、協力して下さい。何ならサトウキビを刈り取って貰えないか。

 亀千さんも、司令官と分かった途端、緊張して「どうぞ、使ってください」と答え、一件落着となった。

 大田中将は、住民の沖縄本島北部への疎開にも、心を砕いた。老幼婦女子・学童10万人の島外への疎開は、前年7月に閣議決定され、この年3月上旬までに約8万人を送り出していた。

 島内北部への疎開は、島田叡(あきら)知事が積極的に推進していた。疎開は輸送力の制約で困難を極めていたが、小禄村にいた海軍設営隊は、手持ちのトラックを総動員して、退避を支援したので、他の町村よりも早く疎開を終えることができた。

■5.「死を急ぐのみが特攻隊の道に非(あら)ず」

 3月23日に米軍の空襲が始まった。千数百機が来襲し、爆撃と機銃掃射を繰り返した。翌24日からは、戦艦8隻、駆逐艦27隻からの艦砲射撃が本島南部を覆った。

 大田中将は、麾下(きか)の魚雷艇隊、震洋隊(モーターボートの先頭に爆雷を積み、体当り攻撃する特攻艇)の出撃を命じた。

 27日夜に出撃した27魚雷艇隊の10隻は、敵艦船群に魚雷16本を発射、巡洋艦2隻を撃沈、駆逐艦1隻を撃破という戦果を上げ、大田中将は功績を讃える電報を打った。

 一方、42震洋隊は2度、出撃するも敵とは出会えず、隊長の豊広中尉はジリジリしていた所、敵艦発見の報を受けて、30日夜、独断で第3艇隊12隻を出撃させた。

 だが、またしても敵に出会えず、朝の帰投が遅れて、格納壕に艇を収容する時間がなかったため、海岸線の木陰に擬装しておいた所、敵機の空襲に遭い、爆雷が爆発して、12隻すべてを失ってしまった。豊広中尉は自分の失策を大田司令官に電文で報告した。[1,p375]

 折り返し、返電が来ました。今度こそ頭からひどいお叱りを受けることを覚悟していたのですが、それは「死を急ぐのみが特攻隊の道に非(あら)ず。万事、慎重に事を決すべし」というような電文でした。人命尊重の考えは、あの局面でも変わらなかったですねぇ。

■6.「夕刻までに前進わずかに1フィート、1インチ毎に重大な損害」

 米軍は4月1日に本島上陸を開始した。その日は日本軍からの攻撃はまったくなく、「エイプリル・フール」ではないか、と思ったほどだが、南下するにしたがって、本島南部の分厚いサンゴ礁岩盤に地下壕を掘った日本陸軍の激しい抵抗にぶつかった。海軍も最精鋭の陸戦隊4個大隊を第一線に派遣し、陸軍と共に戦った。

 いずれ負けることは目に見えているが、華々しい玉砕ではなく、一日でも長く米軍を引き留め、一人でも多くの敵を倒そうという陸軍参謀・八原博通大佐の作戦が奏功した。米軍司令部は「夕刻までに前進わずかに1フィート、1インチ毎に重大な損害」と報告する日もあったほどだった。[a]

 空からは鹿児島から飛来した陸海軍の特攻機、約1900機が襲いかかり、34隻の艦船を沈め、空母・戦艦を含む368隻を損傷させた。[a,b]

 沖縄での日本陸海軍の戦死者約6万5千人(住民被害は除く)に対して、米軍は地上戦闘での死傷者、激戦による神経症発症者、特攻機による艦船攻撃の死傷者を合計すると7万5千人もの損害を出し、太平洋戦線で最も甚大な被害を受けた作戦であった。

 この経験から、米軍は本土決戦を強行したら100万人規模の死傷者が出ると恐れ、当初の無条件降伏という苛酷な要求を引き下げさせる一因となった。ここから和平への道が開けた。[a]

■7.身はたとへ沖縄の辺に朽ちるとも

 本島の中部西海岸に上陸して2ヶ月、米軍は激戦を続けながらじりじりと南下を続け、6月4日には海軍司令部のある小禄地域に進出した。陸軍は本島最南端部の摩文仁(まぶに)に退いて、最後の抗戦を図ろうとしていた。大田中将は、陸軍部隊の撤退支援を完了すると、「残存部隊を率いて、小禄地区を頑守し、武人の最後を全うせんとする」との電報を陸軍宛に送った。

 海軍部隊が先に玉砕するのを見ているのは耐え難いと、陸軍の牛島司令官は「最期を同じくされんこと切望に堪えず」との電報を送ったが、大田中将の決意は変わらなかった。

 6月6日、米軍は小禄飛行場と周辺の海岸線を完全に制圧し、戦線は海軍司令部壕を中心とする直径4キロほどの小さな円に絞られた。その日の夕方、大田中将は次の辞世を詠んだ。

 身はたとへ沖縄の辺に朽ちるとも守り継ぐべし大和島根は

■8.「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」

 その後に認めたのが、冒頭で紹介した「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の長い電文である。牛島中将は、激戦に県民がいかに処したか、深い同情を込めながら報告する。[2]の現代語訳から、一部を紹介しよう。

 沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛のための召集に進んで応募した。残された老人・子供・女性は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

 しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

 どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女性は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

 看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

 さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

 その上で、大田中将は、この電報を次の一節で結んだ。

一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ

(草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。沖縄県民はこのように戦い抜いた。県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う。)

■9.大田中将の自決

 海軍陸戦隊は最後まで抵抗を続けた。米軍の戦闘記録はこう記している。

 頑強な日本海軍の防衛戦にあって、海兵隊は6月7日、8日と二日間にわたる戦闘で、わずかしか進撃できなかった。戦車は使用できなかった。泥の層があつく、広い地域にわたって地雷が埋めてあり、さらにその周囲の丘には機関砲座がいっぱいあったからだ。

 抗戦は6月11日に至っても、続いていた。大田中将は可能な限りの部下を地下壕から脱出させ、後方攪乱や遊撃戦を命じた。最後の自決に巻き込まないようにとの配慮である。さらに、これらの将兵が陸軍から脱走兵と誤解されないよう、わざわざ陸軍に通知している。

 12日午後、司令部壕の上の丘も占領され、最後の時は迫った。「自力で行動できる者は最後まで生き延びて戦ってくれ」との指示が出された。

 13日午前1時、「総員、脱出せよ。壕は爆破される」との大声での命令が伝えられた。大田中将以下、幕僚たち6名が拳銃で自決する銃声が響いた。壕内で爆雷の爆発音が響き、爆風が押し寄せ、電気が消えて真っ暗になった。

(文責:伊勢雅臣)

(次回に続きます。)

■リンク■

a. JOG(196) 沖縄戦~和平への死闘

 勝利の望みなきまま日本軍は82日間の死闘を戦い抜き、米国の無条件降伏要求を撤回させた。

b. JOG(306) 笑顔で往った若者たち

 ブラジル日系人の子弟が日本で最も驚いた事は、戦争に往った若者たちの気持ちだった。

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 田村洋三『沖縄県民斯ク戦ヘリ―大田実海軍中将一家の昭和史』★★、講談社文庫、H9

2. 「大田実」Wikipedia

■「『沖縄県民斯ク戦へり』(上) 」に寄せられたおたより

■豊さんより

 帝国陸海軍の軍人特に将官クラスの高級軍人を見ると、残念ながら軍中央で大きな顔をしていた人間程質が悪いと感じる。どちらかと言うと日の当らない部署にいて黙々と任務に励んだ将官クラスの方が人間的に尊敬できる人が多いのは皮肉なことだ。

 どうも日本は本当の意味での指導者やエリートを養成するノウハウを持っていないようで、特に軍人では声が大きな人間が幅を利かせ、慎重に物事を進めることを臆病と混同していたきらいがある。この気風は小生がサラリーマン生活をしていた時代にも残っており声がでかくて身体が丈夫なら部長にはなれると言われた事を思い出す。

 通常の状態であれば、あれこれうまい事を言う事は出来ても、極限状態にあって精神的にも追い詰められていたであろう状況下でなお沖縄県民のことを気にかけた大田中将は人間として立派な人だ。唾棄すべき高級軍人が多い中でこのような人がいたことを日本人として誇りに思いたい。

■編集長・伊勢雅臣より

「日の当らない部署にいて黙々と任務に励んだ」人々が、後世のためになる仕事をしています。


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