ビジネス文書族の私が、文学の道へ #挑戦してよかった
小説を書きたい。そう思ったのは1年半ほど前だ。読書は趣味ではなかった。でも、文章を書くことは好きだった。
何万字か書いて、さっそく某公募に応募した。一次で落選したタイミングで「自称プロ」に下読みのフィードバックを有料で依頼。
そのとき、文体が単調であると言われた。文体とは具体的に何かと質問したが、回答は得られなかった。(質問OKという契約だったにも関わらず)
そこから「文体とは結局どうあれば良いのか」という私の謎解きジャーニーが始まったのである。
文学賞を受賞した作品、名だたる文豪の小説。時には言語学の書籍も拝読した。人には説明できないが、「その筆者の文体らしきもの」を「感じる」ことはできた。
——今まで私が生きてきた世界、信じてきた文章の常識とだいぶ違う
それが最初の感想だった。
会社で上司向けの説明資料ばかり作っていた私からすると、文章とは「誰が何をした」と明瞭簡潔な文章が一番良いと思っていた。
ビジネス文書には、比喩も形容詞も余韻も間もいらないのだ。あったらヤバイ。
「手つかずの魔の書類が、そこにある。時計を見て息を呑んだ。あのお客様は、もう、まもなく来社されるのに——」
と報告書作成して上司に回したら、張り倒されるだろう。
ところが小説文章は、長い文にしてスピード感を出してみたり、短い文にして緊迫感を演出してみたり、文字面や音の響きを意識してみたり、読み手に「想像させる余地」を与える。
——はっきり伝えなくていいんだ……!
上記例文を使えば、どのような書類でお客様にどのような影響を及ぼす書類なのか、書いていなくてもいい。
読み手が「なんなの、この書類は……!」「こいつ、何をやらかしたの……!?」とゾッとできればいいのだ。
こうして私は、文章というジャンルの中に、複数の世界が存在することを知った。目から鱗である。
私は読書が得意ではない。国語も苦手だった。ビジネス文書のようなものが一番理解がしやすいと思っていた。小説家になれるかだって、わからない。でも、そこで諦めず、挑んでみた。
自分が染まっている世界と、真逆の世界へ足を踏み入れることは、抵抗感がある。歳を重ねれば、なおさらだ。
それでも、いつでも探究心を忘れずに自分をブラッシュアップしていきたい。日々の生活が、こんなに彩って、違って見えるようになるから。