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草鞋は三足くらい履いてもいいんじゃないか ~「そこ」から離れる勇気を持つこと~

「一意専心」は王道?それとも実は逃げ?

前回の投稿で、自分の「芯の芯」にあるものを理解するには、一意専心ではなくいろんなことを試してみれば良いのでは?と書いた。私がそう思うのにはいくつかの理由と実体験がある。一言で言うと、「二足・三足くらい草鞋を履くことで、辛かった時期を乗り越え、学びも増幅した」経験である。振り返ると、小学生の頃はミニバスに所属しつつブラスバンドでトロンボーンも吹いて、小学校4年からは週5くらいのペースで塾にも通った。中学ではバスケに熱中しつつ細々とトロンボーンを吹く機会に恵まれ、高校ではインターハイ出場を争うチームでベンチ入りの当落線上をずっと彷徨い続けつつも英語のスピーチコンテストにも出場した。ここまでは親のサポートも濃淡はあれどあったように思う。ただ、この傾向は一人暮らしを始めた大学に入っても変わることなく、自分自身でも無意識のうちに複数のことに同時に取り組むようになっていた。ラクロス部で選手として活動しつつ、ラクロス協会の運営にもそれなりの労力を注ぎ込む自分がそこにいたし、元々勉強したいテーマがあって入学しゼミの友達とも仲が良かったことも手伝ってか勉強もそれなりに取組んでいた。一意専心どころではなく「二足・三足の草鞋を履く」ようなスタイルを私は無意識のうちにこれまでとってきたのだ。

「余裕」を作るための「逃げ場」があること

今思うと、一意専心ではなく「二足・三足の草鞋を履く」ことで、私はポジティブな意味で「逃げ場」を確保できていたんだと感じている。選手としてうまくいかない時は、協会の運営に没頭し協会の仲間との交流に助けられることが多かった。そして運営が行き詰まった時には、部活のプレーにのめり込み部の仲間に助けられることも多かった。多少ネガティブな言い方になるが、一方が辛いときにもう一方に逃げ込める形を取れたことが自分にとってすごく助けになったし、逃げ込んで少し休憩して狭くなった視野を解きほぐし、一歩引いた広い目線で学びを得たり課題や解決策を洗い出してから「よし、やるぞ」と新たにスタートを切れる、そんな環境を持てたことが本当に幸運だった。二足・三足の草鞋を履くことで、複数の目線を持ち、片方が行き詰まった時はもう片方の目線で物事を考える、そんな余裕を二足・三足の草鞋はもたらしてくれる。一方で、ずっと「一意専心」の姿勢を貫いてしまうとそんな余裕は持ちづらいのではないか?少なくとも私はそんな余裕持てないと思う。そんな状態に陥っているのが、今の日本社会なのかもしれない。サラリーマンは社業にだけ専念し、母親は育児に専念し、アスリートはスポーツに専念する。そして女性アスリートがちょっと気合いの入った化粧でもしようものなら「競技に専念しろ」とよくわからない圧力がかかるし、高校球児の投手が球数を気にしようものなら「怪我のリスクなんか気にせずとにかく投げろ」と一層よくわからない指導がされる。一見美しい「一意専心」は実は逃げ場を奪い余裕を奪っているだけに過ぎない、と個人的には非常に危うく感じている。

「そこ」から離れる勇気がもたらすもの

アメリカ留学当時の経験からも比較すると、日本人は行き詰った時に「そこ」から離れる勇気が無い傾向が強いと思う。仕事がうまく進んでいない時も、競技しているスポーツのプレーがうまくいかない時も、ずっと職場やフィールド・体育館にいる。状況を1センチでも1ミリでも好転することを半ば祈るような形で、そして自分が対峙している対象物が居座っている場にいることで「自分は逃げていない」という安心感を得るために「そこ」にいる。ずっと「そこ」にい続けることで、本来は「課題や困難を乗り越えるための努力をする」ことに主眼を置かなければいけないところが、「『そこ』に居続けて努力をしている」ことそのものに価値があるかのような錯覚を引起す。その結果「こんな課題の克服の仕方がある」ということよりも「こんな努力の仕方がある」ということをいつしか追い求めるようになる。「努力の仕方」を追い求めることに、果たしてどれだけの意味があるのだろうか。こういった価値観や考え方の成れの果てが、特に何を生み出すでもない長時間労働であったり、授業をサボってでも打込む部活だったりするのだと思う。時間とエネルギーはこのように浪費されていっているのではないだろうか。本質を見失った状態で行き詰ったのなら、さっさと「そこ」から去って一度距離を取ったが良い。「そこ」に長く居続けてきた人ほど安心感が大きいので、「そこ」から出ていくのには勇気がいる。今の日本社会はきっとそんな人がたくさんいる。二足・三足の草鞋を履ければ「そこ」をいくつも持つことに繋がるので、1つの「そこ」に留まることは無くなる。そして「そこ」に居続けることによる安心感は、実は自己満足以外の何者でもないことにも気付かされるし、いくつもの草鞋や「そこ」が相互向上的な相乗効果をもたらしてくれることにも同時に理解することになるだろう。日本を早くこんな社会にしたい。

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