3d 構図の考え方
⚫写真というのは基本的に受動的な行動の結果であり、その構図は事前に意図したものではない「結果論」であるとも言うことができる。
⚫「日の丸構図」は揶揄されがちだが、それをやみくもに避けようとするのもよくない。「構図の呪縛」に囚われないように。
⚫良い構図の写真を撮るための「イメージ力」を、「質の伴った量」で鍛える。
⚫幾何学的被写体の場合、構図優先で決まることもある。
⚫構図によって、写真の中に動きを作り出すことができる。
写真の構図は「結果論」
構図について考えてみましょう。
写真の善し悪しを語るとき、必ず言及されてるのが構図、ですね。もちろん写真のみならず、絵画やイラストの世界でも構図は語られます。というかあちらの方が長い歴史を持っていますから、絵画の世界の構図の概念が写真の世界にも持ち込まれた、というのが本当のところですよね。
ところで、構図の概念が絵画と写真では真反対なところがひとつある、ということにお気付きでしょうか。
それは、絵画と写真の成り立ちのそもそも最初の部分の違いです。あなたが絵を描くとき、例外なく目の前にあるのは真っ白なカンバス、真っ白な画用紙などですよね。それはゼロから世界を書き起こす作業になります。
自分から描く対象、色と構図と何もかもを決めていく、いわば絵画は能動的作家の世界です。
対して写真の場合、あなたが目の前にしているのは現実社会ですよね。(今回はスタジオでセッティングされた撮影は例外とします)すでにあるひとつの現実のビジュアルを受け止めて、それに反応してカメラという機械で切り取るのが写真撮影です。
写真というのは基本的に受動的な作家作業なのです。
能動的な絵画に対して受動的な写真、しかも絵画の場合はまず構図を決めないとカンバスに筆を置くことすらできないのに対し、写真の構図というのは、現像作業(デジタルでもフィルムでも)などを経た結果としてでき上がった、1枚の写真の中で語られるものです。いわば写真の構図というのは「後付け」であり、絵画の構図は「前提」なのです。
さらに言ってしまえば、現像やトリミングで変更さえできる写真の構図は「結果論」なのです。
「日の丸構図」はダメなのか?
なぜ最初にこんなお話をしたかというと、構図にとらわれてしまうと良い結果にはならない、という例が多々あるからです。
そもそも受動的な写真撮影です。撮る前から「この写真の構図は……」など考えていたら、シャッターチャンスはあっという間に逃げ去ってしまうでしょう。
いいタマが来たら迷わずバットを振らないといけないのです。
たとえば、典型的な例としては「日の丸構図」があります。画面のど真ん中に被写体を置く「日の丸構図」は、素人臭いダメな写真の典型として語られることが多いと思います。
しかし、日の丸構図だからと言って、その全てがダサい、ダメな写真とはワタシは思いません。きちんと意図を持って被写体を画面の中央に置いた「日の丸構図」は、堂々とした迫力のある写真になります。
それでも、初級レベルからそろそろ卒業しようとしている、くらいのカメラマンだと、「これは日の丸構図だね」と一度でも言われてしまうと、それだけで「日の丸構図=ダメな写真」という価値観が刷り込まれてしまって、とりあえずファインダーの中で被写体を隅に寄せようとしてしまうんですね。
これはもう、典型的な「構図の呪縛に捕らわれた」ケースと言えるでしょう(揚げ句の果てにはどれが主題かわからなくなり「何を撮ったのかわからない」写真ができあがります)。
日の丸構図の例は典型的ケースですが、そこまでいかなくても、構図の美しさ、に捕らわれてしまうとなかなか写真を撮りにくくなることがあるようです。
しかし、そんなときは思い出してください。写真の構図は「結果論」です。乱暴に言い切ってしまえば、意図して構図の通り撮るのではなく、撮った写真が結果として「いい構図だね」となるのが写真の構図なのです。
イメージ力を鍛えるために
では結果として「いい構図」になる写真を撮るにはどうしたらいいのか。
スポーツ選手を思い出してください。
彼らの勝負は、やり直しの効かない一瞬、一瞬の連続です。「いまのタンマ!やり直し!」なんてのが通用するのは草野球か縁側将棋の世界だけですね。
毎回違うその一瞬に対応するために、アスリートは毎日、その一瞬をイメージしながら反復練習しています。最良の結果を出す自分自身をイメージし、その瞬間のベストな体の動きを、自分の体に覚え込ませているのです。
写真家としても、やるべきことは同じではないでしょうか。ただし、写真家が鍛えるべきはフォームではなく、自らの「イメージ力」です。
イメージを鍛えるためには、よい写真を見るしかないと思います。自分が好きだと思える写真をたくさん見て、なぜその写真がいいのか考えるのです。
たくさんよい写真を見る、それがテニスプレイヤーが繰り返しバックハンドストロークの練習をするのと同じ結果をもたらすのです。
よい写真のイメージをたくさん積み重ねることで、まず具体的に身に付くのは「よくない写真を見分ける力」です。何か逆説的な話のように聞こえますが、よくない写真を見分けられるようになると、自分のファインダーの中の像が、シャッターを切るまえに判断できるようになります。
「なんか違うな」というアレですね。撮る前にダメな写真が判断できれば、ダメな写真を生み出さなくて済みます。
ファインダーの中の時点で判断できず、なんとなくシャッターを切ってしまうあなたは、ダメな写真を撮ってしまったカメラマンです。結果として撮ってしまったら、デジタルとはいえ言い訳はできません。
「ダメな写真を量産してしまった」という事実は、意外なほど深く自分自身にダメージを与えます。100枚のダメな写真を撮るより、1枚の納得のいく写真を撮った日のほうが、いい日ですよね。それを繰り返していけば、月に1枚は傑作が撮れるかもしれません。
もちろん、「量を伴わない質はない」という守山大道氏の名言もありますが、それはやみくもな量ではなく、自分の納得できる一定のレベルを伴った作品の量、です。それを積み重ねてこその、評価に値する「質」になるわけです。
なので、自分のファインダーの中に責任を持って、妥協をしない1枚を積み重ねていってください。
構図から撮る写真もある
写真の構図は結果論である、と言い切っておきながら早速覆します。結果ではなく、構図が面白いから撮ってしまった、構図が面白いから写真として成り立つ、という写真もあります。
ワタシも割と好きでよく撮るんですが、幾何学的な、ジオメトリックな(英訳しただけですね)写真とでもいいましょうか。建築物とか、道路標識とか、街の電線でもいいですし、自然の中の構成物でも規則的な連なりが気持ちよい風景などは、幾何学的構図として成り立つことがあります。
そういった構図を発見してしまったときは、思わず撮ってしまうことがよくあります。それは被写体ありきの写真ではなく、構図ありきの抽象的な写真です。
あらゆるものに例外はつきものです。写真の構図は結果論であると言いましたが、こういった写真の場合は構図ありきで成り立つ写真です。例外としてこういったものもある、と覚えておいてください。
写真のなかの「動き」
静止画である写真ですが、構図によって動きを作り出すことができます。
人物、動物など顔がはっきりした被写体の場合、顔の向いている方向にスペースを空けることによって、写真に動きを生み出すことができます。自動車や電車などの乗り物の場合も、車体のフロント前方の空間を開けることで同様の効果を生み出すことができます。
実際にそちらの方向に歩き出している、動こうとしている場合もそうですし、動いていない場合もそちらに意識を向けている、ということはやはり動きを予感させる写真になるわけです。
その場合、画面のアスペクト比(縦横の用紙サイズ)は横長であるべきで、逆に縦位置の構図にしたときは上下方向のスペースに意味を持たせることが大切です。
ちなみに、ブローニーやポラロイド、最近ではチェキ写真のような正方形のスクエア写真には、上下左右どちらの方向にも動きのスペースがありません。しかしそれが逆に、一瞬を切り取った静止感、刹那を切り取ったという切なさみたいな効果を生んでいるのではないでしょうか。