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「中心市街地の活性化」や「まちを賑やかにする」とは何なのかについて

今日は、まちづくり界隈ではよく言われる「中心市街地の活性化」と「まちを賑やかにする」ということについて考えていきたいと思います。

この2つの言葉は、まちづくり界隈で仕事をしていると、あたかも当たり前の共通認識のように、何の疑問を持たれず使われている場面によく遭遇します。

でも、何で「中心市街地は活性化」しないといけないんですかね?
そもそも「活性化」って何をすることなんですかね?

なんで「まちは賑やか」にしないといけないんですかね?
そもそも「賑やか」ってどういう状態を指しているんですかね?

多くの地方都市の駅前は、車社会への対応の失敗から、たいてい駐車場だらけで寂れていて人通りもまばらです。よく「中心市街地活性化基本計画(以下、中活)」などが作られ、再開発ビルがつくられたりというのが当たり前です。私の住むいわき市も今まさに中活が進行中で、いわき駅前には、大きな再開発ビルが建てられようとしています。

その中活計画の中身を見ていくと、目指している中心市街地像として、こんなことが書かれています。

人、暮らし、文化を大切にする豊かさと活力とを備えた中心市街地
「福島県を代表する中核都市の中心部という位置づけを踏まえ、人を大切にする暮らしやすさ と、広域の中心として求められる活発な社会経済活動、人が訪れたくなる魅力あるまちづくり の3つの視点から活性化に取り組む、豊かさと活力とを備えた、賑わいのある中心市街地。」

ほら、ここにも活性化と賑わいという言葉が出てきます。まあ確かにその通りで、否定するものでもなく、まちはそうなってほしいなと私も思います。でも、私が今問題にしている「なぜ中心市街地を活性化」しなくてはならないのか?「なぜ賑わいが必要」なのか?は全部で40P位ある計画を細かく見ていっても明確に言及してはくれないのです。

中心市街地は、商業機能、文化機能、行政機能、居住空間などなど色々なものが集積していて、多くの人が訪れ賑やかであることが当たり前という前提で、それが寂れているのが問題だから活性化するのだというロジックで話が進んでいくのです。

また、多くのイベントなども「まちの活性化」や「まちを賑やかにする」という目的で行われますが、その言葉さえ使っておけば皆なんとなく大義がありそうで良さげな雰囲気を感じてくれるマジックワードになっているんだと思います。

前置きが長くなりましたが、今日はこのマジックワード化している「まちの活性化」と「賑やか」について私なりの意見を書いていきたいと思います。

前提となっているのは、「中心市街地は色々なものが集積していて、人がたくさん訪れ賑やかな場所であるべき」という価値観だと思います。それが、現在、達成されていないから「活性化」すべきで「賑やか」にしないといけない、となる。

じゃあ、中心市街地とは何なのか?ということですが、少しだけできた経緯と歴史を振り返ります。まちの基本形は中心部と周辺部です。ある程度の密度がある都市部と、密度が低い郊外部と言ってもいいでしょう(郊外だけで成立する都市、工場群による都市などもありますが)。現在のまちは、駅を中心として中心部が形成され、そこから徐々に郊外に広がっていくような構造になっているものが多いと思います。歴史を遡ると、城とか、交易の中心になる港や川とかが中心になっていて、そこに駅が出来たりして今の中心部を形づくっていることでしょう。その中心部で歩いていけるくらいの範囲が中心市街地のはずです。

昔の都市では、移動手段のメインは「徒歩」でしたから、歩いていける範囲にすべてが密度高く存在していました。商業空間も居住空間もその範囲にありました。その密度が自動的に担保されていた時代は、黙っていても都市は、商いの中心であり経済発展の装置として機能したはずです。そして時代が進み、移動手段が増え、まず電車やバスなどの公共交通ができたことで都市が拡大し郊外が誕生しました。そして地方では、大都市部ほど公共交通が発展せず、車社会になり一人一台車を持つような時代になると、郊外化はますます進んでいきました。移動手段が車に置き換わっていったことで、郊外にはロードサイドショップが立ち並び、ニュータウンができ、広い道路と駐車場がないと人がどこにも行けないようになっていきました。

そして、まちの中心部では、車社会に対応すべく個別にバラバラと商店主や土地オーナーたちが駐車場をつくっていったことで、中心市街地の強みであった「密度」が破壊されていきました。中心市街地であっても、まばらにしか建物がないような、あたかも「郊外」のような中心部になっていったのです。郊外化した中心部では歩いていける範囲には面白いものは何もなく、あるのは駐車場の海の中にパラパラとある建物だけです。だから皆、中心部にも車で来て、目的地間を車で移動するしかなくなっていったのです。歩ける範囲にコンテンツが集積しているという中心部の一番の強みは、こうして失われていったのです。

これが中心市街地の現在の姿です。まあ時代に合わせて(下手でも)最適化してきたんだったら、別にこれでもいいじゃないかという話もありますが、それを変えるというが「中心市街地を活性化」するということです。つまり、中心市街地を活性化するとは、第一には、空き地や駐車場、空き店舗などを開発する方向に誘導して「中心部のコンテンツの密度を上げること」ことだと思います。

また、よくコンパクトシティ化が必要とも言われます。車だけに依存して郊外に拡張してしまった都市は、インフラ維持の面でも、経済の面でも、人口減少時代にも維持するのは、どう考えても非効率だし難しい。それをコンパクトにまとめていこうという話で、それが中心市街地活性化の理由のように語られることもしばしばですが、私は、それはイコールではないと思っています。

なぜなら、人口減に合わせて都市の規模を縮小しても、郊外の家や店が中心部の今の余剰空間に多少移動するだけで、相変わらず広い道路も駐車場も必要なので、車への対応が同じなら、空間の密度は上がらず中心部が駐車場だらけで歩いても何もない状態は変わらないはずだからです。つまり、「車への対応を変える」ことも必須なわけです。車に乗って来なくてもいいように公共交通を改善したり、駐車場をバラバラにつくっているものをまとめたり、道路にも車の通れないものをつくって歩行者専用空間化したり、歩行者優先にしたりして濃淡をつけることがないと密度高い状態には誘導できないのです。

さらに、ただ密度が高ければいいわけではありません。ナショナルチェーンやドラッグストア、カラオケやコンビニだけが立ち並んでいる街では、郊外のモールと何ら変わらず、わざわざ来たい魅力にはならない。そこにしかない魅力的なコンテンツがあって初めて訪れる理由になるのです。

まとめると、中心市街地を活性化するとは、「中心市街地の車への対応を変え、中心部の密度を上げて、歩ける範囲に、そこにしかない魅力的なコンテンツを集積させる」ことと、「それに向けた活動をする」ことだと私は考えます。単にイベントをやったりすることではないのです。イベントをやってもいいですが、それが、中心市街地にとって本当に意味のあることに繋がっているのかはよく考えないといけません。

次に、中心市街地を活性化しなければならない理由を見ていきます。

まず、都市の一番の力は、集積効果です。色々なコンテンツが密度高くあることで、歩いて楽しいだけでなく、新しい人や多様なコンテンツとの出会いや機会が最大化され、コンテンツ同士の相乗効果やイノベーションも起こり経済発展をも可能にする、都市の成長のエンジンとなります。もちろん低密度な自動車依存都市でも色々なコンテンツはあります。でも、それはそこにアクセスできるのは車を持つ人だけだし、コンテンツ同士の相乗効果も出しにくい。都市の最大の力である集積力は、ある程度のコンテンツの密度がないと達成できないのです。

また、本来、人は、新しい人やモノやコトに出会うために多様性のあるまちを無目的にでも歩きたいのだと思います。郊外のイオンや七夕祭りには、このまちのどこにこんなに人がいたんだろうというほど多くの人が訪れ、しかも難なく長距離を歩き回りますが「都市的な多様性を感じる代替物」でしかその欲求を満たせない(しかも大したものと出会えない)都市は豊かではないし質も低いと言わざるを得ない。

今、中心市街地の活性化が必要だと言われているような地方都市には、歩いて楽しく暮らせるような都市空間はありません。あるのは郊外と、郊外化してしまった中心部です。車がないとどこにも自由に行けないし、何も面白いコンテンツにも出会わない。

そんな都市で一番割を食うのは、車を持たない若年層と高齢者です。なので若者はまちに成長の機会も魅力も感じずより大きな都市へと出ていきます。

都市の力は集積効果という話をしてきましたが、密度高い都市空間を達成できるのは、地方では中心市街地が一番可能性があるのです。だから、中心市街地を活性化(というより再生)しないといけないのだと私は思います。

そして最後に「まちが賑やか」であることについて。賑やかであるというのは、人がたくさんいる状態を指していると考えられます。人がたくさんいれば「賑やか」ではあるので、一過性のイベントなどでの「賑やかし」もたくさん行われます。しかし、イベントが終われば、またいつもの寂れたまちに逆戻りです。

本来やらなくてはいけないのは、歩ける範囲にたくさん魅力的なコンテンツが集積していて人が訪れるから、結果的に「賑やか」な状態なのであって、それを一時つくってもあまり意味はありません。イベントも、中心市街地の継続する日常を変えるための手段の一つとして戦略的に行うならいいですが、「中心市街地の活性化」のために「まちを賑やか」にしているなどというマジックワードに惑わされないでほしいなあと思います。

一方で、例え人がたくさん訪れて「賑やか」になったとしても、魅力のない弱いコンテンツにはお金は使ってくれません。さらに賑わいなんかなくても、集客力のある店には、山の中でも人が来ます。つまり、大事なのは魅力あるコンテンツをどう育て、日常的にまちに集積している状態にどうやってしていくかということであって、賑やかであることではありません。

以上、私なりの「中心市街地を活性化」とは、「中心市街地の車への対応を変え、中心部の密度を上げて、歩ける範囲に、そこにしかない魅力的なコンテンツを集積させることと、それに向けた活動」

中心市街地を活性化(再生)しないといけない理由は、「都市の一番の力は集積効果で、密度高くコンテンツがあるからこそ、歩いて楽しい豊かなまちになるし、人やコンテンツ同士の相乗効果やイノベーションが起こり経済発展もする。その密度を地方でつくれるのは中心市街地が一番可能性があるから」

そして、目指すべき「まちの賑かさ」とは、「魅力的なコンテンツが集積することで結果的に生まれるもの」であるという話でした。

さて、本日もがんばっていきましょー。





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