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noteで思う存分作文をば。

 昔、爆発があった。……おっと失礼。

 30歳になってからだろうか、気が付いたら私は文章を書くのが好きになっていた。
 私石井は子供の頃、文章を書くことがあまり得意ではなかったし好きでもなかった。苦手科目は国語と社会。漢字はまるで覚える気になれなかった。授業で書かされる作文は、大抵かなりの時間を要すか、休み時間を思う存分遊びたいが為に、適当に書き殴るかのどちらかだった。
 感想文なぞ以ての外だ。国語や道徳の教科書の文章を読んだ結果、それに毎回感想があるはずがないのである。それでも先生に指名されたら何かしらキレイな感想を述べなければいけない。まさに「口先だけのキレイ事」だ。それを強要される学校教育は見直した方が良いと思っている。……いや、こんなことが言いたかったのではない。

 このように私は文章を書いていくとどうしても話題から脱線してしまい、何を書いているのかも分からなくなり、次第に何が言いたいのかも分からなくなり、挙句、単純な「怒り」だけが残り感情的な文章を箇条書きのように羅列してしまう、ということがある。
 日常でも私にその節はある。2018年から一種の発達障害であるADHD(注意欠陥・多動性障害)で3年ほど精神科に通院している身だ。表現方法や言葉のチョイス、思考回路は一般の正常な人間と比べたら、良くも悪くも明らかに違うというのは自覚している。どちらかと言えば悪く働くことの方が多いかもしれない。良く言うと「素直で正直」。組織やグループに属するとちょっと面倒くさい存在。友達はほぼいない。私の事が嫌いな人や関わりたくない人は恐らく9割5分を超えるであろう。純粋な日本人でありながら日本人らしくない。それが私だ。

 「個性は大事」だの「尊重する」だの、口に出したこと、あるいは耳にしたことが、誰もが一度はあるだろう。ではそういう人々が個性的もしくは変わっている人と相対したらどうなるか。しかも一対一で。十中八九そこに「尊重」は存在しないだろう。毛嫌いするか避けるか見下すかのどれかだ。
 変わった人の懐に飛び込もうとする人は、恐らくその人も個性を否定されてきた人だろう。私がそうだから。変わった人ほど魅力的に見えてしまう。ただそこに「悪意」が全く無いかと聞かれたら、否定はできない。なぜなら変わっている人は純粋に、「面白い」のである。

 私が文章を書くときは、主に Instagram で、基本的に世の中への不満が爆発したときだ。別にそういうのが趣味ではない。どうしようもない、行き場のない怒りが脳内に収まらなくなる時に、捌け口として綴っているだけで、どうしても皆に読んでもらいたいという物ではない。どうせ Instagram の文章などちゃんと読む人はほとんどいないのだから。
 だが読んでしまうと大抵の人は不愉快になるというのはわかっているので、これでもかなり抑えているつもりだ。もし私の文章を読んでしまって不愉快になった人がいるのであればお詫びしよう。だが読むも読まないもその人の自由なので自己責任で片付けてもらいたい。そもそも「自由」の中に「責任」がなければ、ただの「わがまま」なのである。

 Instagram を主にブログというか、もはや自分の為でしかない「日記」のように扱ってきたが、もはや写真の投稿より文章の作成の方が楽しくなりそうな自分がいることに気が付いた。何かを見る、聞く、嗅ぐ、触る、味わう。その時に私の頭の中はたくさんの単語や文章で溢れる。発達障害ではよくあることかもしれない。その溢れんばかりの単語や文章を実際に綴ることは、私にとってはある種の「デトックス」のようなものなのかもしれない。こんな文章でも今とてもスッキリした気分だ。

 これから日記として日々の記録をこの note に綴っていくことになるかもしれない。気が向いたときだけになるかもわからない。誰の為でもなく、何の為にもならない、赤羽で生まれ育ったちょっと器用貧乏な只の男の、しょうもない日記だ。しかも発達障害の。

 ただこんな文章でも最後まで読んでくれると、なんだかんだ嬉しい石井なのである。

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