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何が嫌いかを突き詰めたい

昨今何かを否定すること,それを公表することが難しくなっているようなきがしてならない.人を傷つけたくない,という気持ちがとてもあるが,すべてを受け入れる(許す)ことが前提となった時代になっているという気持ちがある.許すことが善であり,許さないことが悪ということがうっすら漂っている時代になっている.誰かを傷つけることはもちろん良くないことなのだが,それによって自分の「嫌いだ」という気持ちを無視していると感じる.「嫌いだ」と表明することは,「好きだ」と表明することと同じくらいの大切さであり,自分の輪郭を象る大事な要素だ.そしていま,その「嫌いだ」が軽んじられている.
何なら,「なにかを嫌いだ」と思ってしまっている自分自体が悪いような気がして自己嫌悪してしまうまである.でもそれは間違っていると言いたい.

「自分はここが嫌いだ」と表現することは誰かを否定することとは異なる.一番変わったなと思ったのは「誰も傷つけないお笑い」という触れ込みで有名になった「ぺこぱ」だと思っていて,あの流れは人と人との関わりがコロナによって薄まり,オンライン上の関わりが強くなったためその人の本心にたどり着くことができなくなり,相手の外側しか触れることができないためあの形式が称賛される様になったと思う(ぺこぱのお笑いは僕はとても好きだしとても先進的でとても良いと思っている立場です.).

僕は,許すことが善だと思いこんでいたし自分が許せば上手く収まるのだからそれで良いと生きていた.でも,最近それによって自分の中で上手くいかないところが出てきたように感じています.心のかみ合わせが上手く行かなくなっていて,所々にきしみを感じるような感覚です.この違和感を追っていったところ,「自分が「嫌いだ」と思っていたこと」に蓋をしてしまっていたことに気付きました.嫌だということが憚れる世界になってしまっていて,自分の輪郭がぼやけてしまっていると感じました.自身の輪郭は何を良いと感じるかだけで構成されるものではない.自分の好き,嫌いという2面性がすべて自分自身であるということを自覚して,初めて他者と明確に異なる部分が出てきて自分自身になる.その大事な一面を否定してしまっては自分の形が捉えられなくなって当たり前だ.

ただ,嫌い,ということを外に出すことは人間社会というコミュニティに属する以上完全にノイズであるということも理解しなければならない.
例えば,「私これ好きなんだよね」という会話に対して「俺はそれが嫌い」と表明することは完全なディスコミュニケーションであると理解しなければならない.これは自分の輪郭を形成することとは全く異なる.

自分という輪郭を捉えるためには,自分の「好き」と「嫌い」を知覚(把握)し否定しないということだ.それを外向けに出すのは「自分を理解してほしい」という自分勝手なことだということを肝に命じなければならない.

ただ今感じている「好き」だけを表に出し表面上だけで接し合うことを是とする空間はとても気持ち悪いと感じているし,自分もその一部になっていたことを深く反省している.

自分の中の「嫌い」についても正しく理解して大切にしなければ,自分の中の自分を大切にしなければ,その存在理由は雲散してしまう.自分の存在理由は,「正しく自分が生きていくために自分をどれだけ認識できるか」という点にあり,この人生は自分をどれだけ理解したかというその一点だけといっても良いと思っている(今は).

自分を理解するためには2つ方法があって,一つはずっと書いている「自分の中に潜っていって自分の心に向き合う」という方法で,もう一つは「他人と接することで生じた自分の心の機微に向き合う」という方法だと思っている.

自分の中で「何が好きか」と「何が嫌いか」というものをきちんと理解しつくすことはかなり難しく,結局人間は古来から他者とのコミュニケーションの中に人格を形成していった歴史から,人とのふれあいや意見,考え方,経験に対して自分が何を感じたかを一つ一つ拾っていくしかない.ここでよくある横暴なやり取りとして自分の型にはめて意見を述べるというものがあるが,これは自分のためにも相手のためにもならない.会話はコミュニケーションだが,そこで発生した小さな社会と新たな価値観に接して獲得した自分の好き嫌いの欠片を拾う行為をごっちゃにしてはいけない.生まれた瞬間を白いキャンバスで表現することはよくあるが,どちらかというとパズルのピースを探していくということのほうが近いと感じる.そうして死ぬまでに拾えたピースがどれだけ埋まっていったかが人生の価値であり,ある種作品とする捉えることもできる.

少し話は外れるが,「相手に寄り添う」という行為は相手が埋めたパズルのピースを自分ごとにしていく行為だが,このピースを完全に一致させることはできない(なぜならそのピースは経験したその本人を媒介して発生したものだから).

相手に寄り添うことは基本的には相手が埋めたピースに近いピースを自分から探し出していく行為だが,これがどれだけ近いピースになるかどうかは,同じような経験をするしか方法がない.多くの理解を得るためには,このピースをどれだけ多く拾えたかだと思っている(もしくは多くの人が体験した経験であるかどうか).僕は大衆への理解よりも,そこに溢れた人へ寄り添いたいと考えているから,より多く経験しなければならないと思っているし,それができなければ意見を言うべきではないと思っている.この「自分がどれだけ近いピースを持っており,取り出せるか」というところが言うところの賢さになるんだろう.見当違いのピースを出すのは無理解で押し付けであり,会話が成り立たないのもそれだと思っている.

だから僕はきちんと見つめないといけなくて,僕は君をきちんと見つめなくてはいけなくて,そのために酸いも甘いも得て傷ついて,それでもここで生きていくことを選択していきたい.

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takuma nagashima
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