サポステからの提案を断った理由


僕の行っていたサポステは最悪でした。現在もある意味係争中で、向こうから放置されていますが・・・。

過去の話の中には、まともだなと思うこともありましたが、言われたことの中でちょっと思ったことを書いてみます。


運営団体の作業を勧められる

僕の行っていたサポステは運営主体は地元のNPO。そのNPOが行う”作業”に誘われた。サポステ側の理屈としては、規則正しい生活を送ることで、自分に自信をつける、みたいなことだったと思う。

 何度も誘われたけれど、僕は断り続けた。
理由は、まず作業自体に魅力を感じないということ。NPO所在地までの交通費がかかること。そして何より、就職に結びつく保証がないこと。

サポステの言っている理屈もわかる。規則正しい生活を送ることは、自立への一歩であろう。ただ、なぜ今僕が規則正しい生活を送れていないかといえば、意味がないからだ。もし規則正しい生活を行えば確実に就職が保証されるのなら、考えなくもない。奇跡が起きて、やってみようと思える仕事に就ければ、生活リズムをまともにしようと思う。生活リズムが先か、就職が先か。要は順序なのだ。

自分に自信をつけろというのなら…

そもそも自信を無くしている一つの理由は、自分が必要とされていないと感じるからだ。新卒偏重の雇用環境、応募する気が合っても年齢条件などで応募すらできない環境…それらは自分のせいではない。やる気があっても必要とされないのなら、自信を無くすのは普通のことだと思う。この点において、僕のほうに問題があるとは思えない。やる気をなくさせるような社会の方を変えるべきでは?自信をつけられない僕が悪いのだろうか?

自信をつけられないほど苦しんでいる人の方を変える、という発想が僕には理解できない。たとえて言えば、いじめが起きたとき、いじめられている人の方に行動を求めるようなもの。そもそもいじめ自体が理不尽なのだから、いじめている人のほうを変えるべきだろう。新卒偏重も、年齢制限も法律などで必要ならまだしも、そうでなければやる気のある人を排除する合理性はないだろう。排除自体が理不尽極まりない。

社会のために人がいるのでなく、人のために社会があるのでは?

就職のために自分を変えなきゃいけないって、変わらない人は必要とされない、と言っているようなものなんです。そもそも社会のために人がいるのではない。人のために社会があるんです。でなければ、弱者支援って不必要なことになる。でも実際社会は、弱者に支援をしている。それが社会というものだから。動物のような弱肉強食ではなく、弱者も強者も共に生きられるようにするのが人間の作った”社会性”というもの。なので、社会のために自分を合わせるのではなく、どんな人にもある環境を社会が用意しなければならない。それが社会の命題だと思う。

念のために言うけれど、努力が不要とか、そういうことを言いたいのではない。でも努力を必要とするべきでもない。努力したいと思える環境を用意することが社会の役割。結果として多くの人が努力しようと思える社会が、まともな社会ではないか。

多くの人に生きることを諦めさせ、年間2万人も自殺に追い込んでいる社会は異常なんです。そんな社会に合わせることを考えるより、社会の方を変え生きやすい環境にすることを目指したほうがみんな前向きになれると思う。

社会のほうが変わるべき、なんてことを思っているうちは就職は不可能かもしれません。でも就職のために産まれてきたわけじゃない。

自分の性格に生きづらさを感じているけれど、変えるメリットを感じないし。

普通の人が見たら、差し伸べられた手をはたいているように見えるのかもしれません。でも相手のためにならない、相手が望まないやり方は支援とは言えません。

一時期、ひきこもりをむりやり部屋から引きずり出す業者が問題になったが、それは当事者のためになっただろうか?

僕が求めている支援は、”頑張れば報われることが確実な環境”であって、自分の可能性を上げようとか、そういう気はないんです。

自分を成長させる気がない人間に生きることは無理だというのなら、死なせてほしい。

別に生きたいわけじゃないからさ。



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