ポスドクのためのサバイバルガイド:転職からキャリア構築まで
これまで6回にわたって、「ポスドク」と呼ばれる非正規の研究者が抱える諸問題について考察してきた。このうち、以下の記事は多くの方に読んでいただけたようであり、書き手としては嬉しい限りである。
一億総中流などと呼ばれた時代と違い、今の日本は明らかに階級化社会となっている。そんな中にあって、一流企業の正社員という一見すると特権階級からは程遠い人たちが、実のところ貴族的な身分であるという事実がある種の驚きをもって受け入れられたのだろうと思っている。ポスドク問題という日本社会における局所的なトピックが、多くの人の関心を集める話題と地続きになっているということは、予想外の発見でもあった。
さて今回はこれまでと趣向を変え、実際にポスドクとして人生設計に悩んでいる人に向けたキャリア戦略についてまとめてみたいと思う。私が「ポスドク転職物語」を書いたのは2010年のことであったが、それ以来多くのポスドクの方からキャリア相談を受けてきた。その相談内容については基本的に今も昔も変わらず、またそれに対する私からのアドバイスも大きな変化はない。ポスドク問題の背景には「日本社会のしくみ」という基本的な枠組みがあり、このしくみはそう簡単に変わるようなものではないからだ。ポスドク支援などといった小手先の政策で、日本の雇用システムが簡単に変わるはずがないのである。
1. そもそも博士課程に進学すべきか
博士課程に進学すべきかどうかの相談を受けることも多いが、行きたいのであれば行けば良いし、あまり気が進まないのであれば就職すべきである。いまの日本社会において博士号を取得することによる経済的効果は基本的にゼロである。金銭のことだけ考えるのであれば、就職したほうが良い。就職の間口も修士課程からのほうが遥かに広い。逆に、博士課程からしか就職できないというキャリアは民間企業ではほぼない。
研究室の先生から博士課程の進学を勧められることもあるかと思うが、彼らは思いっきり利害関係者であることに注意が必要だ。研究室運営において博士課程の学生は人件費無料で研究業績を出してくれる美味しい存在である(なんなら授業料という形で大学に収入さえ入る)。甘い言葉で誘い込もうとするインセンティブがあることには十分注意が必要だ。
もし本当に学生の立場に立つのであれば、博士課程進学に伴うリスクについて十分に説明するべきである。今回の連載でも触れている通り、博士課程進学によって大企業の正社員という特権身分になれないことによる逸失利益は、生涯賃金にしておおよそ一億円程度というのが私が出した結論だ。一億円を捨ててでもその研究を極めたいと思う人が博士課程に進学すれば良い。
私自身は今でも博士過程に進学したことを後悔していない。人類の見たことのない景色を初めて見ることができたという意味では、一億円分の価値があったと思っている。ただし卒業後にポスドクとして勤務した研究室はクソ研究室であった。巷ではいまだにブラック研究室などと呼ばれるクソを煮詰めたような闇組織があるので、せめて進学するからには後悔のないラボを選ぶことが肝心だ。
2. 脱ポスドクキャリアの一段回目:とにかく正社員になる
夢中になって研究を続けてきたが、気づいたら次のポストが見つからないまま任期切れを迎えてしまった。体力も金銭も限界だ。そんな人からの相談も多く受けてきた。
そんなポスドクの方々には、まずはお疲れ様と言いたい。あなたが成し遂げた研究成果は、きっとどこかで誰かが引き継ぐはずだ。有史以来、連綿と続いてきた科学の発展のリレーにあなたの功績もしっかりと刻み込まれている。これからは自分の人生をより豊かに生きる方法に注力してほしい。
日本の科学政策に文句の一つもつけたくなるかもしれない。資源の乏しい日本において科学技術の発展こそが国の宝であるにも関わらず、それを担う優秀な研究者人材を優遇せずしてなにが科学技術立国だ、と声を上げたい気持ちもよく分かる。でもそれは今は後回しだ。これはそう簡単に解決できる問題ではない。あえていえばメンバーシップ型の雇用を取り続ける大企業のシステムに問題がある。
転職活動をするにあたってまず目指すべきことは、正社員という身分だ。博士号という勲章を手にしているとはいえ、ポスドクは所詮は非正規の有期雇用だ。実際に正社員になってみるとわかるが、任期を気にせずに毎月決まった金額の給料が振り込まれるというのは、それだけで大きな心の安寧につながる。これは新卒で正社員雇用された普通の人には一生わからない感覚だろう。
転職にあたっては、「職種」と「業種」の2つの軸をベースに整理するとよいだろう。多くのポスドクは「研究職」という職種での転職を考えることになると思うが、これにこだわりすぎると失敗する可能性が高い。世の中には研究職以外にも、さまざまなノンリサーチ職がある。その中から、自分のやりたいこと、できることの重なる範囲がもっとも大きくなるエリアを探すのが良い。そうすれば自ずと、どういった業種で活躍できそうなのかといった全体像が見えてくる。私の場合で言えば、「外資系の科学機器メーカー」という業種において、「フィールドアプリケーション」という職種がそれにあたる。
転職にあたっては転職エージェントを使い倒そう。転職について相談に乗ってくれるだけでなく、書類や面接対応などすべて無料でおこなってくれる。彼らは転職先の企業から成功報酬をもらうというビジネスモデルなので、遠慮せずに使うべきだ。なおエージェントの担当コンサルタントは正直言って当たり外れがかなりあるので、複数のエージェント会社を併用するのが良いだろう。
3. 脱ポスドクキャリアの二段回目:転職を繰り返しながらキャリアを築く
民間企業への最初の転職の目標は、とにかく正社員になることだ。年収については二の次で良い。とはいっても、非正規雇用のポスドク時代の待遇からはかなり上がるはずだ。具体的には年収500万円代というのが一つの基準となる。
日系の大手企業であれば、年齢を重ねるにつれて年収がどんどん上がっていくのであろうが、残念ながらポスドクからの転職でそういった企業へ転職できる可能性は低い。多くの場合、賃金の上昇幅は極めて低くなっており、インセンティブの占める割合が多い場合では会社業績によってむしろ年収が下がることさえある。
もしあなたが一生涯年収500万円で構わないというのであれば、問題ない。金銭的な価値を最優先しない生き方も当然ありえるし、なにより無期雇用という生活を手に入れたことは大きい。実際、趣味や社会活動に力を入れて仕事をそこそこ、という人も多く見てきた。
一方で、せっかくポスドクのキャリアを捨てて民間企業に転職したのだから、積極的にステップアップしたいと考えるのも当然だ。その場合、おすすめなのは転職を繰り返しながらキャリアを築く方法である。
労働というのは基本的には交換可能な歯車として組織に貢献することである。(これの唯一の例外がメンバーシップ型企業に新卒に入ることだ)。歯車として組み込まれた以上、そこでどれほど努力したとしてもキャリアアップできる保証はない。それならば、新しい企業を探してもう少し別の歯車として活躍できる道を探したほうが効率が良い。
社会人経験のないポスドクからの転職と違い、いまのあなたは職歴を積んだれっきとしたプロフェッショナルだ。その人材を高値で買ってくれる企業を見つけるのはそれほど難しい作業ではないだろう。具体的に、3年間くらい働いたあとに転職を検討するとよいだろう(ただし転職してしまうと住宅ローンが組めなくなる可能性があるので、その点は注意が必要だ)。全く同じ職種にも関わらず、転職しただけで年収や待遇が上がるというのはよくあるケースだ。
転職によるキャリアビルディングで目指すべき年収は、ずばり800万円代だ。この金額があれば、都内で家族を養うのに十分だし、貯蓄や投資に回す余裕も出てくる。仕事の強度も強くなく、豊かな生活を送れるラインと言ってよいだろう。もちろん、日系の大企業に勤めればこれより多くもらうことは可能だ。しかし彼らはあくまでも貴族なのであって、困難辛苦をなめたポスドクが目指すべき道ではない。
4. まとめ
キャリアの築き方は人ぞれぞれであるので、ここで書いた方法が全てであるとはもちろん言わない。人によってはコンサルや金融関係のような華やかな道に進み、世間的に見れば成功者といわれるようなキャリアを歩む場合もありうる。生存者バイアスの問題もあり、このような人ほど積極的に情報発信しているという側面も大きい。
ポスドクとして研究者の道を進んだにも関わらず、にっちもさっちも行かなくなっているような人は、良くも悪くも浮世離れしているところが多いのも事実だ。こうした人ほどあせって非正規雇用の研究職に絡め取られて糊口をしのぐというのは、よくある風景である。この文章が、そうした人の人生に少しでも役に立ってくれたらと思う。個人的な相談はいつでも受け付けているので、質問などあればX (twitter) のDMにメッセージを送っていただければ、できるかぎりのことはするつもりだ。