③「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」の真意を想像する
これから先はネタバレです!
前の記事でもご紹介したようにこの映画は、1920年から1968年の間を行き来して、観客を幻惑します。大まかにいうとこんな形です。
「1933」→「1968」→「1920」→「1968」→「1932~33」→「1968」→「1933」
1984年のアメリカ公開バージョンでは、このすべてがレオーネ監督の意向とは別のところで「時系列」に編集しなおされています。Youtubeでも一部が見られますが、こうです。
「1920」→「1932~1933」→「1968」
ニューヨーク喧騒の街角から始まり、のぞき穴からデボラを見ているヌードルス少年のシーンが最初のシーンです。そして、エンディングの有名な「阿片窟の笑顔」もありません。マックスとヌードルスが再会し、二人が別れた後、ヌードルスが振り返ると銃声がして突如ジ・エンド。なんとゴミ収集車もでてきません。
レオーネは、アメリカ公開版を「私の映画ではない」と語っていたといわれています。しかし、まさにこのバージョンがあるおかげでレオーネの意図が浮かび上がるように思います。
私の結論から申します。
「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」はまさに観客を幻惑するために意図的にこうした複雑な構成を持っている。そう考えています。
まさに幻惑されるために見た方がよい、幻惑されて感じることがすべて!それぞれの解釈が心に残ることが狙いだと今は感じています。この映画では、ヌードルスたちが持っている「記憶」「物語」「歴史」は、どれももっともらしく語られますが、いずれも謎を残し、完全な真実かどうかは描かれていません。ヌードルスが信じる過去も、マックスがこうだったと主張する過去もあり得る。阿片でみた夢かもしれないし、老いて直面した現実かもしれない。この映画では、その「記憶」を直接ぶつけあう対決がクライマックスになっていますが、その決着は付かないまま、あえて曖昧なまま終わります。
記憶≠真実。
よく考えたら「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」という昔話の導入で使われる「むかーし、むかしアメリカでこんなことがあったとさ・・・」という定型句もヒントのように思えます。これはある話者が自分の視点で記憶を語るよ、という前口上の意味かもしれません。
しかし、それは真実とは限らない。
それぞれの「真実」がアメリカという土地で交錯し、そして、そうした「真実」が互いに決して交わらない。まさにそれこそがアメリカの「真実」では?というメッセージをレオーネは映画に込めたのではないでしょうか?
今、分断の時代と言われていますが、記憶の分断というのを主題にもってきてアメリカを描いたのではないか?だとしたらレオーネの先見の明はすごいですね。
この映画の複雑な構成は、それぞれの真実を支える「記憶」というものの実態を、観客にも体験させるために、4時間の映像体験を用意したと考えた方が自然です。我々の脳は、勝手に論理を補い、ないことを作り出し、あるいはあったことを忘れ、あるいは歪め、選択的に記憶し、願望も悪夢もはらみ、無意識的に時空を自在に動き回ります。
何が本当におきた出来事で、何が妄想なのか?
果たして本当に起きたことだけが真実なのか?
人が信じている物語は真実ではないのか?
映画は、あらゆる曖昧さを駆使しながら、最終的なテーマだと思われる「記憶と真実の関係」についてまで考えさせます。そうした人生の真理についての体験型哲学的実験装置。それがこの映画。かつてない斬新なストーリーテリングに挑戦しているのだと私は考えています。
最後にマックスに出会ったヌードルスはこう言っています。
通常の映画だと、「実は、マックスは生きていたのです」というタネアカシが重要なポイントになります。
でも、この映画は“真実”が暴露されたあとも、それを主人公が否認し続けるんです。タネアカシが本当かどうかも曖昧にして終わります。ゴミ収集車への飛び込みも、阿片窟の笑顔も、そうです。二重に「本当はどうだったのか」を曖昧にして、「本当はどうだったのかを認め合わない二人」を浮き彫りにしていきます。
人にはそれぞれ記憶がある。それぞれの真実がある。
しかし、同じ時間を過ごしたはずの親友でさえ、それは互いにくいちがう。
そんな映画「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」。次回は、登場人物の相関関係や描き方から、「なぜアメリカなのか?」ということを妄想していきたいと思います。