シスターフッドの福音
女の子から、かなしい相談を受けるときがある。彼女たちがだれかにひどいことを言われたり、されたりしたという話をきくたびに、そしてそれが「女の子だから」ということと少なからず結びついていることがわかるたび、ひたひたと粘度の高い絶望が靴底から侵入してくるような気持ちになる。靴を脱いだって解決はしない。「女の子」という文脈について、けっきょくどのように扱えばよいのか世界ではいまだ紛争中らしい。あまりに語るべきことが多いために語ることをこわがっているのだけれど、それでもいつだってわたしは、女の子の幸福を祈っている。
『21世紀の女の子』という映画を見逃してしまったことを後悔していたところ、再上映+山戸結希監督を含む製作陣のトークイベントがあるときいて、先週末はTAMA映画フォーラムの特別上映にでかけていった。うちから1時間半以上かけて、京王永山という駅にはじめて降りた。昭和のかおり、ときっと称されるであろう駅前の風景はいかにも典型的な多摩の街というかんじで、『耳をすませば』の舞台のようで好感がもてた(あれのモデルは聖蹟桜ヶ丘という、まぎれもない典型的な多摩の街なので当然なのだが)。のどかな団地というのはほどよく湿って、青々としていて、なにより公共的だ。公共的という言葉の似合う街があまりないような気がするのは、いやらしさのない知性と清潔さを兼ね備えることが街にとってむずかしいからだ。東京とひとくちに言っても、いろいろな街がある。そのことをわかっているので、歌や小説や映画で十把一絡げに「東京とは」みたいなことを描かれるとうんざりしてしまう。女の子だってそうだ。あたりまえに、いろいろな女の子がいる。
上映会はかなりよかった。ベルブホールという、中規模な公民館のホールで行われたそれはじつにローカルな雰囲気がただよっていて、いまはすこし遠くなってしまった学生時代の夏休みのことをすこしだけ思い出した。ホールの廊下から蝉がうわんわんわんと鳴いているのが遠く聞こえたことが、真夏の大学でよくみた景色と似ていたせいだと思う。受付を済ませてあたりを見回せば、観客として来ていた人々はおしゃれをした女の子ばかりで、そこだけがおとぎ話みたいですてきだった。この日、一番気に入っているワンピースを着ていったことに安心した。
映画『21世紀の女の子』とは?
21世紀の東京には、個性豊かな、「映画の女の子」たちが生きています。
暗闇の内側で、その姿を輝かす彼女たちは、この宇宙では、まだ、とても貴重な一等星だと名指されるのでした。
本作品には、映画の未来の星々そのものである、15名の新進監督がチャレンジを表明。手渡された封筒はたった一つ、
“自分自身のセクシャリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること”
全篇に貫かれた共通のテーマを、各々の地点から、8分以内の短編で表現し、1本のオムニバス作品となります。
21世紀の女の子の、女の子による、女の子のための、とびっきりの映画たち。真の「21世紀の女の子」の姿を、あなたの目で、私たちの目で、確認してみましょう。(映画公式サイトより引用)
8分の短編を15本というめまぐるしいつくりながらも、作品のすべての輪郭を覚えることができた。もちろん印象の差はあれど、すべて記憶に残っているというのは、けっこうすごいことなのかもしれない。描ききれていなさや足りなさがあったとして、それはきっとこれから先にカメラを持つ女の子が補完してゆくのだろう。そう感じたのがわたしだけでないといいなと思う。
とりわけ、どうしてもというほかないのだけれど、やっぱり山戸監督の上映作『離ればなれの花々へ』は、とにかく良すぎて、後半のほうなんかぼろぼろ泣いてしまった。薔薇園にたたずむ3人の女の子が、うたうように踊るように、膨大なせりふを読み上げていくだけの数分間なのに、心臓がだれかに触られているみたいにふるえだして、そうしたかったわけではないのに涙がでた。あまりに幻想的な画のなかで、重ねられていく言葉はだくだくとした放水のように痛切だった。あんなふうにまなざしてくれるひとがいるのなら、きっと女の子はだいじょうぶだ。
すばらしかったことに、エンドロールがおわって劇場が明るくなると、前に座っていた女の子も、その斜め前に座っていた女の子もハンカチで目を拭っていた。たったいままでわたしたちは、あざやかな出産の瞬間をみていたのだった。スクリーンという産道をとおって、やわらかな光をまといながら女の子がひとり、またひとりとうまれてくる。そのうつくしいことといったら。
「いざ孤独な世界へ」
「わたしよりも孤独な人と出会おう」
くらやみから聞こえたせりふは解放であり、精神であり、または福音だった。わたしたちの指や髪の一本一本に、うまれながら目にはみえない細い鎖が絡みついている。そのことを自覚している女の子のすべてが、それらをじぶんの意志で断ち切っていけるわけではない。断つことができなくて抗う一方で、それをじょうずに操ってだれかを利用することもできる。女の子にゆるされた甘さを、いらないと撥ね退けてみせる強さをもてることが、じつのところ最もむずかしいことなのかもしれない。わたしにはまだぜんぜん自信がない。「女の子が女の子であること」という言葉がほんとうの意味をもってあらわれるとき、それにはかならず痛みを伴うのだと思う。
それでも女の子たち、どんな顔をしていても、どんな声をしていても、どんな服を着ていたとしても、どうかどうかだれのものにもならずにいてほしい。じぶんの足で立ってじぶんの頭で考えて、わたし自身がほかならぬわたしであることを、その存在を、あきらめないでほしいと願っている。ずっとずっと先のほうまで、ひとりになってきらめいていこう。ゆらいでは凪ぐ夜のむこうで手をとりあって、孤独な星々は銀河になる。