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「底辺職ランキング」という記事を作る仕事こそなくなる日

少し前に「底辺職ランキング」なる記事が話題になっていましたが、あそこにランクインしていた職業が金銭的にも社会的地位においてもあまり良い待遇をされていないというのは、多くの人の体感として概ね現実であると言っていいと思います。
(実際私の家族にはあそこにランクインしている職に従事している者が多いのですが、必要不可欠にもかかわらず、話を聞いていても待遇が良いとは決して言えません)

コロナ禍では、あそこに記載されていた職種をまとめて「必要不可欠な仕事=エッセンシャルワーク」と呼び、話題になりました。
今回の不愉快極まりない記事が多くの批判を浴びあそこまで拡散されるというのは、冷遇されている職種に対する社会からの視線が変化してきている、と前向きに捉えることもできそうですし、そう思った方が健康的に過ごせそうです。

それで、少し前にイギリスのジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートが記した新刊「頭 手 心 偏った能力主義への挑戦と必要不可欠な仕事の未来」(原題:HEAD HAND HEART)の邦訳を担当しました。
イギリスのEU離脱(ブレグジット)の背景を丹念に取材して分析したことで知られる著者ですが、この新著はタイトル通り「頭脳労働」「肉体労働」「感情労働」の欧米における過去・現実・未来予測を記した内容になっています。

発売に際して、彼の分析を借りながら日本に置き換えて書いた記事で、残念ながらお蔵入りになってしまったものがありますので、底辺職が話題のこの機会に貼り付けておきます。

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〝頭が良い〟とされる人間が給料をもらい過ぎている

少々語り尽くされたことだが、今日の先進国において、学歴と収入には明確な相関関係がある。私たちは偏差値や学力などの数値化できる「認知能力」で社会から評価され、それが上位の者は経済的な恩恵を受けやすい、という仕組みの中で生きている。近年、学力以外の数値化できない「非認知能力」の重要性が叫ばれてきてはいるが、「認知能力」偏重のシステムが未だに力を持っているというのが現状である。

アメリカの社会学者であるマイケル・ヤングが、こういった認知能力エリートが牛耳る社会を「能力主義社会」と批判したのは、約60年前である。ヤングは「知能指数+努力」というのが、この能力主義社会で人より抜きん出る必要条件であると指摘したが、これは現代を生きる私たちにも実感できることである。

むしろグローバル化に伴ってこの傾向はさらに強まっている上、ごく身近なところで言えば、「東大」を冠にした番組や「高学歴」をうたった芸能人がクイズに答える光景が日常的にお茶の間で流されているのも、こういった社会を肯定する現象と言えなくもない。

学歴と収入

システムに目を向けると、日本においては「新卒一括採用」が一般化しているが、「非認知能力」云々の前に四年制大学を卒業しているか否かで、就職できる企業の選択肢が限られてしまうという現実がある。四年制大学を卒業している人とそれ以外の人の賃金格差にしても、本当に能力があるかは別にして、「能力がある」と教育システムが認めた者が優遇される社会になっていることはデータからも明らかである。
厚労省の「令和2年賃金構造基本統計調査」の学歴別のページを見ると、それははっきり数値に表れている。平均年収を見てみると、男性では、大学院卒465万2000円、大卒391万9000円、高専・短大卒345万5000円、専門学校卒 309万3000円、高卒295万円となっている。女性では、大学院404万3000円、大卒288万3000円、高専・短大卒258万円、専門学校卒263万4000円、高校卒 218万円となっている。
*出典:令和2年賃金構造基本統計調査
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/chingin/kouzou/z2020/dl/03.pdf

いまさらいうことでもなさそうだが、このように学歴による収入差は明らかにある。

ただ、日本においては多くの企業で年功序列の給与体系が維持されており、完全なる能力主義か? と言われればそうとも言えない、ということには留意しておく必要があるだろう。

日本以上に辛いアメリカとイギリスの能力主義

対して日本よりも、欧米圏、特にアメリカとイギリスにおける「能力主義」の問題はもっと根深い。「認知能力」が高いとされる人々、もっとわかりやすく言えば「インテリ」が良い思いをし過ぎたことが、社会的な分断を招いている大きな要因であるということを、多くの論者があらゆるところで語っている。
そのうちの一人、イギリスのEU離脱の背景を鋭く分析したことで定評ある英国人ジャーナリスト、デイヴィッド・グッドハートは、新著「頭 手 心 偏った能力主義への挑戦と必要不可欠な仕事の未来」で次のように指摘する。

この数十年間、欧米の民主主義社会は効率性、公正さ、進歩に関心を寄せるあまり、もっとも能力のある者だけが成功し、その他大勢は自分を落ちこぼれと思い込むような競争システムを構築してきたのだ。では、もっとも能力のある者とはどういう人間だろう? 高いレベルの認知能力の持ち主、あるいは少なくともそうした能力を持っていると教育システムから認められた人々だ。人間の資質の一形態にすぎない認知・分析能力――学校の試験に合格し、職業生活において情報の効率的な処理に資する能力――が人の絶対的な評価基準になっていた。そして、こうした資質に運よく恵まれた者は新たな広がりを見せる認知能力に長けた階層、つまり大衆エリートを形成し、今やおおっぴらに自分たちの利益につながるように社会の方向性を決めている。もっと歯に衣着せぬ言い方をさせてもらうなら、頭のいい連中が力をつけ過ぎたのだ。(第一章「頭脳重視の絶頂期」より)

出典「頭 手 心 偏った能力主義への挑戦と必要不可欠な仕事の未来」

問題なのは、グッドハートが言うように「高いレベルの認知能力の持ち主、あるいは少なくともそうした能力を持っていると教育システムから認められた人々」だけが良い思いをし、それ以外の人が疎外感を抱くようなシステムが固定化されてしまっている現実に他ならない。
60年前にヤングが批判した時よりも、能力主義は社会を侵食し、その歪みが顕在化しているのである。

その顕在化した問題の1つに、「絶望死」がある。2015年にノーベル経済学賞を受賞している経済学者のアンガス・ディートンと、同じく経済学者のアン・ケースが提唱し、その定義は「ドラッグやアルコール、自殺など、絶望からくる死」としている。そして、この絶望死を選択する者は、非大卒の貧困層(白人労働者階級)に多いという※。
https://jp.reuters.com/article/usa-death-failure-column-idJPKBN17218X

※「絶望死のアメリカ 資本主義がめざすべきもの」 著者=アン・ケース、アンガス・ディートン/訳者=松本裕/みすず書房/2021年邦訳

どうしてこのような状況になってしまったのだろうか。それは「公平さや進歩」を追い求めてきた結果だと、グッドハートは指摘している。

現代社会において、認知能力が地位と恩恵をもたらす中心的存在だった背景には、根本的な理由がふたつある。第一に、工業化社会経済とそれに続く脱工業化社会経済が、平均以上の認知能力を持つ、非常に有能な専門職の人をとにかく求めたからだ。第二に、人を起用し、昇任させ、恩恵を与えるには、認知能力にもとづくのが公平と思われるからだ。ただし、認知能力は一部遺伝するし、認知能力の測定のためにIQテストを使用してもすべてを測定できるとは限らない点から考えると、この公平性に限界があるのもたしかである。(第九章「知識労働者の失墜」)

親が金持ちなら子も金持ちになる


機会の公平性を正義とし、認知能力に基づく社会システムが築かれてきたのはある意味で正しいことのように思える。
しかし難しいのは生まれた環境、つまり、親の階層によって子供の階層まで固定化されやすいという現実だ。
平たく言えば、親が高学歴の金持ちなら子も高学歴の金持ちになる確率が高い※。
元々はそういった階層の固定化をなくし、健全な競争のもとに公平な社会を目指そうとしてきたのにもかかわらず、結果的にうまくいっていない。
このことは改めて認識しておく必要がある。
思い描いていたのとは逆に、階層が固定化され、格差が広がってしまっている。これは「どんなに頭が良くても思い描いた社会は作れない」という事実に他ならない。
(参考:「親の所得・家庭環境と子どもの学力の関係:国際比較を考慮に入れて」https://www.nier.go.jp/05_kenkyu_seika/pdf_seika/h28/nier_dps_008_201803.pdf

中途半端な頭脳労働はAIに取って代わられる?


とはいえ、子を持つ親であれば、子供に良い教育を受けさせたい。辛い思いをさせたくないと思うのが普通であり、なかなかこの状況は変わりそうもない。
能力主義を全否定して競争をなくし、どんな者にも高度な知能を必要とする職に就くチャンスを与えれば良いのだろうか? そんなことはできないし、そもそも逆戻りしてしまう恐れがある。
率直に言えば、「こうすれば良いですよ」という明確な答えはどこにもないのだが、前出のグッドハートは、世界的なコンサル会社のマッキンゼー&カンパニーのレポートを示しながら次のようなことを言っている。

将来の仕事について予測すると、知識労働者(とくに中レベルと低レベル)の減少・凋落はさらに確かなものとなる。「頭」の仕事に対する需要はこれからも続くが、もっとも優秀で創造力に長けた人々にだけ集中するはずだ。そして、需要がもっとも急増するのは、「心」の仕事と、「頭」と「手」を組み合わせた技術的な仕事となるだろう。
(中略)
コンサルト企業であるマッキンゼー・アンド・カンパニーは、アメリカで仕事に費やされる総時間の一八パーセントは「予想可能な身体的活動」に注ぎ込まれており、そうした時間の半分は現在の技術でもオートメーション化によって削減できるとする。このマッキンゼー社の報告はアメリカにおける二五種類の技能の今後の見通しを考察しているが、それらの技能は五つの大きなカテゴリーに大別されている。手を使う身体的技能、基本的な認知能力を要する技能、高度な認知能力を要する技能、社会的・感情的技能、科学技術的技能の五つだ。結論としては、二〇一六年から二〇三〇年のあいだに、旧態依然とした「手を使う身体的技能」に費やされる時間は一一パーセント減少するという(もっとも、二〇三〇年になっても国全体で仕事に費やされる総時間の二六パーセントがこの技能に費やされ、相変わらずトップのままだ)。同じ期間内に「基本的な認知能力を要する技能」については一四パーセント減、「高度な認知能力を要する技能」については九パーセント増(ただし、全体に占める割合は増えず、二〇三〇年も二二パーセントのまま)、「社会的・感情的技能」については二六パーセント増、「科学技術的技能」は桁外れの六〇パーセント増(もっとも、全体に占める割合は変わらず、二〇三〇年もわずか一六パーセント)と予想される。
※Skill shift: Automation and the future of the workforce
https://www.mckinsey.com/featured-insights/future-of-work/skill-shift-automation-and-the-future-of-the-workforce

ここでいう知識経済というのは、認知能力が高いとされる者が優遇される社会と置き換えられるが、それが縮小の時を迎えているというのである。少々乱暴であるが、「中途半端な頭脳労働はAIに取って代わられ、より高度な頭脳もしくは感情や肉体を伴う労働の必要性が増している」と捉えることができるだろう。

さらにグッドハートはその傾向が「コロナ禍によって弾みがつく」と語る。なぜなら、コロナという未曾有のウイルスが、否応なく、医療従事者や清掃員、保育士、介護士など必要不可欠な仕事とされる「エッセンシャルワーカー」に光を当てたからだ。中途半端な頭脳労働のオートメーション化とも相まって、社会にとって必要な能力のバランス(グッドハートはこれを「頭」「手」「心」と呼ぶ)が改善される兆しが見えているのは、健全な社会の実現に向けた一歩なのかもしれない。

中間がなくなり、格差は開く?

ただ、このマッキンゼーのレポートは少し違った見方ができなくもない。少々乱暴かもしれないが、「高度な認知能力を有する仕事」と「必要不可欠とされる仕事」が求められる一方で、その中間にある仕事がなくなるという見方である。
そして「中間の仕事」というのは、私たちが従事する大半の職種に当てはまるのではないだろうか。今、私自身が書いているこの原稿も社会にとって必要不可欠な仕事かと問われれば、全くそんなことはないだろう。

こうして冷静に考えてみると、世の中に「本当に必要な仕事」なんてどの程度あるだろう? おそらくほとんどない。
「代えの効かない人物」と評価されていた人がいなくなったあとの組織が機能不全でどうにもならなくなるなんてことが頻繁に起こるだろうか? ほとんど起こらない。

今、アメリカの社会問題になっている「絶望死」は、低学歴の白人貧困層に多い。その背景には社会からの疎外感があるとされるが、上のように解釈すると、疎外感を感じる人の数は今後増える一方になってしまわないだろうか(数が増えれば逆に一体感が出ると言えそうでもあるが……)。

どんな出自の者でも自らの能力を証明できれば、機会が与えられ、社会的成功を手にできる。能力主義の根底には、この「アメリカン・ドリーム」という思想があったはずだ。日本にしてもアメリカに倣えと、壮大で公平で平等な開かれた社会を夢見てきた訳であるが、数十年経ってそれが多くの人にとって「絶望」をもたらすのだとしたら、あまりにも辛いものである。

文責:白戸翔(実業之日本社)

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