うちの子たち。
「名前は未だない」と言ったのは先生んちの猫だった。
花には名前があるけれど、それは猫を「猫」と呼ぶように、私の花に付けられた「名前」は、まだなかった。
ので考えたいと思います!!(勢いでごまかす癖がある)
名前がないのはコチラ。
お正月前に寄せ植えした、黒松と南天(紅葉してる葉の木)と、手前にちょこんと添えられた雛草(ヒナソウ)。
南天は、「難を転ずる」という言葉から想像できるように、縁起のいい木です。
雛草は多年草で、暖かくなると花が咲くと言われました。
そして、3月に入って雛草から白いつぼみがぽつぽつ見えてきたり、ついに花が咲いたり!かわいい〜。
ちいちゃいね。
黒松はまだ若い木らしく、まずはまっすぐ生やしている。いつか曲げるのかなあ。先生のアドバイス次第。
私の中で、松って、あんまり印象がなくて。古い木はかっこいいけど、ちくちく痛いしなあ。苦手ってほどではないけど、あんまり感情がない。
これから剪定したり、曲げたりしながら愛着が湧くといいな。
そもそもだけど、なんで名前を付けるのか。
私は昔から、モノに名前を付けるのが好きだった。ぬいぐるみはもちろん、プリンターとか、日記とか、普通擬人化しないようなものにも名前を付けた。
多分だけど、そうすることで、自分の気持ちをうまく吐き出せてたんだなあ。
プリンターが動かない!イライラ!!って気持ちを、「オマエもさあ、いい加減機嫌直してくれよ〜」とか言いながらよしよししていると、自分の気持ちが落ち着くし、なんとなく気持ちが通うような気がする。そんな瞬間がくる。
振り返れば、そういうのが楽しかったように思う。
大人になって、名前を付けることが少なくなった。
もし、「気持ちを吐き出す」ための名前付け→擬人化だったなら、大きくなってそれをする必要がなんらかの理由でなくなったから、かもなあ。
知らんけど。
あれっもしかしてこの記事長くない?中身無いのに、無駄に長くない?
本題に戻る。
お正月の縁起の良い寄せ植えだから、おめでたい名前がいいなあ。
ことぶきとか。
せっかくだったら植物じゃない自然の名前がいいなあ。
スバルとか。
なんだろう、
賀正、祝賀、松竹梅、門松、お年玉、鏡餅、盛者必衰、大我、
ああ、大我、いい言葉だな。
「①(仏教で)我見・我執を離れた、自由自在な心の境地。②(哲学で)宇宙の、唯一絶対の真理。たいが。」
制限された鉢の中と、自由自在な心の境地、なんて、マッチしすぎじゃないか。
やたら中二病すぎる。知ってる。