N響の対応への批判とコロナ禍を経た「代役」の考え方
意外と周囲には知られていないが、私はオーケストラの演奏会にかなりの頻度で足を運んでいる。学生席の恩恵に預かり、特に在京オケはたくさんの公演を聴いてきた。
今までは一回券を取っていたN響も、ユース会員になって数年が経つ。しかし、そんなN響の今回の対応にはすっかり失望した。
演奏会の出演者が変更になることは決して少なくないことだ。いつだったか、読響とスクロヴァチェフスキの公演が代役でロジェストヴェンスキーになった時には驚いたものだ。高齢の名匠から老齢の巨匠へ。ブルックナーの5番のシャルク版(指揮者変更の際に、曲目はそのまま、版の変更が発表となった)というレアな回を体験し、きわめて素晴らしい演奏に感動したのが今でも忘れられない。
今回、N響の11月A定期はフェドセーエフの来日が決まっており、チャイコフスキーなどロシアの作曲家の演目が予定されていた。しかし、本番10日前の11/15に指揮者の来日中止が発表され、代役にN響の研究員2人が前後半を振り分けるというプログラムになった。曲目変更は行わず、払い戻しもされない。
そもそも、代役というのはふつう事務方が同程度の技量や知名度をもつ音楽家を招聘するものだろう。クラシックの演奏会以外でも、香盤の近い演者が舞台に上がることは当たり前である。
それが、若い指揮者を迎えることとなり、払い戻しもしませんと言う。こうなっては、プログラムの見た目はもはや都民芸術フェスティバルであり、N響が誇る看板公演の「定期演奏会」という様相がすっかり失われてしまった。フェドセーエフ目当ての聴衆は間違いなく多いであろうし、当初からこの演目だったらどのくらいの客入りになるだろうか。
ここで一つ、事務方や聴衆に投げかけたい。
コロナ禍を経た今日、我々は代役に対する考え方を極度に甘くしてはいないだろうか?
2020年から長い間続いた演奏会の中止や出演者の変更。来日するはずの音楽家が次々とその中止を発表し、日本の若手や中堅の人物が登用されてきた。日本の指揮者といえば、オーケストラの定期に出演するような人物は両手指に収まるくらいだろう。色々なオケの会員になっている身としては、ああまたこの指揮者か、あの指揮者かとなってしまう。翌年にはあちこちの会員をやめ、公演数日前のリハーサルが始まったことを知ってからチケットを買うようにもなった。オーケストラによってはなんとか出演者のレベルを保ちつつ、演奏会の成立を画策したりもしていたが、そうでない場合は期待していた演奏になることがなかった。
私は決して出演者ガチャをしたいわけではない。
そんな負の約2年間を経た今、代役を同レベルの音楽家から選出するという本来なら当然の行為を放棄しているようにも見える。
ただ、N響10月A定期のブロムシュテット来日中止を踏まえ、公演を中止としたのは大英断だと思う。直前になってブルックナーの大規模な交響曲を振れる指揮者が見つからなかっただけなのかもしれないが。
多くの定期会員を抱える日本屈指のオーケストラが、間違いなく名演を作るであろう指揮者の降板を発表し、若手の研究員に棒を託す。そしてマエストロありきのプログラムを変更なく振らせ、チケットの減額も払い戻しもない。
フェドセーエフのようなクラスの人物が来日できず、他の有力な指揮者も招聘できないとあれば、公演自体を中止にするのが妥当であろう。
これは券面の但し書き以前の問題だ。
今回のN響の対応を簡単に言えば、聴衆を裏切るありえない行為である。