音楽と「知情意」
ある方から小林秀雄と岡潔の対談本『人間の建設』をお借りした。難しかったので小林秀雄の評論は今まで避けていたのだが、そう感じていたのも中高生の頃の話。この本を読むまでそんなことすら忘れていたが、意を決して読み始まるとこれが面白い。数学者との対話ということもあり、互いの分野を噛み砕いて議論してくれたのが助かった(とはいえ二人の理解力や素養の水準が別格なので、空中で話が進んでいく感覚にもなった)。
数学や物理に関すること、両者の哲学的な問い、和と洋の文化の有り様、民族性の違いなど話題は多岐にわたっている。絵画や音楽など芸術に関する対話が序盤にあったので、のめり込むように読み進めていった。
そんな折、ふいに出てきた「知情意」というキーワードに私は本を離れて思考を巡らせた。
カントも言ったというこの言葉。これをごく簡単に言えば、知性・感情・意志の三要素を表していて、うまいことバランスよく保ちましょうというような話。音楽ももれなく全ての要素が絡んでくるだろう。
最近流行りの演奏には "情" ばかりが全面に出ていると言って否定されることはそうないと思う。
私は大学に入る前からこの感情主義的な演奏に嫌気がさしていたので "知" について考えることが多かったのだが、"意" の要素はさらに難しい気がする。
音楽を何の裏付けもなく感情的に捉えることは簡単だ。それに加えて、あるいは反して、知性をもって音楽を見つめることは、ある程度の知識やそのための技術がなければ不可能である。でもやろうとすれば比較的簡単にできることだ。私はつい感情本意な演奏への反感から "知" ばかりを重視してしまい、"情" と "知" さえあれば音楽が確かなものになると思い込む節があった。だが小林秀雄に言われて、なるほど "意" もじっくり考えてみたいと思った。
そもそも音楽における "意" というのがまだ明確にならないが、 "情" と "知" を明確なものにしたところで分かりそうな気もするし、その二つがあったところでそもそもバランスが取れていないのだから "意" にすら達しない気もする。意志という言葉で片付ければもちろん演奏においては誰にでもあるのだが、そこで終わるような言葉ではなさそうだし…
経験的に、 "意" が思考の一次的な段階にないことはわかる。音楽における「知情意」を考えていたが、むしろ音楽における "意" をこれからは深めてみたいと思った。今はまだ明確な形にならなくても、演奏を形成する重要な要素になることは間違いない。
この先のことは誰かと飲みに行ったときにでもゆっくり話したいなと思う。