無題

あまり良い話ではないので、嫌な時はすぐにタブを閉じてください。


小さな頃の自分を供養したいとずっと思っていた。

今まではごく親しい人のさらに一部の方にしか話してこなかったが、物心ついた頃からつい数年前までの父親に関する記憶は中身の見えない真っ黒なビニール袋に放り込んであるような状態だ。

隠し通したところで先々の人生が余計に息苦しくなるだけなので、書いてしまった方が遥かに楽だ。今でも周囲から父について聞かれると頭がぼんやりすることがある。特に父親のことを知っている人から近況を聞かれたり、その人と親との間柄の話をされたりするのは私を窒息させることと変わりない。

幼い頃から私の記憶には思い返したくないものが多く残っていた。

私の最初期の記憶はこんなものだ。
寝室にもなっている畳の部屋で、夜に座布団を敷いて父親とひらがなを書く練習をしていた。
その頃は、何時だったか忘れたが、夕飯の時間がいつも決まっていた。私はひたすら「あ」の文字を練習していたが、3画目がどうにもうまく書けない。それができるようになるまでご飯は食べられず、手元にあるデジタル時計がいつもの時間を過ぎているのに、ひらがなの練習を続けていた。
(私は文字を読めるようになったのは早かった気がする。ひらがなを書く練習をしていた頃には、すでに数字を読み時計をなんとなく理解していたように記憶している。)
青いふちのデジタル時計で、上のボタンを押すと画面全体がオレンジ色に光る。
グレーの背景で数字が1秒、また1秒と進んでいくのを横目に、食卓からご飯の匂いがするのを感じながら必死に「あ」の "なり損ない" を書いていた。

それ以降も、大声で怒鳴られたり、家を締め出されたり、風呂で沈められたりした。顔を叩かれるのは普通だった。マンションの3階の窓から投げられそうになったり(高い柵があるので落ちる心配はあまりなかったが)、壁に向かって投げとばされたり。外傷ができないよう、たたんだ布団に向かって突き飛ばされるのが普通だった。

ある休日、いつも以上に厳しく虐待を受け、どのような顛末か覚えていないが解放された後、リビングで母が出してくれた甘納豆を泣きながら食べていたその味を今でもなぜかはっきり覚えている(父から非情なことをされている真っ最中、母は何をしていたのか知らない。寝室から離れた他のところで家事でもしていたのだろうか。それにしてもあれだけの騒ぎなら聞こえなかったはずはないのだが)。
父の仕事は土日休みというサラリーマン的なものではなく、平日にいくつか休みがあり、だいぶ不規則だった。父のいない日は安心してリビングで過ごせていた。

少なくとも子供を持ってからの父親はソトヅラがよく、若い頃の危ないことばかりしていた父を知らないような人なら、そのような家庭環境を誰も予想しなかっただろう。遊びに関してはむしろ楽しい親だったのがタチ悪い。

ひらがなの練習からずっと続いた教育面での高圧的な態度もエスカレートし、小学生の頃は特に恐怖に怯えていた(実際、父親は教育に関する仕事をしていたのでなおさらである)。泣きながらドリルを解き進める日々もあったが、ピアノの道を選ぶという選択をしたことにより、一時はそこから解放された。この選択についても、小学生の頃にどのような未来を歩むか決めろと言われ、散々な思いから音楽に逃げてきたというのが正しい言い方である。
もちろん、だからといってこの選択が間違っていたとは微塵も思っていない。
幸せなことをたくさんできているのだから、当時の自分には何度も感謝している。

ピアノに打ち込んだり、部活が毎日あったりと、父から距離を取れる生活が続き、やや落ち着いて過ごした中高生の時間だったが、その頃もやはり顔を合わせるたび色々なことが起こっていた気がする。この頃の親子関係は本当に覚えていない。


大学に入ってからも実家暮らしは続き、コロナ禍のある日、瑣末なことがきっかけで私はもはやどうしようもなくなってしまった。

その頃から知人たちに助けられ、さまざまな支援を通じて日常生活を送れるように回復してきた。その間も、私は演奏などの仕事を奇跡的に一つもキャンセルせず、できる限り周囲に迷惑のかからないように動いてきた(もちろん全然違うところで沢山の迷惑はかけてきたけれど)。
結局、父とは別居し、今は母との二人暮らしである。ようやく平静を保った暮らしができるように手筈が整った。それ以来、父とは全く会っていない。

もちろん100%の回復というのは今後そうそうないと自覚しているが、周囲の知人たちや先生方の支援には感謝してもしきれない。ようやく外向けに書けるようになった自分が内心嬉しくもあるくらいだ。

今でも、父親が普通に暮らしていることにこの上ない怒りを感じることは多々ある。私が行こうとしている演奏会に音楽好きな父が行くことを知って、会場で遭遇するのを恐れるあまり聴きにいくのを諦めることがある。さまざまな封書で父の名を見るのも嫌だし、行政の手続きに続柄でその名があるのも忌まわしい。


今は音楽面で応援してくださっている一般の方がいらっしゃるのだが、父よりひと回りくらい年上のその方と飲みながらゆっくり音楽の話をしたり、美味しいものを食べたりするのが心のゆとりにもなっている。他にも、心の拠り所がたくさんあるのは私にとっての救いだ。

今後、一生、父親と顔を合わせるつもりはない。


みなさんには一連のことを憐れんでほしいわけでは全くないのですが、家庭内のことはあまり聞かないでほしいなと思っています。また、私自身、信頼できる方々の力を借りて最悪の結果にならず済んだこともあり、何かあったら少しでも手を貸せるといいなと思っています。

ようやくここまで進んできました。みんなありがとう。

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