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山﨑先生の思い出

今日で10年。

私がいま管楽器とのアンサンブルをたくさんしているのは、中学校の部活が端緒だったかもしれない。当時すでにピアノに打ち込んでいた私は、周りに心配されながらも多忙な吹奏楽部に入った。小学生の頃からその中学校の吹奏楽部が出張演奏をしに来てくれていて、憧れがあったというのもある。顧問の先生がクラリネットを吹いていて、あの楽器を持ってみたいなと思っていた。

色々あったがクラリネットを担当することになり、部活に出られない日も多かったが練習を続けた。顧問の山﨑一哉先生は音楽に厳しく、しかし生徒への愛情に溢れていてユーモアのあるディズニー好きな面白い先生だった。私たちの代の学年主任だったこともあり、学校生活の大部分でお世話になっていた。毎日休みなく "Blue Sky" という学年だよりを執筆して発行する仕事ぶりを凄いと思っていた。

音楽には容赦ない先生だったので、合奏中よく廊下に追放され、難しいパッセージを練習したものだ。クラリネットは最前列にいたので、うっかり手の滑った指揮棒がなにかと飛んできた。肩に刺さって痛かったのをふいに思い出した。
基礎練習を重視する指導で、いつもずいぶん長い時間ロングトーンをしていた。休日の朝、木管、金管の学生たちがそれぞれ集まって基礎練習をした後、全員が音楽室に集まって先生の指導のもとロングトーンを合奏する。学内外の本番がたくさんあるのでさらう曲も多かった。
コンクール直前の夏休みには蒸し暑い体育館で練習し、水鉄砲を持った先生が生徒以上にはしゃいで真正面から水をかけてきたのをなぜかよく覚えている。『くるみ割り人形』や『展覧会の絵』など、クラシックの編曲版をいろいろ吹いたのも素敵な思い出だ。
練習終わりのミーティングは部員の立ち位置が大体決まっていて、私は先生の机に一番近い場所だった。何かとイタズラされたのを覚えているので、やはりずいぶんとお茶目な先生だったのだろう。後から聞いた話だが、私のことは良い意味で特に目をつけてくださっていたらしく、今後を楽しみにされていたらしい。そういうのはもっと言って欲しかったのだけど…

先生は川崎市の吹奏楽連盟で理事長を長年務められ、途中からは急逝された神奈川県の前理事長の職務を引き継がれた。連盟の仕事が相当忙しかったのは部員たちが見ても明らかだったが、それでもなお、部の音楽を徹底して気にかけてくださっていたことには頭が上がらない。

中学2年の冬、先生が学校を休むことが多くなった。音楽の授業も振替になったり、部活でも先生の姿がなかったり。
翌年の春、先輩たちの卒業式で苦しそうに指揮をする先生がいた。
終わってから私が少し話しかけたとき、みんなの代は見送れないのかな、と珍しく弱音を吐いていたのに驚いた。
そして、新学期からは完全に休職された。


中学3年の6月1日。先生が旅立った。

翌日から私たちは修学旅行に行くことになっていた。
もちろん、学年主任だった山﨑先生が引率するはずだった。
初日の夜、生徒たちに訃報が伝えられた。
病がわかったときにはもう末期だったそうだ。


あれから10年。

山﨑先生のことを知っているたくさんの吹奏楽経験者には先生の精神が残っているし、ことに私は今もなお音楽を続けているのだ。ことごとくストイックだが多幸感に溢れていた先生の音楽は今でも演奏の糧になっていて、管楽器のアンサンブルに関して受けた指導と経験は私の音楽の根底にある。明快できわめて音楽的な指揮も鮮明に目に焼きついている。

吹奏楽を通じて管楽器を経験したことは大きな財産だ。
ピアニストとして木管楽器とのアンサンブルをしていると、今もどこかで先生が見守ってくださるような気がする。

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