19年前のこと
息子が19歳になった。
誕生日ケーキもディナーも不要だと連絡があった。そりゃ友達と過ごすほうがいいよね。ケーキはちょっと食べたかったけど。
19年前、私は望まない帝王切開をされた。
そのことは私を追い詰めた。
帝王切開だったから、下から産めなかったから、だからこんなに何事もうまくいかないんだ、そう思っていた。
傷の痛みがなくなってからも、気がつくと傷のところを撫でていた。
産後の精神の不安定な時期だということもあったと思うけど、帝王切開は私にとって失敗だった。
私はたくさんのお産も見てきたし、新生児のお世話だって問題なく全部できる!だって助産師だもの。
だから里帰りもせず、義母にヘルプも出さず、全部自分でやろうと思っていた。
甘かった。
無理だった。
今まで偉そうに指導させてもらった妊産褥婦さん全員に土下座したいと思うくらい大変だった。体は思うように動かないし、とにかくイライラするし泣けてくるし、夜中に息子が泣き止まなくても夫はいびきかいて寝てるし、嗚呼、いま思い出してもあのときの私を助けてあげたくなる。
本当は立ち会い分娩がしたかった。
だからそれをさせてくれる医者を紹介してもらってそこに通った。子供が小さい小さいと言われ、普通よりもたくさん超音波検査もした。飲みたくもない栄養剤も飲んだ。逆らうだけの語学力も無かったし、異国で何かあったら、結局周りの力を借りるしかないのだから、黙って言うことを聞いていた。
19年前の今日の朝、破水した。
どう考えても子宮口は開いてもない状況での破水。前日に別の病院で行った検査の結果を主治医に見せに行くために夫は不在。
ジャバジャバと出てくる羊水。
陣痛もなく、夫も不在、あふれ出る羊水、不安しかない。
落ち着こう落ち着こう、そう唱え、夫に連絡して急いで帰ってきてもらい、そして入院。
そこで診察した主治医が一言、
さあ帝王切開しましょう!
は?
ちょ、待ってや!
破水したからといっていきなり帝王切開はおかしい、せめて24時間は様子見させて!と頼むのが精一杯。
しぶしぶ受け入れた主治医。
しかしカルテに絶対安静と記入したらしく、硬いベッドに寝かされた私は、トイレにも歩かせてもらえず。こんなんで陣痛来るわけ無いやん!!とナースに訴えても医師の指示は絶対。
そのまま夜になった。
微弱な子宮収縮、
これでも痛かった。今思うと生まれるわけのない収縮。
そこに現れた主治医が我々に言った。
「帝王切開を今からする。それが受け入れられないのであれば、国立病院に転院してください。責任はとれません。」と。
ねえ、破水してなんとなく陣痛が来てる人間が、転院するってまじで思ってるの?するわけ無いじゃん。ただの脅しじゃん。
結局そこで帝王切開が決まった。
私はずーーっと泣いていた。なんで泣いてるの?ってナースに言われたけど、ずっとずっと泣いていた。切られてる間も泣いていた。
切られながら医者たちが新しい車の話をしてるのも聞きながら泣いていた。頭の中は冷静で、医者が今何してるかわかりながら泣いていた。
お腹から取り出された赤ん坊を見て、私は思った。今まで何百人と産まれたての赤ちゃんを見てきたけど、誰よりもかわいいと。そう思いながら泣いていた。(後で写真を見たらどう見ても猿だった。裸眼だったから可愛く見えたんだろうか。ナースがメガネかけてくれたんだろうか。そのあたりの記憶はない。笑)
そんなお産だった。
帝王切開をしたことで自分を責めるお母さんの気持ちがよくわかる。わかりすぎる。
帝王切開も立派なお産、病気じゃないのに人のために手術するなんて素晴らしいこと、それもわかる。
でも、ずっとずっと心に残った失敗感。帝王切開だったから、といろんなことをそのせいにして、ずっとうじうじしていた。
だから二人目は日本で下から産んだ。
そして三人目は自分で選択して帝王切開した。
両方経験した今、よくわかる。
どっちも大変。
どっちも出産。
お産はお産。
今ならきっと、そういうことで悩んだり落ち込んだり責めたりしてる人の力になれるんじゃないかなと自負している。
すくすくと育った息子は、親の望むようなこととはまるで違う生き方をしているけど、今日も元気。
きっとあの日のあの時間に生まれたことは決まっていたこと。
19歳も楽しく元気に、そしてそろそろ将来のことを考えて生きてくださいな。