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【保存用ログ】第04回[20200427-0503]『僕らはみんな生きていく』

この記事はコミュニティ内部向けの記事になります。ご了承ください。
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新規のサークル参加もお待ちしております。

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にしむらもとい
ワークショップ第四回、はりきって始めていきたいと思います。note記事はさっきあげました。今回は「未来」をテーマに皆さんに自由に語っていただければと思います。皆さんの未来の話も聞きたいし、これからの未来について、ライフスタイルやらなんやらもお話できればと思います。あと、別にルール化はしませんが、スレッド内返信はできたらチャンネルにも投稿して皆で共有しましょう。
では。今週もよろしくどーぞ。

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A
今回はある程度自由テーマということで、私の方からは『自分が生きていきたい未来、作っていきたい未来』をテーマに書いてみようかなと思います。
広すぎるテーマなので少し小さくする可能性はありますが・・・
仕事の合間にちょこちょこ考えてみます。
この機会に皆さんの色々な語りも聞けたら嬉しいです

■2

にしむらもとい
「無名性の時代」という未来
さあ、皆さん!
忙しいこのご時世に、のんきに「未来について考えよう!」なんて言っちゃってる、どうも、僕です!
せっかくコミュニティに参加していただいてるので、お忙しいとは思いますが、皆さんにもちょびっとくらいなんか書いてもらえると、僕も嬉しいです!

にしむらもとい
話を自然に始めるため、おっさんなら誰でも知ってそうな、お馴染みの『重要度/緊急度マトリクス』みたいな話から入りましょう。やるべきことを重要度が高いか低いかと緊急度が高いか低いかでざっくり4つに分類する。もちろん「緊急で重要」が最優先になりますね。この「ワークショップ」活動は「緊急ではないが重要」という利益の回収までタイムラグのある投資みたいなものにあたります。目先の利益回収より投資の方が重要と思うか思わないかは人それぞれかも知れませんが、まあ、とりあえず、いまこんなものに参加してもすぐには何も返ってこないから目の前のことを優先してしまう。それが人情。あるいは、こんなもの「緊急ではないし重要ですらない」と思ってる方、いらっしゃるでしょうか。えっと、なんでコミュニティに参加してくださったんでしょう笑 純粋にただ僕を応援してくださろうとする一心で参加してくださってるんでしょうか。いや、それはそれで嬉しいですね❤️ ともかく、このマトリクスを生み出したフランクリン・コヴィーというおっさん、だいたいのおっさんはどこかで触れているだろうという気はしますが、若い方は知らないかもしれませんので触りだけ紹介してみました。それ以上はggrks
で、今回のテーマである「未来」の話へとつなげていきましょう。僕(皆さんも含む)の未来についてですね、一側面にはなりますが話してみたいと思います。僕がこのコミュニティでワークショップという「場」を設けているのは、皆さんに無名ながらもいっぱしの「情報発信者」になって欲しいからです。これは、未来に向けた活動なので緊急性はありませんが、僕の中では最大限に重要なことです。
未来てどんな未来? お答えします。これからは、「名も無き無名の人間でも主役になれるかもしれない」時代ではなく、「名も無き無名の人間だからこそ主役になれる」時代になると、僕は信じています。傑出したリーダー(強者)が中央に構えて世の中を動かすのではなく、名も無き無名の誰か(弱者)がその弱さゆえに引き受けられる役割というのがあって、弱さで世の中を動かす、そんな時代になっていくと僕は考えています。ともかくそういうわけなので、僕は自分のSNS活動当初からYouTubeで「登録者100万人達成!」みたいなものを目指してません。できてもないくせに偉そうなことを言うなと言われるかもしれませんが、頭を使って本気で取り組めばYouTubeで10万人や20万人程度の登録者は誰でも達成できると思います。「じゃあ減るもんでもねぇしやっとけばいいじゃん、なんでやらないの?」と思うかもしれませんが、僕は「減るもんがある」と思ってるからやってないんですね。10万人単位以上の規模のフォロワーを持てば、確実に活動がフォロワーという「沼」に引きずられます。そうなれば、いまこうして皆さんとコミュニケーションする機会はなかったと思います。僕は、ちょっとした人生の様々な巡り合わせによって、これはある意味幸運だったと思ってますが、現時点で全くの無名の人間です。だから、僕が理想として感じている「無名性」というのが既に努力なく得られています。有名人が逆算してそこから無名性を獲得するのは、かなり難しいだろうと思います。いまこんなご時世になって、有名人が次々に「上から」YouTube活動を始めているのを見ていればわかります。
皆さんは、現時点で無名の人ばかりだと思います。もしかしたら、「これからビッグになって有名になってやるぜ」という野望を秘めている人もいるかもしれません。僕も、何もその考えをその瞬間から否定はしません。ですが、僕の感覚では「ビッグになる」ことは確実に時代遅れな発想です。ビッグになるとは、沼にハマることです。先日からちょくちょく『ただよび』というYouTubeチャンネルをネタにして粘着してますが笑、それはその活動がとてももったいないと感じているからです。今の時代に「なりあがり」精神を持つことは新しい価値にはつながらない。「認めたくないものだな、自分自身の、若さゆえの過ちというものを」という感覚をリアルに認めている気がしてしまい、リアルに「認めたくない……(ループ) もっとも、何が正解かというのは、僕自身も、九割方はわかってきてるんですが、まだ最後のピースがしっくりくるのが見つからなくて、こうしてコミュニティの活動をすることで最後のピース探しをしています。しっくりくるピースが見つかれば、もしかしたら僕も似たような活動を全く違う切り口で始めるかもしれません。おっと、それはまた別の話……。
ともかく、僕の感じている未来は間違いなくこの「小さな」活動の中にあると確信しています。若い頃、僕は建築家を目指していたんですが、僕が建築家を目指すのをやめた理由、それは、建築の中の「芸術」が溶けてしまい「情報」の海に消えたと感じたからです。僕は建築物の、アート性、芸術性、物理的な美しさに惹かれていました。僕は、多感な時期にインターネットがまさに生まれた瞬間を目撃し、その瞬間に、これから全ての世界をインターネットが吸い込んでしまうだろうというその萌芽を見ました。何もかもの価値が「情報」に溶けてしまう。強烈な衝撃を受けたのを覚えています。その中で、たとえば建築は、僕の惹かれた、機能の結果としての「美」よりも、選択肢としての美から求められる機能を作り出すという純粋な計算としての「デザイン」へと変わっていくと感じました。いまもなお、いわゆる「作家」としての建築家の方はたくさんいらっしゃいますが、大きな物語(コンセプト)を背負う「大建築家」はもういません。「大建築家」という概念は一切がテクノロジーと融合して「都市デザイン」あるいはさらに狭く定義するなら「ウェブ」の中に溶けたと思います。「つながり」が個を塗りつぶしたとでも表現すればわかりやすいでしょうか。結局、「建築家」という個性は、そう、ここでも同じで、まさにこれからは「無名性」の中で活動していく、そういう時代なんだろうと思います。「名前を売ったからこそできる新しいこと」はほぼなくなった気がします。身の丈のレベルで建築という「行為を整える」のが現代の建築家の役割かなと思います。だから、「美」そのものに憧れ、誰も生み出したこともないとんでもない美を生み出したいと考えた若かりし僕は、建築の世界から離れました。現代の価値観においては、サグラダファミリアは美術であり建築ではないと思います。僕の好きだった建築家、アルヴァ・アアルトはデザイナーでしょうか。オスカー・ニーマイヤーは、ちょっとわかりません。「宇宙」でしょうか笑 いずれにせよ、繰り返しになりますが、ガウディもアアルトもニーマイヤーも、その歴史的意義にもかかわらず、現代の価値観においては表面上の意匠の選択肢としてしか意味を持ち得ないと思います。「都市全体のあるいは人類全体のライフスタイルそのものと直接接続したもの」こそが建築であり続けられるものだろうと思います。すなわち、現実の土地を持つ物理的な建築はもはやそうした意味での建築ではなくなり、最前線としての建築はサイバー空間における「アーキテクチャー」へと溶けてしまったと言える気がします。建築の意味を突き詰めるとほぼプログラミングに行き着くということですね。
失礼。少し、脱線が過ぎました。話を戻しましょう。それにしても、無名であることこそに価値があるという感覚は、なかなか転倒した難しい考えかもしれません。価値というのは、本来希少性から来るもので、無名というのは希少性がないということですよね。だから無名に価値があるとはおかしいじゃないか。そう思ったとしても無理はありません。
しかし。
否。
否なのです。
そう、いまの時代は、誰もが皆SNSでフォロワー稼ぎを目指す時代なのですよ。そして、誰もが有名になる可能性があるという意味で、既に誰もが「有名」属性を帯びているのです。だから、無名(であろうとする意志)には、実際かなり希少性はあると思います。
誰もがフォロワー稼ぎを目指すということは、誰もが主役になろうとしているということで、でも誰もが主役になんてなれるわけがありませんね。どうすれば良いか。たとえば、主役の人間の「お面」を販売し、そのお面を被ることで主役と同化して主役であろうとする欲求を満たす。それは、いまのテクノロジーにおいては十分可能なことです。ですが、主役を中心とする構造を作ってしまったが最後、結局主役(もしくは主役を祭り上げるシステム)が全てをぶっこ抜きますので、参加者としての皆が主役にはなれません。だから、真に皆が主役になるには、そもそも誰も主役になってはいけないのだと思います。だから、特にこれといって目立って有名な活動をしているわけでもなさそうな人達が普通に人知れず主役級の活動をしている、「主役になる」という価値を持たずに、普通にそういう人間が存在している、そういう世の中が、新しい時代なんではないかと、僕は考えているわけです。有名な人間は皆「沼」に引きずり込まれた奴隷(思考が、という意味で)になってしまい、無名な人間こそが世の中を動かす。非常に概念的ではありますが、そういう「方向性」にはなっていくと思います。
現時点では、まだまだ、ある程度有能で有名な「リーダー」が引っ張らないと何も動かない世の中ではあろうと思いますが、でも、SNSの界隈で有名な人たちの言動を見ていても、目先の政治的判断として参考になることはあっても、人類の未来を感じることはまずありません。
無名な人間が無名であることを自覚して無名の活動をする。その内に「閉じた」感覚が、むしろ人類全体に「開かれてつながってゆく」気がしてます。有名かどうかなんてことは、いつの日か前時代的感覚になるような気もしています。有名かどうかなどを価値判断とせずとも、目の前の人が自分にとって重要か、有能か、を判断することがテクノロジーのサポートで容易になれば、人は名前を売る必要がなくなります。履歴書なんてものがなくなるということですね。実際、皆さんが僕を少しでもサポートしてくださっているのは、有名であるかという履歴書的な判断ではなくコンテンツの中身そのものを見てくださったからだと思います。そんな時代、人と人が「つながる」という概念が、テクノロジーで大きく補強された時代において、かつての時代のように、「なりあがる」という概念は意味を持たなくなると思います。だから、僕は無名の発信者として無名なまま活動を広げる方法を模索しています。それが僕の未来の一側面です。
というわけで、皆さんが書いてくれなさそうなので、また僕がしこたま書き倒しました。結果としてさらに書く敷居が上がってなければ良いんですが……。
皆さんの「気軽な」投稿、お待ちしています笑

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A
■『自分が生きていきたい未来、作っていきたい未来』の「気軽」Ver.(笑)
 風呂敷を広げようとしてみましたが、1週間は悩みそうな気がしたのでざっくばらんなVersionで書かせていただきます。
この機会に理想の社会って何だろうと考えてみました。要するにユートピアですね。
 19世紀のヨーロッパや大正期の日本では第二次産業革命の発展で、裕福な資本家と劣悪な労働者階級の二極化が起きました。子供であろうが関係なく、一日15時間労働は当たり前という社会でロバート・オウエンやサン・シモンといったユートピア思想家が現れ、財産の共有分配の公平性を訴え、ユートピア村を建設し挫折し、そして消えていきました。
 翻って今の日本はどうでしょうか。一昔前の大企業V.S.中小企業、労働組合V.S.会社といった問題意識はグローバル化、IT化の波の中で消えていきました。正規非正規問題や若者V.S.高齢者という視座は相変わらず残っているでしょうか。まだまだ目を向ければそこら中に闇が潜んでいると感じます。
 いま日本を生きていて、そしてこれからも生きていく中で自分なりのユートピア観は持ちたいと考えていますが、いまだ答えは出ていません。
 手探りの中、試論として持っているのが”誰もがStigma(恥)を感じずに生きて行ける社会”という考え方です。”誰もが自分らしく”や”一億総活躍”という考え方はもはや成り立たないのではないかと考えています。そうではなく、それぞれの生きる喜びを享受できるように最低限”Stigma(恥)”を感じずに生きられる制度を整備すべきではないかと感じています。
とっちらかったままですが、とりあえず小さな風呂敷をふぁさっとこの部屋に広げてみます笑

にしむらもとい
@A なんとなくわかるような気はします。僕は、ホリエモンよりも落合陽一さんよりも家入一真さんの活動に興味がひかれます。たとえば、やりたいことの話の中で、彼は生きるの月二万定額制とか詳しく覚えてませんがそんな感じのことを言ってた気がします。お金を稼ぐ方向よりも生きるハードルを下げる。大したことなんかしなくて生きてていい。制度の助けは必要ですね。
ちょっとズレてる気もしますが、僕も気にせず、風呂敷をもっかいふぁさっとして、空気を入れ直してみました。
B
@A 誰もがstigmaを感じずに生きていける世界、いいですね!俺も早くそこに行きたい。個人的にネックになってくるのがやっぱり「他人様との比較」にあると思います。一人一人が自分の幸せを見つけるには今の人間が見れてしまう物が多すぎる。テレビをつければ同い年の才気煥発を見せつけられる世の中ですから、どうしても自分に引目を感じてしまうことが多くなりがちなんじゃないかと思います。
A
@にしむらもとい そうですね。僕も昔ホリエモン的価値観に共感した時期がありましたが、なんというかアナーキズムの裏の側面を隠しつつメディア発信する姿が目についてちょっと合わないと感じてます。僕はベーシックインカムには懐疑的ですが、生きるということを認めてあげる機能は今後見つめ直す必要があると感じています。
@B その点は本当に、“価値観の多様化”が大事になるんでしょうね。僕も外銀や商社でウェイウェイやってる同期にジェラシーを100%持ってないかと問われると困ります笑
肌感覚では親父たちの世代より多様化は進んだのかな?という気がするのですがどうなんでしょうね。社会のレイヤー構造が多層化して、本当に比較すら出来ない時代が来たら解消するんでしょうが、この情報化社会の進展でどう変わるかみなさんの意見を聞いてみたいところです。

D
@A 私個人としては情報化社会だからこそ他人にジェラシーを抱きやすいのかなと思います。自己顕示欲一人一人がそれなりの発信力を持ってるわけですもんね…。なれども一世代前より多様化が進んだということもまた事実だと思います。やはり高度経済成長を経験された方と今の時代とでは労働に対する考えひとつとっても違いますものね。

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B
■未来についてのあんまり面白くない話(私にとって未来とは)
自分語りがキツくなってしまいそうなので、努めて短く書こうと思います笑
「未来志向」という前提からも外れているのですが、率直に思ったことなので投稿することにしました。
今の私にとっての「未来」とは、過去(の自分)の克服にあります。
今まで生きて来た中で、沢山「できなかったこと」を感じて来ました。他の人が当たり前にできることができないこともありました。人と比べることに意味はないといえばそうなのですが、出来ないことが嫌で、またそれを出来る様にしない自分も嫌でした。
なので今私は「できなかったこと」ができるようになることが未来への希望です。
未来の自分を思い浮かべる時も、思い浮かべるのは何かが「できるようなった」自分なのです。そう言った意味で私の未来は極めて過去に縛られているといえます。創造性のカケラもありませんね笑
「過去に執着する男」とかではないつもりなんですが、私の思う未来にそういう一面があることには間違いないと思います。

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B
■VRに感じた「未来」 リアルとは? (楽しい話)
2016年だと思いますが、コンシューマ版「Oculus Rift」が出始めた当初、友人と秋葉原で遊んでいた際にイベントがやっていて、その中に当時最先端のOculus Riftを体験できるものがありました。内容は「ソードアート・オンライン」のワンシーンのVR映像だったんですが、初めて体験した時に「これは凄い!」と痛烈に思ったのをよく覚えています。それこそ「SAO」さながらの、VR体験型のオンラインRPG(SAOのようにリアルで死ぬのは御免被りますが)がそのうちリリースされるのだと思いました。そんなゲームが出たら即座にプレイするつもりでした。中毒になっても構わないとさえ思いました。なにせ憧れの「剣と魔法のファンタジー」が半分現実になるのですから。残念ながら現在までもそのようなゲームはリリースされておらず、社会人になってから買ったゲームも「PSVR」でなく「スプラトゥーン2」でしたが笑
思い出話が長くなってしまいましたが、あの時のVRで私が体験したのは新しい「現実」でした。実際は全く作り物なのですが、確かに私の目で「見た」訳です。不思議な感覚です。
・今後私たちのリアルはどのように変化していくのでしょうか。それこそSFの世界のように、人間は肉体という檻から解き放たれて電脳世界を生きていくのでしょうか?
・「リアル」の境界線が曖昧になる中で、「リアル」はどのような意味を持つのか、また失うのでしょうか。ただの檻に成り下がるのか、もしくは「意味」を再構築されるのか。
・最近「筋肉は裏切らない」という言葉に代表される(?)フィットネスブームが到来しました。このブームは体感「リアル」への回帰なんでしょうか。未来では今のオジサンがゲームボーイをプレイするような「ノスタルジー」で「運動」するような時代が来るのでしょうか?それともやはり体を動かすことは意味を持ち続けるんでしょうか?
個人的には、やはり肉体的制約を取り払われる「便益」が圧倒的なので、今の「リアルは」形骸化し、挙句捨て去られると感じてはいます。ただ、捻くれ者なので途中どこかで人間が挫折した時に、反動でルネッサンスが起こるに1票を投じたいと思います

A
リアルの持つ意味ってなんなんでしょうね。ただの檻になるのかそれとも・・・
少なくともこれから数十年は、デジタルとリアルの掛け合わせで価値を生み出す時代になるのは間違いないと思います。私も今、古民家ホテル事業で昔の暮らしを映すARアプリや、外国人向けのお神輿VR体験を検討しています。インバウンド向けですね。
デジタル空間だけでは完結できない体験がリアルに残っている限り、リアルには固有の意味が残る気がします。実際に汗を掻いたり痛みを伴ったり・・・それさえもデジタルで代替できる時代が来たらリアルのリアルなデス笑が来るのでしょうが
にしむらもとい
大好きな話題なので入りたいんですが、調子乗るとまた5,000字くらいは書いてしまいそうなので、遠慮がちに書かせていただきます。
リアルというのは認識の観点で、もはやARもVRも全部リアルだと思いますので、捨てるも何も全て融け合いながら進むと思います。なので、肉体の話を少々。肉体は間違いなく枷、お荷物になっていくと思います。肉体の維持コストをどうするかというのは人生設計のポイントになっていく気もします。いつも同じ話題で恐縮ですが『攻殻機動隊』では、義体つけてるとはいえ普通に人間が外を出歩く社会が描かれてますが、実際の未来はそんなに人間が出歩く社会にはならないんではないですかね。いまもちょうどコロナきっかけで「全部リモートで良くね?」なんて話になってきてるわけで、アバターでサイバー空間を出歩いて社会活動するのがいずれ当たり前になるんじゃないでしょうか。もしくは、リモコン義体で出歩くか、ですね。いまはまだ必要と感じて僕も紐付けを行なってますが、肉体の顔面などいずれどうでも良くなるでしょうね。アバターに一目惚れして付き合う、みたいなのは普通になると思います。性的行為すらリモートで行なわれる時代も来ると思います。度々恐縮ですが、『攻殻』で、男女が電脳を直接有線する行為が性的なものとして描かれるシーンがあります。脳みそ全部つなぐのが性的って、すごいロマンティックというか、未来を感じて興奮します笑
以上です。お返しします。

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にしむらもとい
「無名性」がもたらすもの
格差の時代と言われております現代でございますが、どーも、僕です。
そもそも格差って何なのか。「富」という形で切り出された価値の偏在、一部への極端な富の集中ですね。これをどうにかしようと思うと、僕は現代社会のシステムそのものにメスを入れるしかないと感じてます。「対処」方法を考えるなら、全世界的に逃げ場をなくして巨大な財産に累進課税することくらいしかないと思いますが、そんなことは夢物語だからです。つまり、この事態を打開するのは「対処」方法ではない。社会のシステム、主義、その根本の設計段階レベルで変革が必要だと思います。それは上からではなく下からしか実現されないと思います。

にしむらもとい
要は、格差を「無くす」ことはできません。じゃあどうするの、を煎じ詰めたら、理屈としては、格差を格差として「機能させない」という解決策しかありません。価値の概念を根本的に変えるしかないということです。
僕が失意のうちに2年ほど引きこもり(家どころか自室から一歩も外に出ないという完全バージョン)を経験したことは、以前に僕の半生としてnote記事にしました(あれは一応値段つけて置いてますが基本的に公開したいとは思ってませんので買わなくてよいです) その期間、世を妬み嫉むこともありました。しかし、ひたすらに己だけを見つめ続ける中で、幸か不幸か次第に世俗的な価値観から離れて仙人化することに成功しました笑 いったん全てがリセットされてどうでも良くなったのです。そのニヒリズムをもう一度裏返すことで僕はいまのかなりフラットな価値判断のフィルターを獲得しました。ご存知かと思いますが、僕は日本有数の進学校と言われる兵庫の酒蔵高校に行っておりましたので、高校時代の友人は、高級官僚医師弁護士大学教授企業役員などが大半で、外資で金融の犬として生涯賃金を荒稼ぎして既にセミリタイアしている者もいます。僕はそれに対し、驚くべきことに何の劣等感も抱いてません。逆に、「抱けよ!」というツッコミも聞こえてきそうですが笑 抱かないんですね。そんなものにコンプレックスを持たされるのは、有り体に言えば、物質主義的な広告業界の刷り込みの効果です。いい仕事、いい収入、高級車、そんなもんに憧れるから格差が「息をし始める」のです。その憧れの根っこを断つ。全世界規模の富を相手にすることになるので、こちらも負けないスケールで挑むしかありません。概念を変える。人類全体の新しい主義、思想を作る。それくらい大きく出ないと負けます。そのためのキーワードが「無名性」だと考えてます。通じてると思いますが、匿名ではありませんよ、念の為。無名性においては、むやみに上を目指すことはないということです。ただし、それが堕ちることを意味しないように、ニヒリズムも一度否定しておかなくてはなりません。生きることをないがしろにするのではなく、誰かに示された何かを目指すことをやめる。今目の前にない何かを目指してせっつかれて生きるのではなく、己の身の丈だけの世界を存分に楽しんで生きる。システムが生み出す虚構を生かされるのをやめる。等身大で生きる。言葉は何でもいいですが、そういう昔からあるありふれたアイデアを「本気で」当たり前にするには、価値の概念そのものが変わる必要があると思います。
価値と言えば富。富? GDPというアイデアが思考を手助けしてくれるでしょうか。GDPは歴史的に見れば偉大な発明だったと思いますが、あくまでも人工的な指標であり、欠陥も含んでいると思います。実体経済を必要十分につかまえたものではない。GDPには計上されない「価値」は身の丈の世界に転がっています。それが問題だと思います。本来的な価値よりGDP的価値が優先されてしまう。GDP的には場合によって世の中には精神疾患や犯罪や時に災害まで、あった方が良いという計算が立つことも普通にあります。極端な話、一昔前の荒れた不良のように金属バットで学校の窓ガラスを叩き割りまくれば修理代が「かかってくれる」わけです笑 無駄ではありますが、それはまだ新しいガラスを生産はしています。しかし、金融という世界では富の移転を繰り返すだけで何も生産せずGDPを荒稼ぎすることも行なわれています。その一方で、母の労働で綺麗に片付けられた我が家で父が家庭菜園で丹精込めて育てた有機食材をこれまた母の素敵な料理で美味しく頂きつつ子供も高価な携帯ゲーム機なんかで遊ばず家族皆で会話を楽しむ、そんな行ないは、生み出せたはずの生産がゼロなので比較すればマイナスの行ないになります。この素敵な行ないは「闇経済」です笑 しかし、この行ないははたして「闇」なんでしょうか。生産性ゼロなんでしょうか。GDPの闇ですね。
物質主義がどーだとか格差がどーだとか、いろいろ言われるわけですが、皆、「対処」方法ばかりを考えている気がします。「対処」は無理です。何故か。持てる者がそもそもの世の中のルール決定権をにぎっているからです。持たざる者が必死で一時的な対処方法を見つけても、すぐに持てる者に「ルール改正」で対処されてしまう。だから、対処ではなく、ましてルールの破壊を目指すのでもなく、世の中のルールそのものからもはや己を外してしまう。世の中が変わるには、それしかないと思ってます。この感覚を伝えたくて僕はこうした活動を始めてるんですが、とても難しい。自分でもいま執筆を試みて書きためてはいますが、なかなか言語化できていない部分もあります。ルールから外れながら生きること、僕はその向こう側に行きたいんですが、まずは伝えるためのそのフォーマットを作りたい。
そんな感じで、考えていることの続きをちょっとだけ補足しました。富が富として機能するのは富に価値を与えるからです。富はいまの社会システムが作り上げた虚構です。それは、本質的には対人間用の武器でしかありません。もし地球に宇宙人が攻めてきても百兆円で宇宙人を買収することはできませんし、逆に地球を千兆円で買ってもらうこともできません。相手は地球のお金を持っていないし、地球上で人間が勝手に決めた財産権など通用しません。そのかわり、虚構であるならば、設定資料を変更すれば物語は変わります。僕達があまりに当たり前と刷り込まれ、疑うことなく信じ込まされている価値観は、格差の味方をします。すなわち、僕達の敵は僕達自身になってしまっています。そういう意味で、僕は「内に向かうことこそが外につながる」と表現したんですね。敵は既にトロイの木馬として侵入しています。
富。財産。お金。価値。現実。理想。そういうキーワードを確実に咀嚼しないと結論は出てきません。
あと、問題になるのは、現実的な話、じゃあ富に憧れるのをやめたからと言って、生きていく資源に換算できる「価値」が急に生まれるわけではないということです。まだ経済学的視点でしっかり精査できてませんが、僕は概ねベーシックインカムのアイデアそのものには賛成して良いかなと考えています。何らかのBI的なアイデアは今後の時代に必要不可欠である気はしています。
長くなったので、一旦筆を置きますね。 
A
格差に対する対処療法としての「ルール改正」には僕も実行可能性の面で懐疑的です。ルールにも一次分配(貢献度に応じた即次的分配)と二次分配(必要度に応じた政府による再分配)の二種類がありますが、特に前者の分配ルールについては政治課題に上がることすらないのが現状であると思います。
現在の格差に効いてるのは社会保障等の二次分配ルールではなく、むしろ特許制度や法人税・所得税制等の一次分配ルールだと
思うのですが。そうした方向に政策の目が向かないのは、ロビイスト活動や権力層の力学で大衆の興味関心などいくらでも操作可能であるという証左なのでしょう。
もし本気でルール改正を目指すのであれば、一人ひとりへの啓蒙活動を通じて、脱大衆を目指すしかありませんが、それこそ気の遠くなる話かなと思います。
BIについては、自己責任論者の弱者切り捨て論に援用されないか、という点を僕は懸念しています。必要原則に応じて年々膨張分配される社会保障財源に対して、くさびを打つための処方箋としてBIが導入されるとき、それはBI以上の保障を必要とする人間への死刑宣告になりかねません。現実、BI財源を確保するためには現在の社会保障費は相当に切り詰めないとならないと考えています。
生きられる環境整備という意味で議論はもちろん深めるべきだと思うですが、社会保障論、国家財政論とセットで慎重に考えていかねばならない問題かなと思います。
にしむらもとい
個人的には「脱大衆」は全然気の遠くなる話ではない、と信じてます。「脱大衆」が思想として認識されれば、全世界の人間全員が脱大衆化せずとも脱大衆という運動で後はいける気はします。まあ気が遠くなろうが短気を起こそうがやらない限り何も変わらないし何もわからないのでたとえミジンコの人生で終わろうともやるんですけどね。
で、ベーシックインカムの話ですね。興味ある人もいそうなので、ちょっと拾っておきましょうか。よろしかったら皆さんのご意見もください。ベーシックインカムと聞いて率直に感じることを教えていただけると嬉しいです。むしろ、ハードルは低めな素朴な意見の方が参考になるので嬉しいです。
一応、ふんわりと僕がいま感じてることを綴っておきます。ヤマザキのパンのようにふんわりしてます。
BIを実際にいま日本で導入しようと思うと、財源問題はありますし、日本固有の問題点も様々あると思います。僕は経済の専門家ではないのでそういうデータを引用する目線ではなかなか分析は進んでませんが、理屈としては、真の貧困層には様々な手続きを経て手当を給付するよりは一律現金渡した方が良いと思ってます。「条件次第で給付する」という制度だと救われない真の貧困層というのもある気がします(逆に悪知恵働かせて悪用する人間もいますね) 真に貧困だとあらゆるものに余裕がない。つまりそこを脱しようという考えも気力もない。そんな人に福祉を割り当てても意味がない。でも、とりあえず最低限のお金を渡してしまえば、人として尊厳を持って生きる準備が始められる。その状態の人間にお金を渡しても、どうせその日暮らしで無計画に使い切ってしまうだろうという意見もあります。確か、10年くらい前にロンドンでホームレスの援助団体が社会福祉サービスとして公金を突っ込むのではなくていっそフリーマネーを渡してしまうということをやってたことがあったと思うんですが、その時にはホームレスは、ドラッグをやめ、料理やガーデニングを習い、身ぎれいにし、家も借りて、支払い能力の獲得につながるような社会復帰活動を始めたそうです。確か、福祉サービスで賄っていた時よりも費用的には大幅に削減されたはずです。これは少人数に対するほんの小さな規模の実験ですが、「真の貧困には結果的にちゃっちゃとカネを渡してしまった方が話が早い」はあると思います。本当にコストが削減されるならBI以上の保障が必要な人には、そういう保障を残した部分的なBIにして対応もできると思います。いま手元に試算できるようなデータがないですが、たぶん、保障所得を受け取ったときに人は労働意欲を失いトータルで制度の維持コストが上がるのかというと、僕はいまの例のように逆ではないかと思います。詳しく調べているわけではないので、否定するデータがあれば知りたいです。
フルベーシックインカムではなく、部分的なものであれば制度設計によっては十分機能させられる気がしており、というよりBIが成立する世の中にならなければ新しい時代には進まない気もしてます。僕は価値が「お金」からもっと実体のある身の丈の「つながり」のようなものに移っていくと思ってますので、いずれ生きていくのにお金なんか全く要らなくなる、そんな世の中になって欲しいと願ってます。お金というのは身の丈を超えたサービスを受けるときにだけ仕方なく必要になるもの、世の中がそんな風になれば、お金のために働くなんて概念は時代遅れになり、その程度ならBIで十分賄える気がします。むしろ、BIを導入することでそういう方向性を加速できるのかなとも思ってます。カネ配って後は自己責任で勝手にどーぞ、という制度ではなくて、BIは新しい時代の理念としてそもそも大前提で、それ以上に保障が要るような人間をどうするか、その財源をどうするかは切り離して別に考える問題かなと思ってます。それは政治の話ではなくて理念の話になりますが。いまこの瞬間にBIをどう導入するかという政治の話は、僕にはわかりません。僕には未来予測程度のことしかできないです。
そんなことを少し話してみました。
A
この話題、僕ばかりで恐縮ですがせっかくなので書いてみたいと思います。
“審査”を経ずに、自動的にお金を渡した方が本当に救われるべき人は救われるというのは僕も全く同意です。特に現在の生活保護制度のミーンズテストはかなり厳しいものがあり基本的に親戚中に“生活保護受給者”であることが知れ渡ります。その時点でその人が今まで築いてきた人間関係が切断されることが多く、それを厭いひっそりとホームレスになるという事例もあるそうです。僕は生活保護のこうしたStigmaの部分を除いた形での給付形態という意味でBIに希望を感じています。保障と一律給付とのバランスについては2010年前後から給付付き税額控除と呼ばれるスキームが検討されています。いわゆるマイナスの所得税で、所得が低い人は自動的に給付を得られ高所得者への給付を抑えられるので一定の社会保障財源を残しておける仕組みです。但し、実行段階では現在の低い所得捕捉率をいかに上げるかという問題はあります。
またBIと勤労意欲との関係については統計上有意な結果は僕は知りません。フィンランド実験も確か有意性無しだったかと思います。19世紀イギリスのスピーナムランド制度という実際の社会政策では、勤労者の大幅な減少という結果に終わったようです。(ただしこの歴史評価にも諸説あり)“いつか終わる”実証実験という形では、実験の持続性がダイレクトに勤労意欲に影響を与えるので正しく示せないと思います。ただ、僕はある程度勤労意欲が落ちたところで、それが問題とは思いません。むしろ、その制度で救われる人・変われる人がどれくらいいるかの方に関心があります。負の所得税含めて検討すべき政策だと思います。ただしあくまで政策技術として極めて慎重に行うべきで、かつ政策実行過程で政争の具に利用される可能性が高い問題とも思います。
ここまで書いて、つくづく感じるのですがハタラクって一体何なのでしょうね。
人のためを思って為す行為は世界中に溢れてますが、そのうち即自的に金銭に交換されるのはごく一部でその交換ルールさえ、一部の人間で作られたルールで・・・そんな中、人間の価値はハタラクことによる金銭価値で測定され、それが一定未満の人間はStigmaを受ける。それが嫌な人間は必死に凡庸な賃労働を目指す・・・このサイクルはちょっとうんざりします。
D
BIと聞くとどうしても社会主義と結びつけてしまいます。マルクス大先生も人間の本質は労働から生まれる繋がり的なの言ってた気がしますし。なぜ社会主義がダメになったかなどを腹から分かっているわけではないのですが、やはり価値が富にある以上はいずれ破綻してしまうのではないかと考えます。
ですがお金に困った女の子が水商売に走らなくてすむならBIは採用すべきです。
全然関係ないですがもし完全にBIが導入されたなら軍隊の徴兵はどうするんでしょうね。何も軍隊に限った話ではないですが、お金が魅力の主なお仕事(ゴミ収集など)には義務のローテーションとか組まれそうですね。いや、忌避されることをやるということが新たな価値にもなっていくんでしょうか…
にしむらもとい
@A 僕に足りない部分を補足しながら丁寧なコメントありがとうございます。総論として賛成でも各論における反対意見が足を引っ張るので、新しい試みはなかなか前には進みませんね。おっしゃる通り「期間限定」だとそれ自体が結果に影響するでしょうから、本当に政策としてやってしまわない限りまともな統計的判断も不可能でしょうね。でも、理念として正しいものは、僕は「やってしまうしかない」と思うんですけど、いつからか「統計的データで正しいと予測されることしかやってはいけない」という「正しさ」が世の中を統べてしまい、逆に自らを縛って息苦しさを生んでる気もします。あー、僕が喋ると全部そういう方向に持っていってしまう……時を戻そう。
BIに関する社会実験は、他にもたとえばカナダの「ミンカム」がありますね。実際のデータを見たわけではないですが、報告では、労働時間を減らした住民は、男性で1%、既婚女性で3%、未婚女性で5%に過ぎなかったということです。トータルで見れば、精神疾患や犯罪率の低下など様々な要因により、入院期間が8.5%も減ったとのことで、すなわち医療費が減り財政的に大きなメリットがあったとのことです。
ハイエクやフリードマンもその理念に賛同し、ニクソンも導入しようとしそして撤退した、ベーシックインカム。ただ単にお金をばらまくという以上の理念的「意味」がそこにはあると思うんですけどね。
そもそも、19世紀、いや20世紀と比べてもいまの我々は圧倒的に豊かな暮らしをしています(偏在による貧困はありますが全体的な意味として) その豊かさをさらに拡大することを大前提として制度を考えること自体に理念的な違和感を感じます。原始にまで帰る必要はありませんが、どう考えてもいまの人間の暮らしは豊かすぎます。19世紀の人間からしたら物質的には完全にユートピアでしょう。でも、同時に、19世紀の人間が見たときに、ある一面においてはディストピアでもあるかもしれません。価値観の話はまたややこしくなるので、保留しますが、少なくともここまで豊かなのであれば、人間が週に40時間も「働く」必要はない。前時代的な「労働」は1日3時間もやれば十分でしょう。いつの日か、まあまあ遠い未来には、0になると僕は感じてます。労働がなくなるという文脈は、単純な意味での怠惰を許すということでは全くなく、たとえば、銀行で働くことよりラボで研究することの方が圧倒的に価値がある世の中になるべきだという(ような)ことです。もっとそぎ落として形式的分類を煎じ詰めれば、機械的な労働(物理世界への働きかけ)より対人コミュニケーション(精神世界への働きかけ)が優先される世の中になるべきだということです。いつの日か研究すらも単なる機械的労働(人間がやるべきではないこと)になる気がします。
BIの議論が浮上したのは、もちろん現代の物質的豊かさがベースにはありますが、何故いまなのかというと、明らかにAIの進化が引き金ですよね。豊かさが維持されたまま(僕は精神的豊かさが担保されるなら物質的豊かさは限りなく引き下げて良いと思ってますが)、機械的労働をAIロボットに負担させることが可能になれば、「理屈」では人間は生きるために働く必要はなくなります。その世界で人間が人間としての価値を示すには、より人間的であるという価値を示すしかない。いまの人間は他人よりも勝る(どちらかというと「人間的でない」)という価値をお金に変換して使用しています。しかし、労働が意味を失った時代では、『人間的、あまりに人間的』であることこそが価値になるはずです。その価値は、おそらくお金という単位では流通しない。
そんな、ちょっと遠めの未来まで想像(創造)してみました。これはいますぐどうこうではなく、そんな時代来るのかな、と考えながらいまはいまで生きるということですかね。もし、いつかそんな未来が来たなら、その時は、AIロボットという新しい生命体が、人類に対し……くぁswでrftgyふじこlp;「’
にしむらもとい
@D よく、入ってきてくれました。感謝します。ありがとう笑
BIの導入には本当に様々な現実的具体的問題を一個一個クリアしないといけないんだろうと思います。それは、そういうのが大好きな人に頑張って欲しい。僕はデータとにらめっこするのが苦手な人間で枠組みを考えることしかできないマンなので、そういうもんと思って聞き流してください。
BIは、導入におけるいかなる現実的問題を解消しようが、最終的にその理念を支持するにはAIロボットの台頭が不可欠だと僕は感じてます。単純に「現代の価値観での弱者」を救う以上の枠組み的価値が、そこにはある気がしています。だから、既存の政治の枠組みではなかなか判断が進まないのかなとも思います。いますぐ導入されることはなくても、これはもう理屈上は時間の問題でいずれ絶対にBI的社会にはなると思います。AIロボットが全ての労働を負担し軍隊やゴミ収集や性風俗業さえ人間がやらなくてよくなるという世の中が、すぐそこまで来ている、ことはまだ全然ないですがいずれ来るでしょう(最近ぺこぱが頭を離れず口癖化している……) 関係ないですが、大昔にゴミ収集のストでニューヨークがゴミの山になった事例があった気がします。BIに関する何かの本で読んだのをふと思い出しました。労働としては、金融よりゴミ収集の方が本質的に価値が高いはずで、たとえば金融という業界にかかっているレバレッジもどうにかしないといけない問題の一つではないかとずっと感じています。また思考が散らかり始めたので止めます笑
とにかく、そういうまだ妄想に近い「未来」への接続の入口としてBIというものをとらえれば良いのかなと、僕は考えてます。BIは全く解決策でも最終解でもなく、時代の変遷の第一段階に過ぎないんじゃないでしょうか。
これは終わりではなく始まりなのだ。
なんか、今日はやけに筆が乗って妄想っぽい思考を垂れ流してしまってるので自粛してここまでにします笑 スレッドを荒らして(止めて)しまい、失礼いたしました。
D
@にしむらもとい おふたりが銃撃戦している中に竹光で突っ込んでいく心地でした。BI一つとってもここまで未来像を広げられるものなんですね…。同じ人間として感服いたします。BIの導入が楽しみですね。個人的にはBI世界の戦争像に興味がありますがそれはまたいつか…

■7

E
私が来た!ハードルを下げに。
ぼくは日記帳の端っこに、「やりたいことリスト」を書き溜めています。
その中には、「チャリンコで遠出する」とか「ツタヤの黒いのれんをくぐる」とか、今からできるものもあれば、「作曲してみる」や「映像作品を手掛ける」など、およそ今の自分では何から手を付ければいいのかわからないものもお構いなしに思いつくままに書き記しています。結局はやりたいことだけが増えていって、リストが達成されることはほとんどないですが...
それでも、「未来」を考えるだけどもワクワクするし、出来る出来ないは一度置いておいて、そういう楽しい明るい未来を妄想するのは僕にとってはいい精神安定剤になっていると思います。何の話だ?
未来というと、若いぼくは「将来の夢」を連想するので、少しぼくの目指している将来像をみなさんと共有したいと思います。つづく!!

E
自己紹介板でも書いてあるように、僕は建築家を目指しています。小さい頃は、将来の夢が二転三転するようなガキでしたが、中学生ぐらいの頃からボンヤリとものづくりに関わる仕事に就きたいなと思うようになりました。
 絵を描くことが好きで、小学生の頃はA4の紙でちっちゃい漫画を描いてはクラスのみんなに見せびらかしていました。これが結構な評判で、友人たちは「次の作品はやく描いてよ」なんて催促するんですよ~。ちなみに作品名は「グッドちゃん」。ん?聞いてないだって?ごめんね。
まぁ、だから何かとその経験を引きづってるのか新しいモノを創り出す仕事、人を喜ばせる仕事に就くことを望むようになったのかも知れないです。特に、筆を動かすような仕事、例えば、漫画家とかデザイナーとか、もちろん建築家も。
じゃあ何で建築家を目指すようになったかというと、高尚な建造物に魅せられたからでも、建築のもつ無限の可能性に気付いたからでもないんですねぇ。。。残念ですが、僕はそんなことを考えるほど大層な人間じゃなかったみたいです。zoom飲み会でもちょこっと言ったと思うんですが、建築家・中村好文の仕事に憧れたんです。(気になる方は、プロフェッショナル・中村好文で検索〜♪)
 仕事というか、“仕事の在り方”に憧れたと思います。特にアトリエ系といえば良いのか、依頼者と直接一対一で対話を重ねながら家をつくる建築家という職業の、今の時代としては珍しい個人と個人の繋がりを大切にしているところに感動したのかもしれません。ただ設計をする、ただ家を建てる以上の何かを得られるんじゃないかと...
 と誰も興味のないことをダラダラと書き連ねてしまいましたが、以後は適当に、流れを読んでカキコしていこうと思います。ちなみに、VRとか電脳世界の話を聞くと、「楽園追放」という映画を思い出します。確かアレも、電脳世界とリアルの世界があってなんちゃらかんちゃら...っていう作品だったと思います。
所長の言う、”全て融け合いながら進む”というのは、「電脳世界」と「リアルの世界」の共存みたいなものでしょうか?
それにしても所長が建築にかける情熱には驚かされました。知らなたかったです。
精進します!
にしむらもとい
@E 建築家という職業は、シンプルに、かっこいいよね笑 僕の知り合いにも建築家いますが、自身のウェブサイトに白黒の自画像と作品を載せつつメッセージを語って、イキってます笑 施主と丹念に打ち合わせをして家を作るという素朴な意味での建築家というのはとても大事な仕事だと思いますので、頑張って欲しいです。いつか何らかの設計を依頼したいですね。
『楽園追放』はまあまあ好きです。ヒロインのお尻しか覚えてませんが笑 なんか元ネタをパクった虚淵玄脚本のいかにもなSFだった気がします。融け合うというのは文字通り本当に融け合うと思います。分離できない。厳密には、それぞれがグラデーションで混ざるんでしょうけど、まあ一緒くたでいいでしょ。
また建築の話、したいですね。

■8

F
未来についてということで、少し過去を振り返りながら、初めてしっかり書いてみようと思います。
僕は現在高校の教員をしています。なぜ高校の教員を目指したかと聞かれたら、正直理由としては「安定しているから」とか「教えることが好きだから」とか、そういう単純な理由がスタートでした。実際に仕事を始めてからも、性格的に真面目(たぶん?)なので、基本的には前向きに仕事に取り組むタイプですが、特にこれといってどういう生徒を育てたいとか、そういう気持ちはほとんど持っていませんでした。おそらく自分自身のため、誰かから認められたいという一心で、ただ仕事としてやっていたように思います。教職9年目となり、2回ほど卒業生を出したところで、やっと気づきました。自分は子どもたちに何もしてあげれていない、高校3年間というかけがえのない期間を無駄にさせてしまっている、と。もしかしたら、「そんなことない。君は生徒のために頑張っていたじゃないか。」と言ってくれる方もおられるかもしれません。しかし、やはり自分では気付いてしまっています。僕は、その場を取り繕うことで、自分に被害が出ないように(要するに、嫌われないように)コソコソと地味にやっていただけでした。生徒のためになんて、おそらく微塵も思っていなかった。自分さえ良ければいいと思っていたと思います。
変えたいと思いました。すべてが生徒のためにとか、偽善者ぶるつもりはないですが、少なくとも自分のためにより、生徒のために過ごしてみたいと。もっというと、誰かのために生きていきたいと。
そう思っていたときに、僕は所長の動画に出逢いました。きっかけは数学のチョイ解きレッスンでしたが、様々な動画を見せていただく中で、本当に心から突き動かされるものがあり、信念をもってやっていくことに希望をもらいました。
今は生徒たちに、一定の自由を与えながら、とにかく面白い体験をさせていきたいと思っています。学校という環境で、不必要な制限を極力なくしていきたいです。「面白い」が何なのかは模索中ではありますが、まずは「より深く人と関わること」をテーマにしながら、生徒たちとやり取りしていけたらいいなと思っています。僕自身は所長の言うパッション(情熱)で生きていきます。自分の想像を超えて、成長していく子どもたちの姿を見ることが当面の目標になると思います。
あまり未来についての話ではなくなってしまいました。自分の漠然とした目標を語ることになってしまったことをお許しください。

にしむらもとい
@F 目を背けず率直に自分を見つめること、そこから新しい未来が始められる。素晴らしいことだと思います。変に壮大なことを考えるのではなく、身の丈で自分が正しいと信念を持てることを積み重ねる。それが自信を形成してゆくのかなとも思います。僕は教育というものには片足しか突っ込んでいない人間なので、Fさんのように現場で向き合っておられる方にこそ、新しい教育、その未来を、大きなスケールではなく肌感覚で見出して欲しいと思います。僕も、一緒に成長してゆければ良いなと思います。

■9

D
のるしかない、皆さんが作ってくれたこのビッグウェーブに。ということで小生、大っぴらにだらだら自分語りさせていただきます。
私はみなさんとは少し方向性が違うようで、未来と聞くと少し暗いイメージが出てきてしまいます。

D
私は去年、一昨年と浪人していたのですが一浪の時に母が癌で他界してしまったんですね。不幸中の幸いにも私は宅浪してましたので比較的母の近くにいることができ、息子として恥じない行動もできたかなとおもうのですが、やはり自分には衝撃的すぎることがたくさんありました。癌というのはめちゃめちゃ痛い上に抗癌剤の副作用でご飯が食べられないくらい気持ち悪くなるようで…。日々悶絶する母を見て「ああ、今俺が癌じゃなくて本当によかった」と薄情な感情が芽生えると同時に、「何年も喜び悲しみをともに経験し、自分を育ててくれた『母』という人も本当にパッと露と消えてしまうのか…」という命の儚さと「人間いつかは死ぬんや、人生一度きり、やりたいことやって死ぬ時に後悔しないようにしよ!」という感情が湧き出たことをよく覚えています。
というわけで私が「未来」と聞いて思い浮かぶのは新たな社会像や人間像ではなく、無常感とその無常の中でも何かを追わなければならない義務感です。ただの死生感やないか…。
にしむらもとい
癌の方を看取るのは本当に辛いですね。死生観に影響を受けるのも無理はないと思います。僕も以前に癌の知人を看取りました。元気なうちは痛みで暴れてましたが、最後はモルヒネで意識朦朧としたまま静かに息を引き取りました。時間的に少し前のことのようなので気持ちの整理はついているということなんでしょうか。想像を超えるヘビーな話題をぶっ込んできたので、なかなか突っ込みづらいですよ笑
確かに、未来の究極は「死」ですから、死を見つめながらいまを、そして未来を考えるというのは大切な視点だと思います。D君が裏で結構ネガティブな発言をしていたのも、もしかすると、こういうことが影響していたんでしょうか。個人的には、僕は若い頃に何らかの形でニヒリズムを経験すること、それ自体は良いことだと思っています。もちろん、そんなもの全く望んでいなかったカタチだと思いますが、ただ、D君の未来はいま感じている「無常感」の向こう側にあるのでしょう。無常だからどうするのか。
少しでも、その答えを探すお手伝いができれば良いのですが。
A
スタンプを押そうかとも思ったんですが、なんかそれも違うなと思い、あえてコメントさせていただきますね。
大変な経験をされたんですね。
でもその出来事を通して様々な感情を生み出してもがいた姿は立派だと思います。
僕は以前自分で処理しきれないほどの哀しい経験をした時、思考放棄をしてしまいました。その瞬間は感情ゼロで楽でしたが数年たった今でもフラッシュバックに苦しむことがあります。
もちろんD君の体験はこれからもいろいろな影響を与えていくのだと思いますが、今この瞬間向き合えているD君の姿勢は尊いと思います。
特に建設的でも何でもないツイートになってしまいましたが、率直な感想という事で上げさせていただきます。
D
Aさん、所長、Bさんがあまりに熱い議論を繰り広げていたので別ベクトルで重いのぶっ込んでみました笑
普段の我々の、話に入って行きづらい気持ちを知れェー!
というのは冗談で
@にしむらもとい おっしゃる通り先日の☎️🍺でたらたらとほざいてたのもこの影響が多いと思います。
ですが、多感でかつある程度時間のある浪人という時期に「死」というのに触れ、色々考えられたのはとても幸運だったと思います。所長ならわかると思いますが真剣に塞ぎ込むように考えるというのは暇(オイ…)じゃないとできない行為だとおもうのです。
また、自分が今も色々塞ぎ込んで考えているからこそ、所長が養老氏たちに出会い最終的に自分の芯となるものを見つけられたことがとても羨ましい。私も向こう側に行けば自分の人生に意味を見出せるとおもうのですが、今はいかんせん無気力でそちら側に行こうとは思えないです。これぞ無常感ですね。無常なら無常なりに無理に乗り越えずとも、それはそれで一つの生き方なのかなとは思います。乗り越えようとすると疲れちゃいますしね。
D
@A コメントありがとうございます。建設的であろうとなかろうと自分の話を聞いてくれる人には好意を持つのが人間というものです。
Aさん文章から優しさ漏れてますよ。Aさんは優しくて共感性が高いからこそ感受性が強く、許容量をこえフリーズしてしまうのかも知れませんね。(事情を詳しく知らないのにすいません)
自分は良くも悪くもエゴイストなので、あらゆる状況下において「少しでも自分の徳になる情報を得よう」と思って生きています。笑
他人の苦しむ姿をみても頭のどこかでは冷静に「いかにしてこのような状況を回避するか」ということを考えているわけです。

■10

G
皆さんの話を見ていると書きたくなってきたので自分も書いてみます。あまり考えを言葉にして書いたり話したりしたことないのでいい経験かなと思います。

G


自分は人生の最終目標は決めていてそれは「人を救う」ことです。なんかこう書くと上から目線な感じがしますね笑。
「人を救う」といっても具体的には、「痛い」と「苦しい」から解放するということです。単純に自分がその立場だと嫌だから他の人にも味わって欲しくないという理由です。そういう感情は一部のサイコパスを除いてみんな持っているとは思いますが、おそらく自分は人よりそれが強かったと思います。
人生における最終目標が「人を救う」と決めてからは、自分の人生はそれを達成することが最優先で、今の生活は全てそのための過程という感じがします。だから自分は具体的な成りたい職業はありません。強いていえば「1番多く人を救うことができる職業」になります。どんな職業であろうと「人を救う」が達成出来ればなんでもいいと思ってしまいました。
そしてここで問題が発生しました。自分が無知すぎることに気がつきました。今まで目の前の快楽に浸ってしか生きてこなかった自分は、所長の言う「パッパラパー」側の人間だったのです。そこで賢くなりたいと本当に思いました。このコミュニティに入った理由のひとつがその「脱パッパラパー」です。所長の動画を発見して特に2ch。とても影響を与えてくれました。自分にとっては、ただの雑談動画でさえ得られるものがたくさんあり2chの動画はほぼ全て見たというJLAB信者になっていました😇
最初に述べた最終目標云々の考えは、この先、成長した自分からすると、ばからしい妄想だったと思うかもしれません。とりあえず今は賢くなるために頑張っていきます。
書いて表現するのって難しいですね。まったく自分の考えが言語化できません笑。
にしむらもとい
始めの、


にかなりセンスを感じる笑
考えの言語化に必要なことは言語の蓄積だけです。いっぱい言語的表現に触れて自分でいっぱい言語にしてみれば誰でもすぐにできるようになります(安河内風) ここみたいに失敗しても害のないクローズドな空間で、とりあえずたくさん表現してみる経験をしてもらえたら、あっという間に「書ける」ようになりますよ。僕なんか無限に屁理屈こねくり回してるだけですから。
僕は屁理屈の世界の住人なので、もちろん僕を入り口としていろんなものに触れてもらうのはとても嬉しいしそれが目的ですが、偏りなくいろんなメンバーの意見にも触れて、それがG君の成長につながれば嬉しいです。
「人を救う」というわかりやすいキーワードを持っているみたいなので、そこを「基地」としていろんな価値観を照らし合わせながら自分なりの判断基準として取り込んでいってもらえたらよいかと思います。
さしあたって、確かもうすぐワークショップ担当だったと思いますので、頑張ってください&よろしくお願いします笑

■11

H
生きるというテーマのようですが、自分は諸々の無駄そうな欲望をそぎ落として、生きるための目的をシンプルに三つ考えてます。ひとつ知的好奇心を満たすこと、ひとつは科学者を育てること、ひとつはゲームすること(ガチで)。ただ知的好奇心を満たすという事に関しては、満たした後、その知に捕らわれないように意識してます。ここに過剰に捕らわれると無駄に偉そうになったり、マウント取ってみたり、いっちょ啓蒙したろうか、と悪しき方向に進んでいくという実体験があるので。

にしむらもとい
参加いただいて、嬉しいです。生きる目的というのは、究極まで煮詰めると「何もない」だとは思うんですが笑、要は自分で「納得」して生きたいということなのかなと思います。僕も自分の生について納得したいです。
Hさんの場合、純粋な欲望としての知的好奇心、社会的に生きる意味を見出すための後進の指導、そこにゲームが並んでいることが、すごく興味深いです。僕ならその並びだとゲームは知的好奇心を満たす範疇の中に含めると思います。想像ですが、Hさんは格ゲーメインのプレイヤーということですので、ゲームという存在がいわゆるe-sports的というか、身体性を伴ったものなんでしょうね。僕のゲームに対する感覚とは違う側面を感じられてるのかなという気がします。格ゲーはかなり疎いのでまたいろいろお話聞きたいです。
知的好奇心を満たすことに傾き過ぎるととらわれるというのも、そう思います。僕も昔はいまより遥かにエラそうにしてました。積極的にマウント取って人を潰しに行く行為は少なめでしたが笑、それでも人を小馬鹿にした態度は取っていたような気がします。いまはあんまりエラそうじゃないと自分では思ってるんですが……。

■12

I
未来について、私は自動車の自動運転という面から考察したいと思います。

I
私は構造として、こんな社会になってほしい!という思想は(そこに関してあまり深く思考したことが無いので)持っていないのですが、漠然と交通事故で日本国内だけでも毎年3000人以上の死者がでているので、それが自動運転によって解決できればなぁ、とは思っています。
ただ、結論から申し上げると自動運転が社会に浸透するのは今の社会システムでは難しいと思っています。
youtube等で動画を少し漁っていただければ皆さんも確認していただくことができますが、確かに自動運転は技術的には近い将来ほぼ完成するとは思います。
将来と言わずとも現在の車でも技術的には相当高いレベルの、自動運転に近いような安全装備を有してる車はたくさんあります。
しかし、それらは全て安全運転のサポートであり、自動運転ではありません(どこのメーカーも安全装備に関してはそう注意書きしています)
では、なぜこれだけ高い技術を有していながら、自動運転にはどこのメーカーも踏み切らないのかというと、それは偏に自動運転としてしまうと事故が起こった際にその責任をメーカー側が取らなければいけなくなってしまうからだと思います。
ハンドルを握る必要が無く、座っているだけで目的地に着いてくれる車がもし事故を起こしたら、それは車のメーカー側に多分の責任があることは間違いありません。
そんなリスクのある自動運転を、どこのメーカーが商品化するでしょうか?
そうなってくると、自動運転が実現されるかは技術の問題では無く、法律、ひいては人の問題に最後はいきつくことになります。
仮に法律が自動運転に対応できるようになったとしても、本当に自動運転を商品化する会社があるとしたらそれはベンチャー企業だと思うのですが、自動車メーカーは参入障壁が高いのでそんなベンチャー企業が生まれる可能性はかなり低い。。。
そういうわけで人類が交通事故に対して行えるアプローチは、対処療法としての安全装備を発達させていくのが精いっぱいであるという未来展望です🙃
にしむらもとい
自動運転の技術はとても興味深いです。僕も以前にトロッコ問題の動画を作った時に結構考えましたが、おっしゃる通り最後は法律の問題ですよね。人が運転席に座っている限り、事故が起きた時に、整備と運転者の運転とAIの運転の責任を明確に分離する必要があると思いますが、それはなかなか難しそうだなと思います。じゃあ、いっそのこと完全無人自動運転までいってしまえばどうなるかというと、何かあったら誰が責任取るかという話で、誰も取りたがらないなら、公共のバスみたいなものでしか導入できない気がします。既に存在する無人モノレールのバス版みたいな感じでしょうか。
交通事故に対するアプローチというのであれば、僕は人間が運転をやめることが手っ取り早いと思ってます笑 交通ルールを全て無人自動運転の車両に合わせ、人間はそのルールに従ってのみ移動する。徒歩や自転車の移動も全て完全無人自動運転で事故になりにくい交通ルールに従わせる。でも、さらに究極の対策は、そもそも人間が移動しないことだと思います笑 いまもこのご時世でリモートの価値が見直されてますが、人間が生身で出歩く機会が減れば単純に事故も減ると思います。相変わらずおかしな発想ですいません……。
という僕の未来予想は、どちらにしても少し遠くを見過ぎですね。その手前にまず安全運転技術を徹底していくという現実的対策は、重要だと思います。僕の父も高齢で車乗ってるので、先日安全のために、古いメルセデスから最新のトヨタクラウンに、家族皆の要望で買い替えさせました笑 免許を返納してくれるのが一番なんですが……。
B
自動運転には正しく「未来」を私も感じます!
通勤に車を運転する際や規制の際など、車を運転する際に拘束される時間は案外多いですよね。
それらの時間が別の活動に充てられるとなれば、その影響は計り知れないと思います。
とはいえ、運転が好きな方は運転を「体験」として楽しまれていますし、そう言った方が手動運転を望まれる限り、完全自動運転社会の実現は難しそうですよね。「手動運転の禁止」というところにも私はハードルがあると感じています
A
僕も交通業界に働く身として、自動運転に興味があります。
確かに普及にはリスク担保の問題が障壁になりますよね。所長がおっしゃるように社会化(公共化)する未来が可能性としいて強い気がします。そこに公的保険の性格も入り、パブリックセクターに支払う保険料、自動車リース会社に支払うリース料その他家賃、光熱費、通信料等全部コミコミの“都市居住オプション”を様々なグレードでサブスクリプション購入する未来なんかも妄想します笑。ただ、そうした制度の安定性は自治体のスケールメリットに依存するので、将来的には富める自治体と病める自治体の間では交通の在り方自体大きく変わってくるような気がします。中には大企業が全国小規模自治体の保険機能を割高な料金で一括カバーする未来もあるかも・・・
だいぶイタ目の妄想を流しました。笑 ちなみにJRでも割と検討は進んでるんですよ。大阪環状線(山手線の大阪Ver.)でもすでに実証実験を開始して結構良好な結果だそうです。レールの上の方が話を進めやすいのかもしれませんね。
I
@にしむらもとい
実は私も所長と同じで、人間が運転をやめるのが一番良いと思っています笑
ただ、人間が移動しないという発想までは辿り着けていませんでした!流石です!
新型クラウンの安全装備は素晴らしいので、ベストな車の乗り換えだと思いますよ!
@B
確かに手動運転の禁止、つまり手動運転を0にするのは難しい、というか私はそれは不可能だと考えています笑
しかしある程度自動運転が普及すれば、違反を起こすのはほぼ手動運転のドライバーのみとなるので、違反取り締まりのリソースをそこに割けるので、違反率も減少するので、安全な交通社会という目的は達成されるはずです。
あるいは手動運転専用の施設を整え、分転(分煙のパクリ笑)を推進するのもアリだと思います!
サーキットをたくさん作り、運転の好きな方は、そこで思う存分ドライブしていただければ良い!(私も近くに無料のサーキットがあれば、そこで楽しくドライブします笑)
@A
都市居住オプション、面白いですね!
自治体間の大小の問題ですが、大きな政府を実現し、そこに権力を集中すれば解決するような気がしますが、多分これはこれでたくさんの問題が内在しているのでしょうね😢
にしむらもとい
@I 「分転」❤️

■13

J
いつの間にかFGOを1週間で30時間ぐらいやっててびっくりしました(笑).上の議論は一通り読みましたがFGOの周回をしながら読んでいたのでもしかしたらすでに皆様がおっしゃられていることを言っているかもしれません.
自動運転について
結構前(一年くらい?)に「人や自転車などがいない環境下ならば自動運転は既存の技術で十分に可能」という言説を聞いたことがあります.要するに人が出歩かなければ自動運転は今すぐにでも実現できるってわけですね(笑) 人間の行動など不確実性の高いものをベースルールで扱おうと必要な記述量が爆発してしまうので現実的ではないですし,ディープラーニングで扱っても誤認識など可能性は拭えません.そして将来情報技術が十分に発展しても,人間という不確実なものが自動運転車の走行路上に存在する限り事故の責任問題などの課題は解決されないと思います.
さて,上の記述を鑑み,自家用車レベルで自動運転が普及させるのならば1.人間の不確実性を完全に排除できるくらい技術が発展するか,2.人間を道路から排除するか,もしくは3.不完全なものでも自動運転を導入した方が事故の発生に起因するものなどトータルコストは低くなるので人間の不確実性にまつわる問題をある程度我慢して導入する のうちいずれかしか選択肢は存在しません.そして,1.を実現させるくらいのコンピュータの性能が想像できない(笑)し,3.を選択するにせよ,責任問題等の議論は発生し,それを解消する政治的過程はかなり迂遠なものだと思うので,まぁ自家用車レベルで自動運転が普及させるためには3.しか現実的な選択肢がないかなぁと思います.ところで,3.に関係するのですが,自動運転や,AmazonやYoutubeのレコメンドシステムなど昨今の情報サービス全般(あえて言い換えると擦れば“AIを使っているような“サービス全般)はこれから先に渡っても発展を続けるでしょうが,これらの技術を用いるに当たって一番意識しなければならないことは,「その技術を用いれば,自己の主体性が自己の認識していないところで狭められるかもしれない,また一旦主体性が狭められるとその回復は容易ではない(ほぼ不可能と言っていい)」という事実です.
レコメンドシステムを想像してもらえればわかりやすいのですが,あれ,「自分で考えて」選択してませんよね(笑)GoogleかAmazonから自分と他の人のデータから勝手におすすめされたものの中から選んでる,もしくは選びさえせず一番におすすめされたものを受け取っているだけに過ぎません.探せばもっと自分に適したものがあるのかもしれないのに,それをせずGoogleかAmazonのおすすめに身を委ねているというわけです.もちろん,人間はこれまで自己が得てきた情報の中からしか選択できませんし,その情報と選択肢は昔に比べ格段に増えたことも事実なのですが,昔はある程度の主体性を持ってすれば現在自己が保有している情報や選択肢は増やせたのに対し,現在は「便利である」および「経済的なメリット」というある種暴力的な性質を持つ要因によって主体性が狭められているというような状況です.実際自分で次に聞く曲をAppleMusicから探すより今週のおすすめセットリストを聞いた方が便利だし大体自分の趣味にあった曲が聞けます.ただ,それが「AmazonやGoogleやAppleが保有しているデータとアルゴリズム」という自己の認識の範囲外で出力されたということを意識しなければならないのです.(問題-“problem”と書くと解決しなければならないという思考を惹起させてしまうので,ここでは用いません)これは,まだ商品や次に聞く曲をおすすめされる程度の段階にとどまっているので社会的にはそう認知されている言説ではないですが,将来レコメンドされる対象が保険や住宅,就職先や結婚相手など人生を左右しうる程度のものになれば,「自己の選択」により生ずる責任は果たして誰が引き受ければいいのでしょうか?また,一旦,そのようなものまでレコメンドされ,それを選択する社会になれば,「便利である」という要因により元の形の社会に戻ることはほぼ不可能であり,そのような社会から今のような「ある程度の主体性」が担保されている(ように見える)社会は想像できなくなるでしょう.そして,今はおそらくはそのような社会の方向にゆっくりとですが進んでいるように思えます.「自己の認識の範囲外によって」です.ある一人の政治家や経営者に責任を帰結させるのは無理でしょう.ベゾスもザッカーバーグも市場というがよくわからない存在が求めたから今の経営を進めているに過ぎません.責任者は誰もいないまま,未来が後戻りできない形に確定しつつあるというのが今日の状況です.まぁ,個人的には“今から未来を決めて作っていく“のではなく,“ある確定した未来に進むため今がある“という姿勢をとっているのでこのような状況は問題視していませんが.
というか,この内容ほとんどユヴァル・ノア・ハラリの著作の内容まんまですね笑ハラリは浪人の時から読んでいて,社会科学サークルで集団論文書くときもよく使ってました.老成した書道家の運筆のような文章なのでハラリの本は好きですね.あとPSYCHO-PASSの「サイコパスシステム」に関連しますね.
ちなみに“ある確定した未来に進むため今がある“と言いましたが,もし自分には運命というものが存在し,それがクソみたいな結末を向かうと仮定すれば,まず「そんな運命許さんぞ!!!ぶっこわしてやる!!!」って足掻きます(笑)そして失敗したときは,もちろん失敗の要因は考えますがまぁそんなもんやろと受け入れて次に切り替えていきます(笑)一見矛盾しているように思えますが,少なくとも個人の人格上において矛盾が存在してはいけないなんて規則は存在しないはずです(笑)禅問答チックに言えば「自分には矛盾が存在しているが故に自分は矛盾していない」って感じですね.なにを言っているかわからないと思いますが自分でもなに言ってるかわかりません(笑)

■14

にしむらもとい
それでは、お時間ということでワークショップ締めさせていただきます。お疲れ様でした。
出だし4週連続でワークショップ担当させていただきました。それなりに道筋を示そうと全体像考えてやりましたが、非同期チャットの流れのコントロールが難しく、活性化しない時は自分でひたすら書き倒して隙間を埋めるという禁断のワザも使ってしまいました。参加者の慣れ、実際のワークショップ開催の蓄積、文化ができてくれば、少しずつスムーズになるかなと考えてます。
このワークショップのアイデアは、Slack使って人を集めようとイメージした時点で、初めから頭にありました。Slackはどちらかと言えば非同期寄りのコミュニケーションツールなので、非同期の良さを活かして皆が各自の立場環境に関係なく参加できる場を作りたいと思いました。もちろん、日時を調整してバーっと集めて一定の時間共有すれば従来型の議論の場は作れると思いますが、それはそれで、参加者のモチベーションの違い、可処分時間の違いなどが問題になり、多少の無理を強いるので、この場がガチ人間だけでないと成立しない敷居が高すぎのガチ空間になるのを危惧しました。僕も皆もしんどい。ここは大学のゼミではないので、たとえば、基本的にロム専でチラ見してそわそわしてるだけの高校生なんかも、たまに勇気を出してこっそり意見を残してみたりできるようなユルさは残したい。
そんなわけで、今後も、ユルいんだけどちゃんとしてもいるという二面性を両立させながら、優しいワークショップを継続していければ、そして、その活動が皆さんの人生に少しでも何かを添えられれば嬉しいです。
次週から、いよいよメンバーで回していただくことになります。トップバッターの方、記事作成大変ですが、よろしくお願いします。 

↑↑↑↑ここまで↑↑↑↑