「何者でもない僕のこれまで」前編
note 始めてみました。
映像制作会社guillocheの代表、J.K.Wangです。
いろんな人から「noteはいいよ〜」「自分自身の考えてることが整理できるよ」「noteやってないなんて遅れてるよ」なんて言われるので、
note始めてみました。
(やるからには正直ベースで書きます!)
自己紹介
僕の経営しているguillocheという会社(ギローチェと読みます)は
映像制作を基盤としたクリエイティブカンパニーです。と言っても設立は2019年4月なので、まだ一年足らずです。フリーランスや制作会社勤務を経て、この度独立しました。主にCMやMVのディレクション、スチール、イベントのプロデュースなど、信頼できる仲間2名と一緒に運営しています。
▲2019年6月にプロデュースさせて頂いた写真展
▲蒔田彩珠さん(ユマニテ)
▲監督作品「処暑に満つ」(坂本龍一国際短編映画コンペ受賞作品)
俳優時代
もともと、俳優志望でした。
立命館大学文学部を卒業後、特に当てがあった訳でもなく上京し、国分寺に2年住みました。
芸能事務所の養成所に所属し、レッスンを受けたり、オーディションを受けたり。
しかし、今思えば、本当に甘かったです。
「いつか認められる」って過信してたんですよね。
自分がかっこいいとすら思っていた。
自信は必要ですから、その全てが間違っていたとは思いません。
ただ、過信からくる「甘え」。これは余計でした。
俳優の傍ら、趣味だった写真を通じて「表現したい」という意思が芽生え、2015年に始めてモデルさんを起用して作品を作りました。
これは楽しい作業でした。
2017年4月に「ある視界」と題して代官山で個展を開催し、その初期作品をお披露目しました。
▲展示作品
▲展示の様子
▲奈緒さん(irving)
徐々に仕事に繋がるのが嬉しくて、俳優として営業するべきところを、写真や映像の仕事の営業をするようになりました。
もちろんバイトしながらだったけど、俳優に比べれば営業がとてもスムーズでした。
俳優って難しいんだな、俳優として自分を売るって
本当にハイレベルなことだったんだな、と痛感しました。
俳優の頃、もうちょっと自分を客観視しておけば、
「社会人としての俳優」でいられれば、
もう少し結果は変わっていたかな、と。
この写真展「ある視界」をきっかけに、大事な教訓をくれた俳優生活とお別れしました。
ディレクターとしてフリーランスで活動開始
その後2017年に、仲間内でCal.4164 Fiim&Creativeをいう映像作家チームを結成。
(キャリバー4164と読みます)
毎度ネーミングが読みづらいんです。キャリバーもギローチェも、実は機械式時計に由来しています。
今見てもなかなかカッコいいロゴだなと。笑
4164は、当時の住所です。
4-16-4に住んでました。
家賃20,000円!ボロ屋生活時代
キャリバーは簡単に言うと機械式時計のメカの部分の総称です。どのブランドもキャリバー〇〇というように、自社ムーブメントに名前を付けるんです。
キャリバーのメンバーは、そこ家でルームシェアしていた友達でした。
60,000円(!)の家賃を3人で割って住んでました。
場所は上野あたり。
毎日ネズミがでましたし、冬は屋内なのに白い息が出るほど寒い。
築50年のぼろ家でした。
▲ルームメイト(左右)と僕(真ん中)
1人は俳優。
1人は広告会社に勤務していました。
ネーミングをつけたことで、色々と活動しやすくなりました。
日本って肩書きや所属とか結構気にしますよね。
契約書でも「御社名」とか書かなきゃいけなかったりする。
キャリバーは会社じゃないけど、非常に役に立ちました。
▲畳を全部剥がしてフローリングにしたり。
お金はないけど楽しんでました。
今でも誕生日には3人で集まってサプライズします。
人を喜ばせるのって楽しいし、遊び心は大切ですよね。
ここでの2年間の生活は今の仕事にも生きています。
すぐにはお金にならなかったけど、
作品撮りも含め沢山の方を撮りました。
映像も写真も独学なので、元々クライアントがいるわけではありません。増してや自分1人だと出会いにも限界があります。いろんな方に出会うべく、お金がなくてもイベントを開催し、きっかけを作ろうとしました。
2017年の7月にはモデルの明希知美さんと一緒に「REBORN91」を南青山で開催。
撮影した知美さんの映像と写真を展示し様々な業種の方と出会うことができました。
知美さんは僕のポテンシャルを引き出してくれた恩人です。
No.1にはなれない。
変な言い方ですが、僕は自分の力を全く信じていません。自分より経験のある人、知識のある人の力を借りて、あたかも自分に才能があるように見せる。笑
性格が悪そうに見えますが、本当にいつも誰かの力を借りています。
No.1になれないなら、
No.1と組む。
孫正義さんの唱える戦略です。
僕は戦略とまではいきませんが、
はじめに書いた「私が撮りたかった女優展」もその例です。僕以外のフォトグラファーは皆さん僕よりキャリアのある方ばかり。ご一緒できる機会をこちらが作ることで、僕も少し背伸びできないかな。。なんて考えてました。
▲2017年に開催した「REBORN91」
少し浮かれてしまった僕は、この時点でバイトを辞めました。半年ほど映像と写真だけで生活しました。
でも、効率はあがりませんでした。
週に3日あればできる作業を週6かけてやるだけ。忙しいと思い込んでいたんです。
今50歳くらいの大先輩からは、
「やると決めたらやる!バイトは辞めて本業に集中しなきゃ!」
みたいに言われることが結構あった。
もちろんその考え方はかっこいいし、そうしたい。
でも、ぼくには合わなかった。
本当に忙しくなるまで、バイトというルーティーンワークを捨ててはいけないと思う。
僕の場合は結局時間にルーズになってしまうだけだった。3時間あればできる編集も、時間に余裕があるから6時間かかる。休憩する。雑誌を読んだり映画を観たり。。そういうときのインプットってそんなに役に立たなかったりする。
もう一度バイトをしてみる。
そんな時、一本の電話が。
「もう一回バイトしない?」
のちに僕の会社ギローチェの株主となる、人材派遣会社のH社長からでした。
俳優を志していた頃、H社長の会社でコールセンターのバイトをしていました。その後映像の仕事一本でいきたいと話しそのバイトを辞めたのですが、何を察したのか、「どんな生活してるの?忙しい?」と訊かれました。
僕はH社長の忙しさを知っていますので、
迂闊に「忙しいです」とは答えられず、
素直に現状を話しました。
H社長は「タイムマネジメントやな」
と、如何にもビジネスマンらしいことを言いました。
何が正解か分かりませんでしたが、とりあえず言われるままに週2回だけバイトにいくようになりました。
フタを開けると僕は10時の就業時間にも遅刻するほど生活リズムを乱していました。忙しいぶってるだけで、不規則な生活をしていたことに気づきました。
仕事内容は、なんでも屋。
H社長の会食の予約から、会社の助成金の申請や給与計算など、なんでもやりました。
週2日バイトをするということは、自分の仕事ができるのは週5日。5日間の中でどれだけ効率的に仕事ができるかが勝負でした。生活リズムも取り戻し、バイト中にやらなければならないことが浮かんできたりして、徐々にいい方向に進んで行きました。
バイトは時給1100円でしたので、生活の足しになった訳ではありませんが、それ以上にフリーランスの重みを知り、覚悟が生まれました。
このままやっていって、本当に忙しくなったら、バイトを辞めよう。
そう思っていた時、ある60歳くらいの男性と出会います。
その人は言いました。
「100万円あげるから、起業しない?」
続きはまた書こうと思います。
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