アメリカン・ジャズとポピュラーミュージックにおけるガール・グループの歴史と役割:第2章
1930年代 - スウィング時代の隆盛
1930年代のアメリカは経済的には大恐慌に見舞われていましたが、文化的には豊かな時代でした。この時期、ジャズは一大カルチャームーブメントとして隆盛を極め、ニューオーリンズやシカゴなど特定の地域から全国へと広がりました。
ベニー・グッドマンが1938年にカーネギーホールで行った歴史的なコンサートは、ジャズを「本格的な音楽」として認めさせ、アメリカ音楽の正統派としての地位を確立しました。
この時代にはカウント・ベイシー楽団やデューク・エリントン楽団など、それぞれ独自のスタイルとサウンドを持つバンドが台頭し、スウィングの多様性と芸術性を示しました。カウント・ベイシーは「カンザスシティスタイル」で知られるリズムに焦点を当てた力強い演奏で、デューク・エリントンは洗練されたアレンジと卓越したバンドリーダーとしての能力でジャズの可能性を広げました。
スウィングの普及は、ラジオと映画の普及により加速され、1930年代にはアメリカの家庭の大半がラジオを所有しており、音楽は即座に国の隅々まで届くようになりました。
大恐慌時代のニューヨークを背景に、劇場で働く若い女性たちと彼女たちの恋愛を描いた『ゴールド・ディガーズ・オブ・1933』や、エンターテインメント業界の華やかな側面とそのシビアな現実を描いた『ハリウッド・ホテル』などの映画によって、音声付き(トーキー)が一般的になる中で映画が大衆の娯楽として定着し、ビッグバンドやスウィングジャズが演奏される映画がジャズミュージシャンやバンドリーダーたちをスターダムにのし上げるきっかけとなりました。
ボズウェル・シスターズの光と影
1930年代、ボズウェル・シスターズはその独特のハーモニックな歌声と革新的なスタイルで新たな風を吹き込みました。
マーサ、コニー、ヘルベティアの三姉妹は、ニューオーリンズのジャズから影響を受け、クローズ・ハーモニー、スキャット、そして即興のリズミックな変化を取り入れたパフォーマンスで知られるようになりました。彼女たちはジャズのリズムとメロディを巧みに取り入れたボーカルアレンジを展開し、多くの楽曲でその革新性を見せつけました。
特に1934年にリリースされた「Rock And Roll」という楽曲は、その後のロックンロール音楽の先駆けとなり、後の音楽シーンに大きな影響を与えました。
ボズウェル・シスターズのスタイルと技術は、エラ・フィッツジェラルドをはじめとする多くのアーティストに影響を与えました。特にエラは彼女たちの影響を公言し、彼女たちの技術と表現力を高く評価しました。
彼女たちの最も記憶に残るパフォーマンスの一つに、1932年の映画「ビッグ・ブロードキャスト」での出演があります。この映画で彼女たちは「Shout, Sister, Shout」という曲を披露し、その圧倒的なパフォーマンスで観客を魅了しました。
ボズウェル・シスターズの音楽的な成果と革新性は多くの称賛を集めましたが、彼女たちのキャリアは困難な挑戦に満ちていました。
1930年代は女性アーティストにとって非常に競争が激しい時期であり、特にジャズやポピュラーミュージックの分野では男性が支配的でした。女性としての彼女たちは、業界内の性別に基づく偏見や制約を乗り越えなければなりませんでした。
さらに、グループのメンバーであるコニー・ボズウェルは、若い頃にポリオを患い、下半身不随となる障害を抱えていました。彼女は公の場で車椅子に座ることを避け、パフォーマンス中は通常、見えない方法で座位を保っていました。この障害は彼女自身だけでなく、グループ全体にとっても多くの障壁となり、パフォーマンスの機会に影響を及ぼすことがありました。
加えて、1936年にグループが解散したとき、各メンバーはソロキャリアを追求しましたが、それぞれの道で成功を収めるのは困難でした。特に音楽業界の急速な変化と、大恐慌後の経済的な不安定さが、彼女たちのキャリアに追加のプレッシャーをかけました。
これらの困難にもかかわらず、ボズウェル・シスターズは音楽界における女性の地位向上に貢献しました。彼女たちの音楽スタイルと成功は、他のガール・グループにも影響を与え、特にアンドリュース・シスターズのようなグループが台頭するきっかけとなりました。
ガール・グループの台頭
ボズウェル・シスターズ以外にも、ガール・グループが大きな影響を与え始めていました。
特にアンドリュース・シスターズは、この時期に登場し、ジャズ及びポピュラー音楽において顕著な役割を果たしました。
アンドリュース・シスターズは、その独特なハーモニーとエネルギッシュなパフォーマンスで知られるようになりました。彼女たちの音楽スタイルはスウィングジャズに基づいており、そのリズミカルでキャッチーなアレンジはすぐに大衆の心を捉えました。特に「Boogie Woogie Bugle Boy」などの曲は、彼女たちの代表曲として知られ、第二次世界大戦中に米軍の士気を高めるために広く使用されました。
アンドリュース・シスターズの成功は、ラジオと映画というメディアの新しい形態の普及によって加速されました。「Boogie Woogie Bugle Boy」のパフォーマンスで知られている"Buck Privates" (1941)や、彼女たちの音楽が映画の重要な要素として取り入れられた"In the Navy" (1941)、そして特別ゲストとして登場した"Hold That Ghost" (1941)は、バッド・アボットとルー・コステロによるアメリカのコメディデュオ、アボットとコステロと共演したことでその音楽スタイルを広範な観客に紹介しました。
また、彼女たちの曲はラジオでも広く放送され、全国的な名声を確立しました。
アンドリュース・シスターズの音楽とパフォーマンススタイルは、特に女性が主体の音楽グループの形成に影響を与え、1940年代の戦時中の音楽において女性が活躍する重要な役割を果たし、その影響は深く根付いていきました。
1930年代の余波と戦時中の音楽への架け橋
1930年代のジャズは、レコード技術の改善とラジオ、そして映画の普及によって、前例のないスピードで拡散されました。ビッグバンドスタイルが登場し、ベニー・グッドマンやデューク・エリントンなどのバンドリーダーたちが、スウィング音楽の爆発的な人気を牽引しました。この時代の音楽は、一連の社会的、経済的変動の中で、アメリカ人の心の支えとなりました。
1940年代に入ると、世界は再び戦争の影に覆われました。ジャズとポピュラーミュージックは、戦時の士気を高めるための重要なツールとして機能しました。アンドリュース・シスターズのようなアーティストは、その動感あふれるパフォーマンスと愛国的な歌詞で、兵士たちの間でも絶大な人気を博しました。こうした音楽は、前線だけでなく国内でも共感を呼び、戦時中の困難を乗り越える一助となりました。この影響は、1940年代の音楽に深く根ざしています。
次章では、戦時中の音楽とアンドリュース・シスターズがどのようにアメリカの音楽シーンに新たな動きをもたらしたかを詳しく探ります。
本記事は、木村潤の遺稿を元に再編集しています。
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