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オンラインの呪縛からの解放。「本物」の「本当の魅力」を考える。

オフラインで人と会うメリットとして、よく挙げられるのは「オンラインではわからない、人の熱量に触れられる」ことだと思う。

私がよく記事を書く際に参考にしている、精神科医の斎藤 環さんの言葉を借りると、それは「臨場性」という言葉に置き換えられるかもしれない。

人と人が出会うこと。その場に居合わせること。ライブであること。face-to-faceで話すこと。これらをさしあたり「臨場性」と呼ぼう。私がコロナ禍の渦中で目をこらしてきたのは、こうした「臨場性」の価値のゆくえについて、であった。

---(引用)-人は人と出会うべきなのか

僕自身もいくつかのオンラインサロンやコミュニティに入っているので、概ねこの意見には同意だし、なるほど考えてみれば、今までテキストや動画などといった形で2Dでしか味わっていなかったものが、現実という世界で3Dで味わえるようになったという点で、「臨場感」という言葉は面白い。

もっと正確にいうなら「より、リアルをリアルよりも濃く味わえるような体験」といった感じだろうか。

一重に「緑色」という他にも、「深緑色」であったり、「薄緑色」なども存在するように、臨場感にも強さというか、奥行きもあって。

その強い臨場感を味わえる手段の一つとして「オフラインで人の熱量に触れる」ことは確かに有効だ。

先日私が所属するコミュニティの一つ、レッツ朝活サロンのオフ会に参加したのだが、3回目の参加にして、オフ会についてさらなる学びを得られたので、この記事で共有したいと思う。

SNS の「贈与」と過度な神格化

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普段私たちが(特にそういうコミュニティに入っている人が)触れているのは、影響力のある人や、業界の凄い人たちの情報が主になる。

もちろん動画や情報発信などの過程で姿を見ることはあっても、それはあくまで配信用に作られた「彼」なので、そこに100%現実の「彼」が反映されているわけではなく、「実績」という鎧を着たり、「言葉」という風を操って、見え方を変化させたりする。

だから、いかにも自分とは違う手が届かないかのような立場にいるように感じるので、何か言われたら信じてしまいそうになるし、ある種の宗教のように判断を全て委ねてしまうケースも少なくない。

(特にWeb業界ではそれが顕著な気がする・・・)

誤解して欲しくないのだが、「彼ら」があげた成果や実績がもちろん全てが嘘というわけはないし、実際に法人を建てられたりなどしたり、若くして経営陣のトップに君臨しているような人を見ると本当にすごいなと思う。

何人も参考にしたい人はいる。

だが、自分が疑問を覚えるのは一種のSNSに深く蔓延る贈与の「呪い」や見方のバイアスがかかっているんじゃないかということである。

ここでいう「贈与」とは、近内悠太さんの、「世界は贈与でできている」という本のなかの言葉である。

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この市場経済の中で、私たちが確かに必要とはしているけれども、お金で買うことはできないもの、及びその移動をひとまず「贈与」と呼ぶことにする。

要はオンラインでのポジション取りや、ある程度意図的に偏りをつけた発信に踊らされがちなのではないかと思うのだ。

かくいう僕自身もよく人に影響されはするのだが、自覚できるようになってからはだいぶそれだけで判断するようにするのをやめた。

この自覚については別記事で書きたいと思う。

「実績」というフィルターを外してみれば

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オフラインであってみると、そうした「実績」よりも「その人の見た姿」とか、「耳に触れた言葉」とか、「肌で感じたこと」がビンビンに伝わってくる。

One Pieceに出てくる覇気じゃないけれど、見ただけで圧倒されるような人もいるし、(オーラが違うってやつですね)見た目的な質量や圧力で押してくる人もいる。

オンラインで見ていた姿やイメージとは全く違う「彼」らに気づかされるのである。いわば、自分が見ている「彼」らに新しいストーリーが紡がれるのだ。

これは神アニメやドラマが1シーズン終わった後に続編の制作告知が流れたり、OVAの制作が決定した時のように、ある種の達成感や爽快感にも似たような形容し難いような感情で、より人の魅力を増大させる。

それと同時に「彼」らが良くも悪くもただ、1人の人であることを再認識させられる。なんというか自分が勝手に相手に壁を作っていたように思えるのだ。

インターネット上の世界よりも、物理的な距離が縮まるからだろうか。自分が(勝手に)妄想していたよりも、もっと泥臭い努力をしているし、なまなましい一人の「人間」として存在しているのだ。

その意味で、確かにその人はすごいのだけれども、なんだか自分と同じように見えてくる。

僕が思い描いていた彼らは、「完璧で、物凄い頭が回って、なんか秘密のテクニックを持っている」みたいな感じだった。皆に対してそう思っていたというよりは、特定分野だったり、自分と比べてだったり、様々だ。

しかし、実際はたわいもない雑談もするし、下ネタを言い合ったりもする。カードゲームで遊んだりもしているし、必ずしもいつも仕事ばっかりというわけでもない。

オンライン上では鋭い意見をバシバシ言っているけれども、実際に会うと雰囲気が和やかで話しやすいオーラを醸し出している。

とにかく、自分が見ていたものは幻想で、リアルはもっと生々しいと素直に感じたのだ。いい意味で期待を裏切られたのである。

あれほど手の届かないと思っていたかの人が今目の前にいる。最も簡単に実現できた。

リアルで会う醍醐味はこのように、「実績」などの「わかりやすくさが判別しやすい」フィルターを外して、ありのままの人に触れることができる点だと個人的には思っている。

それに初めて気がつくと、SNSでの彼らの見方も変わるし、自分の思考自体も変えることができる。

「自分はどれほど『期待』という偏見を持ってこの人を見ていたのだろう?」

「それによって何を達成したかったのだろう?」

「それぞれの人がいろんな分野で自分の思いを持って活動している。規模の違いはあれどそこに優劣はない。」

だから自分ももっと自由に生きていい。行動していい

この思考が頭の中を駆け巡った時、ふと自分の内面の感情を掘り起こしてみると、そこにはある2つの感情が存在した。

「つながりへの喜び」と「過去に感じていた嫉妬」である。

最後に、自分と改めて向き合う

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前者については既に述べたので割愛させていただき、問題は後者の嫉妬。

過去の自分はSNSでの「彼」らをあくまで「自らの手の届かない」ところに位置付け、神格化していた。

それはつまり、自分に対して以下のような言い訳を与える口実を作っていたのだ。

自分はこの人たちに追いつけなくてもしょうがない
自分が取り組んでいることが正しいのか不安になる・・・
みんなはどんなすごいことをしているんだろう?

考えてみたらいつものパターンだった(笑)。

だが、オフ会を通じて「本物」に触れると、一種のエネルギー移動が発生して、自分にも「見えないパワー」のようなものが伝えられる(気のせいかもしれないが)と同時に、「純然たる現実」にもぶち当たる。

実際に人とあった以上は、「すごい人と話すことでやる気が出た」というだけでなく、兎にも角にも、言い訳をしている場合ではなくなるし、言い訳をしたいとも思わなくなる。

それが自分と同じ業界の人や、ロールモデルにしている人であれば尚更だ。

だから自然と自発的・主体的な行動も増え、影響力の人の意見だけに踊らされるのではなく、自分自身でも考えるようになる。

副業だろうが、フリーランスであろうが、今自分が取り組んでいることに対して視野が広がるのである。

だから、オフ会に参加する際には「すごい人とあって、夢のような話を聞きたい」というよりも、

もっと深い部分というか、「人とあった上で何を考えたいか」「どのようなことを得たいか」と言った部分をあらかじめ考えた方が、後々の自分自身の探究にも役立つ知見が得られるかも知れない。

今後も僕はコミュニティのオフ会に参加するつもりだ。

その1つ1つで、自分が期待していたものと、実際に会って感じたこととの差に注目しつつ、オフ会の臨場感を味わっていければと思うのだ。

この記事の中で紹介している本はこちらです!
興味のある方は是非読んでみてください^^



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語り屋タツミ
皆さんのお気持ちを、こっそり置いていっていただければ。小さな幸せ、これからも皆さんに与えます。