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鬼滅の刃劇場版無限列車編 感想

1無限列車に込められた意味

まずサブタイトルでもある「無限列車」に込められた意味について話していきたいと思う。

主人公や彼の仲間それに炎柱である煉獄さんが乗り込んだ無限列車という列車。唐突に現れるこの列車だが、無限列車という車両の名前一つにもこの鬼滅の刃という漫画が包括するテーマ「有限と無限」という対比を意識して名付けられたものなのではないかと考えています。


無限列車という名前に対して考えるべきポイントは2つ。

一つ目は列車=目的地がある=有限ということ。


有限な時間の中で、それでも永遠に進み続ける列車、それが「無限列車」だ。通常列車につけられるような「1号列車」「2号列車」と同じように「無限(無量大数)列車」と名付けられたとも考えられるが、それ以上に、この作品のテーマが誰にでも明らかなように意図を持ってつけられたと考えられる。

加えて、作品の途中で下弦の壱である魘夢が列車と同一化してしまうという点でより「無限」にちかい概念として「無限列車」という名前がつけられたのではないだろうか。

よく考えてみれば、最終決戦で鬼殺隊や無惨らが闘う場所も「無限城」という名前だったし、霞柱の一人である無一郎にも「無限」という表現が使われている。(無一郎の名前の由来が「無限の可能性を持った子に育ってほしい」という両親の思いから名付けられたことが明らかになっている)

ちなみに、僕がこの事実に気づいたときは作者の巧妙さに鳥肌を覚えるとともに、改めてキャラクター一人ひとりの言動などを振り返ってみたいと感じた。

後々にも語るが、「無限」というテーマは物語の中で大きな役割を持っており、その中の一つとして「無限列車」があるのだと思う。


二つ目は無限列車に登場する魘夢が見せる夢という意味。

無限列車の中で登場する魘夢という鬼は、炭次郎たちが眠っている間に列車と同化する。睡眠、ひいては夢を司る鬼と同化したことで、乗車している人々の叶えられようもないほどの理想=夢幻を叶えるという意味で「無限列車には夢幻列車という意味合いも込められているようにしか思えないのだ。

さらにこれを象徴するのが無限列車に乗車した後に車掌によって切られた切符の表示について。無限列車という名前にも関わらず切符の名前は「夢に限界と書いて夢限」だった。

この理由ははっきり述べられていないが、魘夢が自身の能力について「切符を切ることによって眠りに誘う」と語っていたことからも分かるように、あの切符自体が現実と夢との曖昧な境界線を象徴していたのではないか。

このように無限列車という名前一つをとっても作者のこだわりが感じられる。 唐突に出てくる無限列車という車両ですが鬼滅の刃というテーマに関連した意味を持っていると考えるとそこまで不自然ではなさそうだ。

2数々の有限と無限の対比


次に作中や映画で出てくる様々な有限と無限の対比について話していきたいと思う。先程申したようにこの作品および映画では様々なものいくつも対比されて描かれている。一番分かりやすいのは鬼と人間。その他にも以下のようなものがある。


・夢と現実
・不老と肉体
・永遠と時間
・不死と命
・競争と優しさ

順番に解説していきたい。


1夢と現実
無限列車編において主人公たちが最初に立ち向かうのは下弦の壱:魘夢という鬼だ。この鬼は眠りを司る血気術を使い主人公を始め乗客全員を昏倒状態にします。

昏倒状態にされた人々は各々の人生で一番幸せな状態幸せを感じる状況を描いた夢を見ることになる。もちろんこれも意図的に操作されたものです。この夢は本人が夢と気づかない限り無限に続くもので、夢を見る人々にとってとても抗い難いもの。

なぜかと言うと、この夢はその人の欲求に根ざしたものであり、非常に心地よくずっと眠ったままでいたいような快楽を与えるものだからだ。

炭次郎がみた夢は、殺されたはずの家族と、幸せに暮らし炭売りとして一生を終えていくという幸せな人生を再現したものだった。痛みを得ることもない、そんな永久に続く夢。現実に戻りたくない。辛い現実に戻りたくないっていう人々の思いを利用するからこそこの鬼の血気術というものは非常に効果を発揮したんだとおもう。

これが一つ目の対比。 簡単には手に入れることができない心地よい無限とも思える夢と、時に絶望や理不尽に踏みにじられながらも前に進み、「人生」という有限を過ごしていく必要のある現実。

現代に生きる私たちも、快楽だけで比べるのならば心地よい夢の方にどうしても傾きたいですよね。理不尽な上司や辛い現実。さらに言えば、今年に起きたコロナという突発的な騒動。

鬼滅の刃という漫画の凄さはもちろんあるだろうが、世界をも巻き込む理不尽だらけの状況が半年以上も続いたからこそ、人々の心に響きやすかったんじゃ無いかと思う。ここにも人々の間で揺れ動く有限と無限との葛藤っていうものが丁寧に描かれていると感じる。

この人々の弱さと弱さからくる優しさ、感情というものが後ほども語る、鬼と人間、それぞれの立場から見た「強さ」と「本当の強さ」というところに昇華されていくのではないだろうか。

2,3.不老不死と肉体/命
二つ目の対比と三つめの対比はまとめて話した方がわかりやすいかもしれません。不老不死と限られた命というのは鬼と人間の違いがめちゃめちゃわかりやすい部分だ。


作中に出てくる鬼特に上弦の鬼というのは再生も早く、無限とも思えるほどの肉体を持っている。それこそ柱の磨き上げられた刀でないと首を切れないほどだ。もし首以外の部分を切っても瞬時に再生してしまう。

たとえ体が刺されようとも、心臓を貫かれようとも、一瞬で再生してしまう。対して、鬼殺隊をはじめとする人間は一度失ったら手足も命も戻りません。加えて、時間が経つごとに体は衰えていく肉体も衰えていき、やがて老衰して死ぬことになる。

だからこそ上弦の参・猗窩座(あかざ)も煉獄さんに対して「永遠の命を得て永遠の肉体を得て強さを極めてみないか。衰えることのない肉体を手に入れてもっと長い時間を生きていかないか」ということを提案した。確かに長い時間をかければさらに強くなるのかもしれない。強いままでいられるのかもしれない。強い=誰かより優れたままでいられるかもしれない。

しかし、不老不死であるからこそ人は頑張れる。誰かのために戦える。
そんな側面もあるように思えてならない。無限であれば「後でいいか・・・」と思うような些細なことも有限だからこそ頑張れる。力を発揮できる。そう思うのだ。


4.永遠と時間
四つ目は永遠と時間について。これも先ほど少し触れてしまったのだが、 この無限列車っていうものに暗に込められたキーワードとして「時間」というものがあるんじゃないかなっていう風に思う。一番分かりやすいのは下弦の壱の夢により強制的に与えられた無限とも思える「時間」という捉え方なんだが、猗窩座という敵、そしてそれに対抗する煉獄家の生き様からも「時間」というものの作者の想いが伝わってくるように感じた。

時間は誰にでも平等に与えられており1日で26400秒しかない。
大して鬼の側はほぼ無限にも等しいに肉体を経ており、時間という概念をほぼ考えなくてもいいような存在だ。時間と限られた肉体という有限なものにとらわれた人間と、不老不死という無限の物を持つ鬼という存在。この対比が鬼と煉獄さんによって丁寧に描かれていたからこそ人々はより感動したのではないだろうか。

ここは少しネタバレになってしまうが、炭次郎の最後のセリフ。鬼が逃走してこの場から去る時のセリフだ。あの時の「逃げるな。煉獄さんは自分の責務を全うして誰も死なせないで列車を守った。自らの有限の命を使ってまで、盾にしてまで約束を守ったんだ。無限のものをもつくせにお前は逃げるのか。」

このセリフから「無限というものは決して強さの象徴ではない。無限だからいいというものではない」ということが読み取れる。

よくゲームとかでも無限ワンナップとか無限とかいう言葉が使われるかと思うのだが、無限っていうものは求めても求めても足りないいくら求めても満足することがない。そういう意味でも本当にきりがないものだと思う。特に限りある人生においては無限なんてモノは考えてもしょうがないものなんだ。 だから私たちが求めるべきものはやっぱり無限ではなく有限なものなんじゃないかっていう風に思う。

5.競争と優しさ
5つめの競争と優しさという点は少し個性的な見方かもしれない。これについては賛否両論あるかと思いますが、個人的に競争と優しさで物が対比されていると思ったので5つめに挙げさせてもらった。詳しくは次の章で解説していきたいと思う。


3有限だからこその本当の強さ

この無限と有限というテーマを囲むように大きく展開されているのがこの強さというテーマだ。この強さというものに対しても有限と無限どちらの立場に立っているかによって捉え方が大きく異なると思う。

猗窩座が、「永遠の強さ」「最強の強さ」を時間をかけてでも練り上げ、常に維持し続けたいと願うのに対して、煉獄一族は限りある時間の中で、「己なりの強さ」を身につけ、その情熱で、弱き者を全力で救う。という正反対のスタンスをとっている。

実際に 圧倒的な強さや胆力を持った煉獄さんを鬼に鬼になるように誘い永遠の時間の中に閉じ込めようと知ったのはこういう理由からだ。

永遠の時間があればさらに強くなれるもっと強くなれる。老衰して、弱くなるのならば、強いまま死んだ方がマシだ。という台詞からも分かるように、「肉体的な強さ」「他人に勝る」という意味での強さを目指している。

正直この考え方には 共感するものはある。資本主義の世の中、情報過多の世の中で、個人の動きも見えやすくなった。同時に、人が人を羨み、資本主義の本質上で端からが無い競争というものも激化していく。

競争に勝たなければ、上にいかなければ、悩みは尽きることがない。暗闇が消えることがない。だから、常に他人よりも強くならなければいけないんだ。こう考えるのは当然と言えば当然だ。

でも、この永遠に続く競争を続けていても仕方ない。というより、他人との関係を上下で捉えようとするのが間違っている。競争がある限り人の嫉妬や羨みは消えず、激化すると最後にはそれが社会現象にまで発展するほど。

有名人やYoutuberの過激な行動による逮捕や、自殺者の増加もその負の側面が発言した結果と思っても良いだろう。その意味で猗窩座が主張する「無限」故の「強さ」というのは本質から外れているのではないかと感じる。


一方で煉獄さんが語る強さ、それは「(特に弱き者に対する)優しさ」という意味での強さ。煉獄さんは作中でよく「責務」「責任」「役割」という言葉を使っている。

そして、「常に自分のできること、やれること」を突き詰め、最後には次につなぐ。というスタンスで行動しているのだ。

加えて、自分にできない部分は人に任せるという広い視野も持ち合わせている。そこに、羨望だったり嫉妬というものは全く感じられない。自分のできることに対する尽きることのない情熱が自分の中に宿っているのだ。自分の中で練り上げられた「モノ」を他人のために発散する。心の炎をつないでいくために「自らのできること」で「できない人」を助けるという精神的な強さを追い求めたのが、煉獄一族の間で共有されてきた想いなのではないかと感じる。

人間は完璧ではなく、時間も無限ではない。
『「有限」だからこそ、「自分なりの強さ」で自分にできることを全うすべき。それがどんなに過酷で辛いモノであろうとも、持つべきものの定めである。』これが煉獄家、ひいては煉獄さんの想いであり、「強さ」の本質なのではないだろうか。

では、自分なりの強さとは何か。これは人によって違う。だから難しいし、苦しい。「自分が人より少し優れていること」「自分の中で当たり前に続けられるもの」は何か。

もう一度振り返ってみると思いも寄らない発見があるかもしれない。

4心に炎が宿る限り絶望に打ちひしがれても立ち上がれる

無限と有限という対比とそれを貫く「強さ」というメッセージ。この作品の中にあなたは何を思っただろうか?

僕が劇場でこの映画を見たときは常に体がビリビリと震えていた。感動ももちろんあったのですが、魂を震わせられるような、直接体を揺さぶられているかのような感覚は他の人に伝えるには難しく、感じた当人にしか分からないものだと思う。

ただ、一つだけはっきり伝えられることとしては「その人の生き様、『炎』というのが自分に触れてきた、伝わってきた」ということ。この映画を見ている時も、何か体が震えるほどの感動を味わった時も、そこにあるのはいつでも「炎」だった。

炎を感じていられるとき、僕は常に前を向いていられた。まさに映画内の煉獄さんのように。「限界を越えるたびに、またとてつもないかべがゆく手をふさぐ」というようなことが述べられていたが、現在でもそれは同じで。分からないこと、できないことが増えている現代だからこそ。他人を助けられる「自分なりの強さ」を追求していくべきなのではないか。そう感じた。

ここまでつらつらと語ってきたが、正直ブレブレで読みづらい文章だとは思う。読んでくださった皆様には感謝の念しかない。

これからもありのままの自分をさらけ出して、自分がどこで戦い、どこで人を笑顔にできるのか。それを考えながら人生を生きていきたいと思う。

死ぬ時に、笑顔でいられるように。

皆さんのお気持ちを、こっそり置いていっていただければ。小さな幸せ、これからも皆さんに与えます。