木綿の着物を知る。
久留米絣の松枝哲也さんが7月にお亡くなりになって
今日まで日本橋三越で開催されていた伝統工芸展に遺作が
入賞されていました。
木綿の着物を扱う店は少なくなってしまいましたが
肌寒くなってきた時期、単衣の木綿はとても心地よいものです。
木綿は、延暦18年(799年)に
三河に漂着した外国船が伝えたとされていますが、
この時は、伝来した木綿の種子をまいてもうまく育ちませんでした。
鎌倉時代、室町時代には、国産の木綿がなく、
木綿製品は全て舶来物でした。
木綿の布はとても貴重な品であったのです。
15世紀の後半になると朝鮮から綿布が大量に輸入されるようになり、
16世紀には明からの綿布(唐木綿)の輸入が加わって、
上流階級では木綿の着用が流行しました。
さらに南蛮貿易によって東南アジア諸国から縞木綿がもたらされ、
その中にはインド産のサントメ縞(唐桟)や
ベンガラ縞、セイラス縞などが含まれていました。
これらは近世日本の模様染や縞織の発達に大きな影響を与えたのです。
国内で木綿の栽培が始まるのは16世紀初め頃。
木綿は丈夫で耐久性にすぐれているため、
戦国時代の武士たちは幕や旗差物、袴などの衣料や
船の帆などにも使われました。、
需要の増加にともなって三河などで木綿栽培がはじまり、
またたく間に近畿・関東地方でも栽培されるようなったのです。
江戸初期には農民の着物も麻から木綿へと転換し、
江戸中期になるとほとんど全国的に木綿織物が生産されるようになって、
各地で特色のある銘柄木綿が生産されました。
さらに縞や絣、型染や筒描、藍染など文様と染色技術の進歩とともに、
多様な綿布が生産されるようになったのです。
かつての日本は繊維産業国として大きな市場を持っていましたが
絹糸の自給率は1%、木綿糸にいたっては0%とされています。
木綿は明治半ばくらいまでは自給率100%だったものが
安い輸入物に押されて激減してしまいました。
衣食住、と言いますが 食も衣も自給できない国というのは
本当の意味で独立しているとは言い難いのではないでしょうか。
絹も木綿も農業から生まれるのですから
農耕民族である日本人の原点だと思うのですが。。
それでも各地で細々と綿を栽培している方々がいます。
ほとんどが染織を目的とされたもので
一部の作家さんへ渡ります。
また丹波布のように綿花を自分たちで育ている
染織家さんも居ます。
自家用の木綿なので統計には出てこない量です。
輸入綿がキロ当たり高くとも1000円程度なのに対し
国産綿はキロ当たり1万5000円以上と言われています。
高くとも国産綿にこだわるのは
輸入綿はもの凄い量の農薬を使用していて
(収穫時には枯葉剤で葉を落として収穫するのだとか)
アレルギーを起しやすく アトピーの人の為に
無農薬の国産綿で作られた布も織られています。
木綿の着物、ということろから見れば
日本で綿花の栽培が本格的に始まったのは16世紀初頭のころで
戦国時代、武士たちが それまでの麻や葛などの繊維に比べて
木綿の保温性、耐久性、なにより肌触りの良さを評価して
様々に用いるようになり全国へと広まっていきました。
植物の和綿としても日本の風土で良く育つように改良され
様々な種類が作られました。
綿の中で最高と言われてるエジプト綿は
細く長い繊維が特徴でそのためしなやかで薄い織物ができますが
高温で乾燥した土地でないと育ちません。
日本の気候に適した綿は繊維が短く太い糸ですが
厚手でしっかりとした布になりました。
これらが 久留米絣や出雲、弓浜など各地の木綿織物を
生み育てることになります。
手にしたときに ほっこり安心感を覚える木綿の着物は
和綿で織られてこそ 本来の風合いを出すことができるのです。
木綿きもの場合、糸番手(太さを現す単位)は
40~120と差がずいぶんとあります。
40だと ソフトデニムのような感触ですし
120になると上等のワイシャツのようです。
また手引きの木綿は ふっくらとしていて
実際の重さよりも厚みを感じます。
同じ久留米絣でも 数万円のものと
100万クラスのものでは 同じ久留米絣と呼んで良いのかと
思ってしまうほどに 糸質に差があります。
機械織りには 機械織りの良さが
手織りには 手織りの良さがあり
とにかく 沢山触ること。
良い木綿を見分けて自分に合った木綿を手に入れるには
それが一番の方法です。
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