
リキッドモダニティ・・・「『わたし』という現象をめぐる考察ノート」用語集⑦
リキッドモダニティ。そういえばシリーズの冒頭からたびたび言及したものの、たいして説明もせず放置していました…。実際にシリーズのなかで大きく取り扱うのは、恐らく最終盤に近くなると思います。なので、いったんここで上げておきます。
リキッドモダニティは、ポーランド出身で、主にイギリスで活躍した社会学者ジグムント・バウマンの概念であり、同時に主著書(2000年)のタイトルでもあります。直訳すれば「液状化する近代」。
バウマンはソリッドなモダニティ、つまり20世紀の工業化された資本主義社会においてもまだ、伝統的な社会的役割や規範が機能しており、固定的で安定的な社会構造が保たれていたと考えます。しかしそれは20世紀の終盤、完全に終わりを告げ、流動化し始めたと捉えます。
その要因について、バウマンはいろいろと列挙しています。まずは経済的な大きな流れとして、グローバル化や技術革新。そしてそれらは労働市場を変化させました。そこに新市場主義的な政策が行われることによって、自己責任論が強調されるとともに社会保障が縮小され、人々のセーフティネットが失われました。
さらに、生産優位の産業構造は消費優位の消費社会となり、常に新しい商品やサービスを求める傾向が強まりました。そこでは消費が個人のアイデンティティ形成に大きな役割を果たす状態となっています。
これらの影響により、社会は不確実性を増し、その結果として人々は集団的なアイデンティティ…絶対的真理や大きな物語としてのイデオロギー…を失い、「個人化」したと考えたのです。
バウマンによれば、個人化はアイデンティティを「与えられるもの」から「獲得するもの」に変え、その獲得を個人の責任に帰してしまいました。同時に、流動化する社会状況において、せっかく獲得したアイデンティティは容易に溶解し、維持することがほとんどできないものとなっていると言います。
これは、個人にとって、半面では確かに自由ですが、不安定さと孤独感を生み出す構造となっているのです。そしてそれに抵抗することもほとんど不可能で、人々の連帯や団結でも打ち砕くことはできないとされています。そしてそれは労働の分野、すなわちキャリアの問題でもあります。
このような社会観は、決してバウマンだけのものではないと言えるでしょう。ビジネスの世界ではVUCA(変動性・不確実性・複雑性・あいまい性)という言葉でしばしば言及されています。さらに、リンダ・グラッドストンの「ライフシフト」(2016)も世界的なベストセラーになりましたね。
あるいはキャリア心理学の分野でも、キャリアカオス理論やプロティアンキャリア、ジェラットの「積極的不確実性」など、多くの理論化が共通して見出している特長であると言えます。プランドハプンスタンスもそうかもしれませんね。
それらのなかで、比較的バウマンに近い問題意識を持ち、類似した社会認識をしている論者がD.L.ブルースティンだと思っています(「社会正義のキャリアコンサルティング」という観点でキャリコン試験に登場することも増えてきましたね)。
ブルースティンによれば、働く尊厳は以下の三つの要素から構成されています:
第一の「生存可能性」は、適切な賃金、安全な労働環境、基本的な労働条件など、人間らしい生活を維持するための基礎的な条件を指します。しかし、不安定雇用の増加や労働条件の悪化により、この基本的な要素すら確保できない状況が広がっています。
第二の「社会的つながり」は、職場における人間関係や、仕事を通じた社会との結びつきを意味します。しかし、雇用の流動化や個人化の進行により、持続的な人間関係の構築が困難になっています。また、ハラスメントや差別の問題も、この要素を深刻に損なっています。
第三の「自己決定権」は、自らの仕事や生活について一定の選択や決定を行える権利を指します。しかし、市場原理の浸透により、労働者の自律性は制限され、むしろ市場の要求に従属することを強いられる傾向が強まっています。
ブルースティンは、これらの要素が相互に関連しており、一つの要素が損なわれることで他の要素も影響を受けると指摘します。そのため、キャリアコンサルティングにおいては、クライアントの置かれた社会的文脈を理解し、これら三つの要素を総合的に支援していく必要があると主張しています。
さらに彼は、この問題が個人的な課題にとどまらず、社会政策のレベルでも取り組むべき課題だと強調します。つまり、個人のキャリア支援と同時に、労働環境や社会制度の改善にも目を向ける必要があるというのです(このあたりのことも、いつか詳述することになると思います)
逆にプロティアンキャリアや積極的不確実性の理論では、このリキッドモダニティと呼ばれる現実を比較的肯定的にとらえ、人々に自由をもたらす要素に目を向けているように思われます。不確実性を帯びた転機に際し、それを拒否するのではなく、自己概念に即した戦略をもって対処していくこと。彼らの理論の力点は、そちらにあるように思えます。
このようにリキッドモダニティを肯定的に評価することは、(もとはといえば)ドゥルーズ=ガタリなどのポストモダン思想から始まったものでもありました。そこでは「近代的主体」の「脱主体化」、あるいは「である」ことよりも「なる」ことに重きを置く生成の理論でした(バウマンはこのような思想についても、「液状化を進行させた要素のひとつ」として批判しています)。
私にとって、リキッドモダニティは、アイデンティティの不可能性でもあり、同時にその生成ともなる場の様相です。良かれ悪しかれ、ひとつの固定的なアイデンティティで長い人生を生き抜くことは、ほとんど不可能に近いものとなりました。良い悪いという価値判断以前に、現にそうなってしまっているんだ、という認識です。
変容し続ける「わたし」として、ナラティヴな一貫性を維持しつつ、あるいは場に合わせた柔軟性として軽やかに。同時に、人の尊厳を脅かす様々な物事に対しては明確な「ノー」を主張する。ひとが尊厳をもって、自由な生を謳歌できるように。
リキッドモダニティの暴虐に対処をしつつ、同時にあらゆる「わたし」の適応と発達、つまり幸福の実現に活用していくこと。そのようなことができるキャリアコンサルタント、というか社会人でありたいな、と思っています。