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不思議な和歌(前編)
百人一首ってご存知ですか? なんて質問を日本人にしたら多分、少しムッとしながら、「馬鹿にしてるの?」とか返されるのがオチですよね?
そんな風に日本人にはとても馴染みの深い百人一首な訳ですが、自分達が普通百人一首と言われて頭に思い浮かべるものは、正式には小倉百人一首と呼ばれ、藤原定家という人が、京都の嵯峨野にあった小倉(おぐら)山荘という所で選んだ百首の和歌ということのようです。
一人につき一首を選んでいるので、全部で百人の歌人の作品が集められていることに成ります。
なのですが、そういう深い古典の知識は無い筈なのに、何故だか小倉百人一首に選ばれた和歌の中に宙で暗記しているものが多くあって、それは多分、子供の頃からかるた遊びを通して小倉百人一首に親しんで来たからだと思われます。
つい最近も、小倉百人一首を用いた競技かるたの世界を取り上げた漫画や映画がヒットしたりしていましたので、それは若年層でも変わらないのだろうと思います。
自分達の世代だと、トランプと同様、大体何処の家庭でも一組くらいは、小倉百人一首のかるたを持っていたような気がします。もっとも自分の場合は、 “かるた” として遊んだ記憶よりは、 “坊主めくり”という遊びをした記憶の方が鮮明で、これは、小倉百人一首のかるたの絵札が、「殿」「姫」「坊主」の三種類に分類出来ることを利用した遊びです。具体的なルールについて纏めたサイトなども有るようなので、もし遊んだことが無いという方がいたら、そちらを参照してみて下さい。
"坊主めくり" は、歌の内容がまだ解らないような小さな子供でも出来る遊びで、そういう遊びを通じて、自分も徐々に小倉百人一首の世界に馴染んで行ったような気がいたします。だから、和歌に特に詳しいという訳でもないのに、「殿」なら天智天皇とか、「姫」なら持統天皇とか、「坊主」なら西行法師とか、いまだに宙で名前を覚えている歌人も多いのです。
少し話が長くなりましたが、何故急に自分が百人一首の話を持ち出して来たかと言いますと、今回の記事は和歌を題材にしてみようと思っているからなのです。
最初に断って置きますが、自分が知っている和歌はと言えば、せいぜい小倉百人一首に選ばれたものがある程度で、しかも百人一首に選ばれた歌人=凄い歌人であるという程度の、浅くて一般的な知識しか有りません。
その自分が和歌に関する記事を書くというのは大変おこがましいことであるとも感じています。
ですが、そんな門外漢の自分にも強い興味を抱かせるような歌を残した歌人がいて、この記事では、そんな ”凄い歌人” が詠んだちょっと不思議な和歌と、自分がその和歌と出会った経緯を紹介したいと思っている次第です。
その歌人の名は、源俊頼(みなもとのとしより)といって、小倉百人一首には、次のような歌が選ばれています。
憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ
はげしかれとは 祈らぬものを
この歌は、自分の言う ”不思議な和歌” とはまた別のものなのですが、せっかくだから、この歌も、少し味わって置きましょう。
この歌の中に出て来る "山おろし" というのは、山から吹き降ろして来る強い風のことで、一般的には、冬場に北の方角から吹いて来る冷たく乾燥した風を指すようです。有名な六甲山の六甲颪(おろし)も、その一つです。
歌中で、 "山おろしよ" と詠んでいるように、この歌では、初瀬山という山から吹き降ろして来る冷たい北風に、歌い手が語り掛けるという形が取られています。
初瀬山は、奈良県の桜井市に在る山で、長谷寺という有名なお寺の在る所です。この長谷寺は、「初瀬詣」という言葉があるくらい願掛けで有名なお寺のようで、この歌の作者である源俊頼も、長谷寺で恋愛成就を願ったようなのですが、自分につれない態度を取っていたお相手のつれなさが、初瀬山の山おろしのようにより激しくなってしまったようで、そんなこと祈ってないのにとぼやいている歌な訳です。
そんな少し情けない感じの恋の歌を歌っている源俊頼ではありますが、歌人としての才能は秀でていたようで、和歌の指導者の立場にあるような人だったようです。
その俊頼が、晩年に自ら撰んで作った歌集に「散木奇歌集(さんぼくきかしゅう)」というものがあって、その中に自分が今回取り上げようと思っている和歌が含まれているのです。
と言っても、全部で 1622 首もの歌が含まれているという、一般には馴染みの薄いこの歌集の内容を、和歌に特に詳しい訳でもない自分が知っていた筈もなく、そこには別の出会いが有りました。
その歌に出会った頃の自分は、沖縄の歴史に興味を持ち始めていて、何冊か本を漁った後、探求の取っ掛かりとしたのが、司馬遼太郎の旅行記である「街道をゆく」というシリーズを文庫本化したものの中の一冊、「沖縄・先島への道」(朝日文庫)という本でした。
内容は、作者の司馬遼太郎が、本土に復帰して二年足らずの沖縄本島を旅し、そこから更に先島諸島の石垣島、竹富島、与那国島といった離島を巡って、沖縄の歴史・文化を探るというものでしたが、昭和三十年代後半に生まれた自分は、この本を読むまで、沖縄の歴史について、それほど深く意識したことはありませんでした。
沖縄が本土に復帰したのは、1972年の5月15日の事で、自分が十歳くらいだった頃の話です。勿論既に物心はついていて、沢山の関連するニュースがTVで流れていたことなどは、今でも何となく覚えています。でも、子供心には、1969年のアポロ11号の月面着陸とか、1970年の大阪万博とかの方がより印象的で、この頃の思い出の中心と成っているように思います。
そんな具合に、沖縄の本土復帰というイベントを同時代の人間として体験していながら、沖縄が復帰するまでの道のりやそれ以前の本土との関係などは全く知る由も無かった自分ですが、「沖縄・先島への道」は、そんな自分の預かり知らぬ深い事情を、旅行記と言う形を取って、分かり易くかつ印象的に教えてくれました。
少しばかり前置きが長く成ってしまったようですが、この本を読んだ当時の自分は、民俗学者の柳田国男が、「海南小記」と「海上の道」という沖縄に関する二冊の本を書いていることを知って興味を覚えたのです。
「海南小記」は、大正十四年の刊行で、対する「海上の道」は、昭和三十六年の刊行です。柳田国男が亡くなったのが昭和三十七年なので、亡くなる直前に、自身が三十数年前に取り上げたのと同じ題材を取り上げて再び本を書いたことに成ります。
二冊とも角川ソフィア文庫という所から文庫版が出て居ましたので、直ぐに買って読んでみたのですが、そこで出会ったのが、「海上の道」の中の「根の国の話」という章で取り上げられていた、源俊頼の次のような和歌でした。
みみらくの 我日本(わがひのもと)の 島ならば
けふも御影(みかげ)に あはましものを
後編に続く