これからたいせつになってくること。
みなさんは、新年に決めたこととか掲げたこと。覚えていますか?
慈雨は、抽象的な表現となりますが、
それは『祈りと浄化』でした。
メニミエナイ世界のお仕事を
個人セッションとしてさせてもらってますが、
おはなし等しながら、
笑いながら
想いふけりながら
なにかしら、祈っているのだと思います。
もしかしたら、セッション外でも祈っているのかもしれません。
祈りはとてもたいせつなことだとおもいます。
祈ったものは、何処かにきっと存在していて。
エネルギーはそれだけひつようだけど、そこにいろんなものが込められてるとおもいます。
この世界はなにもないと知ってるのだからこそ、【アル】をたいせつにしているし、
そのアルをたいせつにして欲しいなぁと
陰ながらそう願っています。
在ることはとてもたいせつ。
存在してて欲しい。
それはワガママなことですか?
逆に認識していて欲しい。
ここにこういう存在がいるってことも。
それを知ってて欲しいということも、
ワガママなことなのかなぁ。
うちらは、観測しながら、
また、観測し合いながら生きています。
だから、観測をする【空間】をたいせつにしてほしいなとそうおもっています。
この世界は、なにもないと言ったのだけれど、
すべてあって。
だから、何処を観るかが大切になってくるのだと慈雨はおもいます。
観測するから、あるのか。
あるから、観測するのか。
別にどちらでもいいのだけれど、
あなたの中にあるものはすべてなんだろうなとおもいます。
だから、取捨選択はぜひして欲しいなとおもいます。
何処へでも行けます。
何処へでも行けるから、逆にどう在るのか。
どう意識や在り方の使いかたをするのか。
それらが大切になってくるのだとおもいます。
あと、愛されてること、護られてることを知って欲しいなとおもっています。
慈雨は、ひとが察知しないような声をそのまま受け取りそれを届けるということも
いろいろさせてもらっています。
エネルギー交換もしていますが。
いろんな声を受け取ったり受け取らなかったり。耳で聴くというよりも、身体やココロに入ってくると言えばいいのかな?
分かってくと言えばいいのかな?
認識していると言えばいいのかな?してないのかな?
じぶんが誰でどうなってるのかはよく分かりませんが、
まぁ、受け取り、与えるということ
そのまま交換をさせていただいてます。
あまり境界線は分かっておらず、
だけど、
だからこそ、出来ることがあるとおもいます。
あと、隠れているものを表に出してみたり。
それがあってもいいとおもうのですよね。
闇も光も在っていいとおもいます。
誰がどうだからって、
別にそれで嫌いにはならないし、
そのひとがそのままの状態であってくださったらとても嬉しいなとおもっています。
もし、汚いものが溢れてきたとしても、
その奥には、あたらしいキラキラしたもの、純度が高いものが隠れているのではないのでしょうか?
別に、純度が高いものがないとしても、それ以外のものがいくらでもあるんだとそう思っているし。
願うものはもう既にあるものだとおもいます。
うちに秘めているものをいくらでも出して欲しいとおもっています。
出さなくてもいいけどね。
慈雨は、在り方や携え方を
いちばんたいせつにしているんだとおもいます。
多分だけど。
どう在るか。
どう生きるのか。
どう創造するのか。
慈雨のコンセプトは、『生きかたをアートする』というようなものでありまして。
この世界は決まってるし、決まっていない。
自由意思はあるけどない。
この世界はなんもないけどぜんぶある。
矛盾だらけのことばですよね。
どの見方であるか?もたいせつでありますし、
瞬間瞬間の選択なので、
いまをたいせつに生きて欲しいなとおもいます。いまをたいせつにする。
活かすのも殺すのもじぶん次第。
慈雨自身は、
この身体を生かすために、自分自身を殺してきました。
息を殺さないと、生きて来れなかった。。
よく生き伸びたなぁ。。。と。
だけど、それは生きてるっていうんでしょうかねぇ。
生きてるって言えませんよねぇ。
空っぽの状態(空間)でここにいます。
まぁ、ひつようなものはひつようなときに巡ってくるからいいんじゃないでしょうかねぇ。
生きててもいいという肯定感。
それが低かったのかもしれません。
慈雨は、お客さま含め、まわりのひとたちのお陰で生きてこれたと言っても過言ではありません。
否、まわりのひとたちが居てくれたから、ここまでこうしてこれたんだとおもいます。
お陰様です。ほんと。
ほんとに有難い。
昔はいまよりボロボロで、
お客さまから「大丈夫ですか?」と聞かれたり、「生きててくれてありがとうございます」と感謝されたり。
普通、逆だとおもうけれどそれしか出来なくて。笑
セラピストとお客さまという枠を超えているそのままの根源の関係性。
ダメかもしれないけど、そうありました。
包み隠さず話してたから、それも良かったかもしれないし、
教える教えられるという関係ではなく、
お互い存在して、その境い目からあたらしいものを創り出していこうということをテーマに。これまでやってきました。
「どうあってもいいんだよ」ということを。
この距離感で。
そのへんにいるひとがそういうことをしてても別におかしくない世の中になることをいまも観ていて。
特別じゃなくてもいい。
もちろん、特別であってもいい。
スペシャルな存在であってもいい。
まいにちがスペシャルだったら、それはそれでうれしいし。
なんでもないことがとてもたいせつだったりするし。
あることがすべてではない。
なくても出来ることがある。
それを探してここまで来れたから言えることもあるかもしれません。
たしかに、目に見えてはなにもできないかもしれません。
だけれど、目に見えるものは目に見えないものから創り出され、
そっからはじまることもたくさんあるということを知って欲しいと思いますし、
余白から生まれることもあるということも知ってもらえたらなぁとおもっています。
存在することのたいせつさを是非知って欲しい。
失ったあとに氣づいても、
遅かったりするかもしれないですしね。
いま、氣付いてください。
いまがあったのは、いつか誰かが祈ったからだとおもいます。
それを無下にしない。
そういう生活をされていかれてください。
あ、これから暮らしも大事になってくるとおもいますよ。
それではまた♡