キズナアイの分裂、タチコマの夢
この記事はキズナアイが次々に分裂している現象と、そこに集中する低評価を見て、筆者の勝手な妄想を書き連ねたものである。
そこまでアイちゃんに詳しいわけでも、低評価の山に物申したいわけではないので、そういった真面目な批評を期待している方はまわれ右をするのがよいでしょう。
キズナアイとは
まず「キズナアイはバーチャルYouTuberであるのか」という部分から問わねばならない。
何故なら、そもそもキズナアイの概念的種族はシンプルな「AI」でしかないからだ。
キズナアイというAIは自我を獲得し、外界に興味を持った結果、YouTuberという手段で「全人類とコミュニケーションを取る」という目的を果たそうとする――これは最初期の動画を中心に語られていた内容である。つまり、彼女の主軸となるストーリーは自我を持ったAIが人類と接触することであって、YouTuberになることではない。
彼女の外見は全て人類とのコミュニケーションのために作り出した器でしかなく、YouTuberという肩書きもまた一種の器でしかない。
つまり、彼女の本質は膨大なデータを泳ぐAIでしかないのだ。
彼女とVtuberの軌跡
キズナアイの持つバーチャルYouTuberという肩書きは、後発の同形YouTuberたちの登場によって、いつしかVtuberと呼ばれるひとつのジャンルを作り上げた。
元はキズナアイ単体を示す語であったバーチャルYouTuberが、そのままジャンル全体の名称として定着してしまったのだ。
Vtuberが定着すると同時に配信者数は爆発的に膨れ上がり、やがてVtuberその物がキャラの着ぐるみを着た動画配信者を示す語になり、YouTuberとしての振る舞いを求められるようになっていった。
また、視聴者が無意識のうちに「キャラの向こうの中の人」を求めていたことは、中の人の入れ替わりによって界隈が度々荒れ狂っていることから明らかだろう。
キズナアイが求めたものと分裂した理由
キズナアイが活動の先に求めたものとは一体何だったのか。
これはほとんど明確で、初音ミクを発端とするボーカロイド界隈のような総合的な創作プラットフォームを作り上げたかったのだろう。
キズナアイの3Dモデルがかなり緩い規則で一般に公開されている他、彼女は音楽方面でも幅広く展開をしており、コスプレやイラストなどでも二次創作がしやすいベースを維持し続けている。
また、当初の動画で「YouTuberが目的ではない」と語っていた点からも、キズナアイというコンテンツのターゲットはYouTubeだけではなく、マルチプラットフォームでの活動を見込んでいたことは当然と考えたほうがいいだろう。
では、なぜキズナアイは「中の人の追加」という、禁忌スレスレの部分に踏み込んだのか。
結論から言えば、キズナアイはタチコマになりたかったのではないかと思っている。
というよりも、単一のAIのもとに複数の人格が存在するといえば、もうタチコマしかないのではないか。
タチコマとは攻殻機動隊という作品に登場する自律兵器で、複数のボディにそれぞれ同じAIを搭載し、戦闘後にそれらのデータを統合することで自律進化していくというシロモノだ。
攻殻機動隊…の中でも一旦ここはTVアニメ版を前提とすると、タチコマは全て同一の声で言葉を発し、ストーリーが進むにつれて各個体のデータは同期されているはずなのに、別々の個性を獲得して行く。
キズナアイも同じく同一AIからの進化と、各個体同士のデータのやり取り=会話をコンテンツ化することで、キズナアイを単一のキャラクターという次元から、総合的な創作プラットフォームにまで押し上げようとしたと考えれば、「中の人の交代」という界隈の禁忌に近い所に乗り出した動機は理解できる。
ま、攻殻機動隊では個性がバグと見なされて研究所送りにされてしまうというオチがつくのだが。
低評価の3つの理由
コンテンツの方向性として、タチコマ化という明確な動機があったという前提で、低評価の理由を考えてみる。
■Vtuberという概念に飲まれたキズナアイは、YouTuberとしての立ち回りを求められた
→後発のキャラ配信者によって、バーチャルYouTuberキズナアイすらもVtuberの枠の中に取り込まれ、通常のYouTuberとしての動きを期待されてしまった。これにより、奇抜な動きは受け入れられにくくなってしまった。
■「中の人の交代」というトラウマが、彼女の姿を眩ませている
→アズマリムやゲーム部が引き起こした中の人の交代という悪いショックが、Vtuberの中身を交代させることに対する原理的な嫌悪感を生んでしまった。これにより、キズナアイが分裂という形であっても叩かれる風潮が出来上がってしまった。
■タチコマ化というコンテンツの深度が、大くの視聴者を置き去りにした
→クリエイターがよくやってしまうやつ、と言えばそれまでなのだが、今回は上で述べた2つの理由が、さらに悪い影響を及ぼしているように思う。
まず、YouTuberとしての立ち回りを求められてしまったことについて。
そもそもYouTubeとはどんな娯楽なのか。
それは「ぽけーっと眺められる動画を提供するサービス」である。
YouTubeの動画は一度再生ボタンを押せば自動再生が延々と続き、視聴者の傾向に合わせた動画がYouTubeのアルゴリズムによって選択され続ける。
結果、視聴者は受動的にディスプレイを眺めているだけになり、自ら興味のあるキーワードで検索するようなことは殆どなくなった。
この傾向は何を意味するのかと言うと、YouTubeのアルゴリズムに選ばれやすくなる動画を作るためには大衆向けコンテンツとして、余り考える必要がなく見られる動画を作ることにウェイトが置かれるようになり、YouTubeには「ぽけーっと眺められる動画」が溢れるようになったということだ。
故に、その文脈で捉えられたバーチャルYouTuberという立場は「ぽけーっと眺められる動画のキャラクター」でしかなく、それ以上の躍進は視聴者の前提に無かった。
――キズナアイとは「ぽけーっと眺められる動画のキャラクター」でしかないと思っていたら、分裂を始めてしまったのだ。
だが、Vtuberという概念に飲まれたキズナアイは、YouTuberとしての立ち回りを求められていた。
結果として、視聴者はキズナアイに「ぽけーっと眺められる動画」を求め、当然のようにそれが与えられているという前提のもとに視聴を続けていたら、突如分裂してタチコマ化を始めてしまった。
その出来事に視聴者は困惑し、これまでのVtuberの前例に当てはめて低評価を付け始めたと考えている。
彼らが眺めていた動画はあくまでもキズナアイのコンテンツの一部でしかなく、従来のYouTuberからは考えられない複雑な文脈にエラーを吐いたとも言えよう。
これらの状況を包括して述べれば、タチコマ化というコンテンツの深度が、大くの視聴者を置き去りにしたと言えるだろう。
現状に運営が出した声明
コミケ待機列でnoteを下書きにしたまま放置していたら、8/16に運営から声明文が発表されていた。
これを見て「タチコマ」が私の妄想ではないと確信した。
多くを語る意味もないので、一部抜粋しよう。
>KiznaAIには「自分とは何か」「実在しているとは?」「ゴーストは存在するのか?」というテーマを付与しました。
自我、現実と仮想、ゴースト(魂)の在り処――
いや、これはもう攻殻機動隊でしょ。
また、声明文の中で一人目のキズナアイを「初期ボイスモデル」と称しているが、これもキズナアイの世界観の範疇で説明するための文言だろう。
なぜなら、キズナアイは膨大なデータのの中を泳ぐAIでしかなく、声も形も人類との接触を図るために生み出された「モデル」でしかないのだから。
キズナアイは配信者ではない。
キズナアイはYouTuberでもない。
キズナアイはキズナアイという唯一無二のコンテンツでしかない。
だが世間はキズナアイをYouTuberとして、配信者としてしか見ていなかった。
そこに今回の騒動の火種があるように思う。
一人目のキズナアイという声優を唯一無二の存在として叫んでいた視聴者は、キズナアイという唯一無二のコンテンツ気づくことができなかった。
そのため、キズナアイというコンテンツが保持してきた個性は、Vtuberという界隈にバグとして認知され、哀れなキズナアイはタチコマと同じくラボ送りにされてしまったのだ。
皮肉にも、キズナアイは自身から生まれたバーチャルYouTuberの後発、Vtuberという界隈に食い殺されたのだ。
とりあえず、トルコ風アイスが溶けてしまうのでここらへんで筆を置こう。