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直近の文学的思考メモ


 今年も芥川賞が発表されて、審査員から様々なコメントが書かれていて。そんな中、ふと目に映ったのは、朝比奈秋さんの「サンショウウオの四十九日」に対する――小説にしかできない難しい問題――の文字。

 先生の小説は未読なので、この言葉の意味を正しく理解することはできない。すぐに読めればいいのだが、あいにく受験生の身なので実際に読むのは年が明けてしばらくしたらになるだろう。結局、言葉の真意は掴めないままだが、この数日私は、この言葉について何となく思いをめぐらせていた。

 小説にしか書けないもの。
 多分、物書きならプロアマ問わず誰もが一度は直面したことのある問題。
 
 ネタ出しをしていると、唐突にこの問題に突きあたる。本当にこのテーマは、構成は、内容は、小説にするべきなのだろうか。漫画やゲーム、はたまた楽曲にでもすべきなのでは無いか。そんなことを考えると、今まで考えていたアイデアは途端に下らないもののように思えてきてしまう。
 他のメディア媒体の登場により、小説の市民権は失われる一方だ。娯楽の少ない時代に小説はあまりにも大きな権威を放っていた、というのもあるだろうが、身の回りの読書率(文学国語をとっている生徒でも!)を見るとその衰弱ぶりは目も当てられない。
 
 漫画。私も幼い頃から触れている大好きな文化だ。しかし、彼らに我々の顧客が奪われてしまっていることは明瞭だろう。大抵の話は、漫画でも成り立つ。漫画は大衆に広く入口を開いている。小説の高くなってしまった敷居の下に、漫画は非常に豪奢な屋敷を建てた。小説に対して、漫画で見たいとコメントされることの何と悔しいことか!
 
 この問題に対して、上手く付き合っているのがいわゆるライトノベルだ。あれは漫画でも成り立つ、という前提を真っ向から受け入れた上で、逆にあそこまでの巨大な市場を築き上げた尊敬すべき業界である。コミカライズされてもなお人気を博す原作小説などを見ていると、これこそが小説の持つ力なのだと感じさせられる。コミックから原作に移行してきたファンなどを見ると、小説の生き残る術のヒントを得られたような気がする。小説も時代に合わせて変化していくべきときなのだろう。

 しかし、小説たるべき話を書きたい、読みたいという欲求は抑えられない。現に私がそうだ。万人受けするものでなくても、人々の心を繊細に描写し、練り上げられたあの世界を味わいたいし創り上げたい。読了後の放心したようなあの感覚に浸っていたい。
 
 では結局小説にしかできないこととは何だ?
 叙述トリックか、『残像に口紅を』のような作品か、少し前に流行った『世界一透き通った物語』のようなものか……
 多分それも一つ。だけど、多分もっとあるはず。

 結局私たちは自分の信じたものを書き続けるしかないのだ。纏まらないが、最後に「今頭の中にあるものは、自分にしか書けない」という何処かで見た言葉で締めておく。いつか、答えになる言葉が見つかったら新しく何か書く。それまでどうぞ、ゆるりと宜しく。

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