見出し画像

『僕たちの嘘と真実 DOCUMENTARY of 欅坂46』考察 -平手友梨奈はなぜステージから転落しなければならなかったのか-

映画を見たいきさつ

画像4

活動を休止する一週間前になって、欅坂46に興味を持ち始めた。

ラストアルバムの発売で曲をたまたま聴いた。NHKの番組でサカナクション山口一郎と元メンバー平手友梨奈が対談しているのを目にした。

そのことをツイートしたら、アイドル好きの先輩、後輩から「映画を観たほうがいい」とリプライが飛んできた。既にそのつもりだったので、次の日すぐに劇場へと足を運んだ。

欅坂46についての知識はほとんど無い。
彼女たちについて知っているワードは「サイレントマジョリティー」「平手友梨奈」「長濱ねる」くらいだ。

欅坂46のドキュメンタリー映画『僕たちの嘘と真実 DOCUMENTARY of 欅坂46』を観終わって、ノートに感想を綴っていると、ボールペンのインクが切れた。そういう映画だった。自分が見なければならない映画だった。

noteだったらインクが切れることはない。書くべきだと思った。

※メンバー名は敬意を表し、敢えて敬称略表記に統一しました
※記憶を頼りに書いているので、メンバーの発言などは不正確なものもあると思います
※本文には映画の内容が含まれるのでネタバレを気にする方はお気をつけください

アイドルが孕む2つの矛盾

画像2

今年の3月まで地下アイドルのプロデューサー兼マネージャーとして約3年間を過ごした自分は、この映画を見ながらグループアイドルが孕んでいる2つの矛盾について考えていた。

①アイドルは人形でなければ存在できないのに、人形のままでは活動を継続することが難しい

これはアイドル個人、グループに所属するメンバーひとりひとりが抱える矛盾である。

アイドルは、音楽アーティストとは違って、他人に用意された楽曲とダンスを携えてステージに上がる。製作者の意図を汲み、彼らが思い描くパフォーマンスを実現することが求められる。自分のオリジナリティを発信する場ではなく、作品を表現する駒でなければならない。このような意味では、演劇やミュージカルに近い。

しかし、筋書き通りの役を演じるだけでは、活躍することは難しい。ステージ以外に自分を表現する場はいくつも存在していて、そこではメンバーのパーソナルな部分にスポットが当てられる。ブログやTwitterなどのSNS、握手会などのイベント、テレビの冠番組まで。ステージ以外の活動は、グループ内での人気を左右する大きな要因である。

人の言うことを聞いているだけでは人気が上がらず活動は続けられない。しかし、人の言うことを聞かなければアイドルではなくなってしまうのだ。

もう一つは、グループアイドルという仕組みについて考えたい。

モーニング娘。の登場以降、ほぼ全てのグループアイドルは、「メンバーを入れ替えて新陳代謝を図りグループを継続させていく」という手法を採用している。モー娘。が結成から20年以上経った今も第一線で活躍していることからも分かる通り、グループアイドル運営における現状の最適解であることに疑いの余地はないだろう。

ただ、このシステムには大きな矛盾が存在する。

②グループは代替不可能な存在でなければならないのに、それを構成するメンバーは代替可能でなければならない

集団としては唯一無二でなければアイドル市場において生き残れないが、その中のメンバーは入れ替わっても構わない。むしろ唯一無二だと、グループの継続という点においてリスク因子になってしまう可能性がある。そのメンバーの死がグループの死に繋がりかねないからである。

グループアイドルは、グループ=メンバーであってはならないのだ。

平手友梨奈とは何者だったのか

画像1

映画は、ライブ映像などで結成から今に至るまでを振り返りながら、平手以外のメンバーが平手について語るという構成を取っている。平手友梨奈自身のインタビュー映像はなく、監督が本人に依頼したものの実現はしなかった。

どのメンバーにも共通しているのが、平手友梨奈を表現者として尊敬している点だ。尊敬を通り越した畏怖と言ってもいいかもしれない。

印象的なのは、2ndシングル『世界には愛しかない』MV撮影のメイキング映像。渡邉理佐がリップシンク(口パク)に苦労したと撮影時の思い出を語る。思うようにいかず泣いてしまう渡邉を優しく慰める平手友梨奈。次のカットで平手の演技が映る。素人目でも明らかだろう、彼女の表現力は群を抜いている。カメラの後ろにいる他のメンバーはそれを見て呆然としている。「私達とは何かが違う」という顔をしている。小林由依は悔し涙まで流している。

平手の表現者としての資質は初めから圧倒的だが、普段の彼女は現在のパブリックイメージとは異なる印象だ。初のワンマンライブの本番前、明るく声を上げ、パフォーマンスについての提案や相談を他のメンバーに伝える平手の姿がある。キャプテンは菅井友香だが、平手はパフォーマンスリーダーのような存在だったのだろう。ノートを片手に話す姿に、彼女の真面目さが窺える。

ワンマンライブ後、公演を観た秋元康が、メンバーに語りかける。秋元は彼女たちに、「アイドルはこうでなければ」というのではなくて、「自分たちが新しい道を作るんだ」という意識でやってほしいという発破をかける。その言葉を誰よりも真剣な面持ちで聴いているのが平手友梨奈だ。

このときはまだコミュニケーションの取れていた平手が、副キャプテンの守屋茜いわく「わからなくなっちゃった」状態となるターニングポイントが『不協和音』だ。楽曲と同化するように、平手は孤独へ自ら突き進んでいく。

ライブでのパフォーマンスに納得ができず、平手は全国ツアーという大きな舞台を欠席する。不動のセンターの不在に、現場は混乱し、メンバーは狼狽える。運営から平手の代わりに各メンバーがセンターに立つ提案がなされるが、それをチャンスだと思う者はおらず、全員が「やりたくない」と感じる。

平手の一連の行動は、一見すると、表現者的なアプローチに思えてしまう。自分の納得しないことはやらない。大人の言うことに反旗を翻す。つまり「私は人形なんかじゃない!」

しかし自分は、彼女は真逆のアプローチを取った結果、そのような行動に至ったと考える。

平手友梨奈は人形で有り続けることで、存在しようとしたのではないか。

人形で有り続けるというのは、楽曲の世界観を実現することであり、作品の駒になることである。彼女はその真面目さと純粋さ故に、圧倒的な表現力を有していた為に、人形で有り続けるという選択ができた。そしてそれを実行した。だからオリジナリティやパーソナルを感じさせる発信を削いでいき、メンバーとのコミュニケーションまで断ち切ることとなった。

「納得のいくパフォーマンスができない」というのは、もっと詳細に説明すると、「現状の身体と精神では楽曲と同化できない」ということではないか。人形でいられないことは、彼女にとって存在意義の喪失であり、舞台に立つことは不可能なのだ。

秋元康の「新しい道を作れ」という要請に、平手友梨奈は「人形で有り続ける」というアプローチを取った。

平手友梨奈はなぜステージから転落しなければならなかったのか

画像3

2017年大晦日の紅白歌合戦出演後(メンバー数名が倒れたというステージはファンではない自分も知っていた)、平手友梨奈はメンバーに、グループから距離を置くことを告げる。それまで一人の脱退者も出していなかった欅坂46の面々は阿鼻叫喚となる。そんなメンバーたちに平手は「欅坂46で楽しいですか?」と問いかける。

おそらく平手は、唯一無二のアプローチを選択したが故に、自らが代替不可能なメンバーになってしまったことにいち早く気づいたのだ。

2018年夏の全国ツアー最終公演で、平手は圧巻のパフォーマンスを見せる。『ガラスを割れ!』の最後、アドリブで花道へと飛び出していく。曲の中の「僕」となって、何かに取り憑かれたかのように踊り狂い、茫然自失となって舞台から転落してしまう。

これは表現者としては見事だが、命すら失いかねない非常に危険な行為である。映画の中でも、振付師の「あれは怒りました」というインタビューが出てくる。自分をコントロールできないほどに平手は楽曲と同化してしまった。

他のメンバーには動揺が走るのだが(平手が転落した直後のMCは、皆明るく振る舞おうとしているが、全員が心ここにあらずという顔をしている)、なんとか平手の穴を埋めようと精一杯のパフォーマンスを見せる。『二人セゾン』には落ちサビで平手のソロダンスがあるのだが、小池美波がアドリブで平手の代わりに踊る。彼女の「この会場のお客さん全員を敵に回してもいいから、欅のために、平手のために、踊ろうと思った」という言葉に、心が揺れ動く。

ここに、代替可能性の萌芽が現れる。この「平手のために」とは、単に平手の不在を補うという意味のものではない。平手が身を持って呈した「代替不可能である自らの退場」に、代替可能性で応えようという小池の決意なのだ。それが欅坂46というグループを存続させる道であるということを、平手友梨奈は気づき、小池美波が応答したのである。

「代替可能なメンバーを擁するグループ」へ舵が切れそうだという空気を感じて、運営が動く。2期生の加入に加え、9thシングル『10月のプールに飛び込んだ』において、グループ初の選抜制度が取られることになったのだ。

この曲で選抜から外れた石森虹花は、自分が落ちたことよりも、他のメンバーが落とされたことに憤る。2期生が加入したことでこのような事態の覚悟はしていたが、「欅坂は全員でやってきた」と語る。落ちた中には『二人セゾン』で代替可能性への道を切り拓いた小池美波もいる。選ばれた小林由依でさえも、納得のいかない顔をしている。

平手友梨奈はセンターに選ばれるが、MV撮影現場に姿を現さなかった。それはそうである。グループが「代替可能性」へとシフトしていくまさにその時に、「代替不可能」な自分が登場することはできないのだ。

しかし、そのことが影響して『10月のプールに飛び込んだ』は発売が延期となってしまう。この一件について語るキャプテンの菅井友香は、涙を流しながら、「てちがいるから普通のグループではいられない」と語る。ここまで来れたのは平手のお陰だという前置きを挟んで。これはキャプテンとして、他のメンバー(特に2期生)への負担を慮っての発言だ。「普通のグループ」としてシングルを発売することを、運営はできなかった。

平手が不在となった2019年夏の全国ツアーライブ練習。残されたメンバーはフォーメーションを二通り覚えなければならないという事態になる。平手が戻ってきたパターンと、戻ってこなかったパターンだ。

『二人セゾン』の落ちサビでのソロダンスには、小池美波が選ばれる。小池は平手の代わりを務めるプレッシャーから、練習後に泣き崩れてしまう。レッスン場の端でうなだれている小池に、振付師が語りかける。「僕は小池の『二人セゾン』は良いと思う。弱さを持った小池だからできることがある。ライバルは右や左の誰かじゃない、今までの自分だ。」と。

本番の小池の『二人セゾン』が映し出される。彼女が語る。「平手のが秋冬なら、私の『二人セゾン』は春夏を表現したい。」まさに春夏の『二人セゾン』を小池は全身で表現する。生まれ変わって過去をアップデートしていく、春夏の萌芽がそこにはある。パフォーマンス自体も素晴らしいが、再び代替可能性への希望をつなげる決心が溢れ出す、その表情に心が揺れ動く。

春夏秋冬生まれ変われると 別れ際 君に教えられた
『二人セゾン』

再び充満し始めた代替可能性の空気を感じたのだろう。まずは『避雷針』のみの参加という形で、平手友梨奈がステージに帰ってくる。

迎えた東京ドームでの最終公演。『不協和音』の披露後、ステージ裏で苦しそうに身悶えする平手友梨奈の姿が映し出される。「いやだ、いやだ」と息も絶え絶えにつぶやく姿は、曲の中の「僕」そのものである。

満身創痍の状態となった平手友梨奈。そんな彼女の姿などつゆ知らず、観客は残酷にもアンコールにわめき立つ。平手はスタッフに両肩を支えられて、アンコールのステージへと向かう。

平手がたった一人、ステージに姿を現す。ソロ曲『角を曲がる』を披露する。本当に、ほんの数秒前まで自分の足では立っていられなかった人なのだろうか。観客たちも息を呑む、奇跡的と言ってもいいパフォーマンス。平手はやりきった。人形としてのアイドルの、一つの完成形を。

カットが切り替わり、映し出されるのは、ステージ裏でモニター越しにそれを見つめるメンバーだ。いや、見とれていると言っていいだろう。彼女たちは気づいてしまっている。

「ああ、平手は、欅坂は、私たちは、やはり代替不可能なんだ」と。

欅坂46を、代替不可能なグループにしていたのは、それらを構成していたのは、代替不可能なメンバーたちであったのだ。

終わりに

平手友梨奈の脱退後、初のライブとなった配信ライブのメイキングも映画には挿入されていた。配信ライブは、曲ごとにセットや小道具を用意するという、アイドルライブの最終形態みたいな凄さで、めちゃくちゃ面白そうで、見なかったことを完全に後悔した。

最後の配信ライブが月曜と火曜にあって、開演ギリギリまでバイトなんだけど、休憩室で見てしまうんだろうなと思う。見ないわけにはいかないよなと思う。

本当に、もう二度と、生でライブを観ることができないのが残念だ。

でも、櫻坂46として新たな道を歩みだす彼女たちを、おそらくなんとなくではあるけど、気にかけてみようと、端っこの方で応援しようと思っている。

乱文失礼いたしました。

※2020年10月11日に2度目の鑑賞を経て加筆修正しました



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?