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池田シン一人芝居劇場「モモ」

2024.2.10(土)14:00,17:00

今日明日と信濃ギャラリーでやる一人芝居。
吊られた暗幕、低い所で照る灯体、アコギの音色に乗せてハスキーな声が響く。
昭和の終わり、人々は今よりずっと泥臭く、高度経済成長の夢を引きずっていた。これは、そんな泡沫の一夜を描く。
令和を生きる人間の感覚を捨てて、挑まなければならない。

例えば、携帯電話なんてものはなく、駅の伝言板なんてものがあった。サングラスはティアドロップ。アイドルは水着を着て運動会をしていた。電車のデザインは野暮ったかったし、シティにはハンターがいた。
もう昔の話だ。約40年前。
日本はその頃とだいぶ変わってしまった。いや、世界が変わっている。
そんな時代を知らない人が見たら、あの芝居はどう見えていただろう。
きっと改札は自動だし、手紙の意味なんてものは84円程度の紙かもしれない。犯罪に対しての意識も違う。しゃぶしゃぶは、今や食べ放題だ。
単語の一つ一つの重みが異なって聞こえるんだろう。札束の価値だって違うのだから。
あの頃、ディスコのように、熱狂が渦巻いていた。
私は今日、信濃ギャラリーの中で、あの喧騒の中にいた人々を、まるでガードレールに座るかのように、ボーッと眺めていた。
雑踏が広がって、その中の薄暗がりにシンさんがいた。
電車内は静まり返って規則的なリズムを刻むのに緊張が走る。目新しいものや、目を引く展開はない。けれど、あの時代を生きてきた人のリアルな動き、見ている世界が広がっていた。
それを他の人に共有できない不自由さ。
人間の情、汚さ、尊さは、あの頃から変わってしまったのだろうか。

最近、若い子の新しい対応の仕方に戸惑う声を聞く。
きっと、私たちが若い頃、上の世代から同じことを言われていただろう。若さゆえの特権というやつか。
若さは、傲慢と無知が無敵にしてくれる。私たちはいつだって誰かに赦されて生きている。

モモは、置いていったアニキを恨まなかったのだろうか。突然転がり込んだモモとそのまま暮らしたのは何故だったのか。
そういう時代、で片付けられることもあるだろう。でも、あの時代をそういう時代とするには、あの時代を生きていなければ言えないことだった。
池田シンという役者から渡された世界が観た人の力になって明日も続いていけばいいと思う。

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