同じ穴の、又は鬼気迫る思い。

確か美術準備室は東棟の3階の一番西端だった。
次郎は昨日美術の向井先生から相談を持ちかけられた。その約束が昼後の3限、場所は美術準備室だった。


恐る恐るスライド扉を開ける。
こんにちは。

中はからは、人の気配がしない。
あれ、留守か?場所合ってるよな。
次郎は恐る恐る足を中に踏み入れた。

いろいろな描きかけのキャンバスが置いてある。恐らく生徒の作品だろう。プロのように上手いもの、高校生らしいもの、雑然と置いてあった。その奥に一際目を引く模写が置いてあった。それはついこの間の授業で、次郎が複製画を教室に持ち込んだカイユボットの模写だった。

誰が書いたのか…他に比べ群を抜いて見事なのは間違いないが、なんだか鬼気迫るものを感じる模写だった。次郎はなぜか時を忘れてその模写に見入った。


ギュスターヴ・カイユボット、
お好きなんですね。
びくりとして、振り返るといつのまにか向井先生が立っていた。

あぁ、いらっしゃったんですか。
(言ってくれればいいものを)

あ、あの、それで、ご相談とは…?

今日はお時間を割いていただきありがとうございます。函館先生はカイユボットお好きなんですか?

え、ええ、まぁ。

なぜですか?

なぜと言われましても…学生の頃に見て、なぜか好きになったんです。

カイユボットは私の研究のテーマだった画家です。生前は全く無名でした。もともと裕福な家庭に生まれたカイユボットは、絵では生計を立てていなかったので。
函館先生もご存知ですよね。確か授業で複製画を持ち込まれたとか。


よくご存知ですね。あれはやり過ぎました。反省しています。なぜだかあの時はそれがいいと思ってしまったのです。衝動的なもので。

私のように中途半端な教師がいると、向井先生のような真面目な先生からは迷惑でしょうね。なるべく目立つようなことをしないつもりだったのですが、つい…すいませんでした。もしかして、美術の専門知識もないのに、世界史の教師が授業に絵画を持ち込むなど越権行為でしたか…気が回らなくて、本当に申し訳ありません。二度と致しませんので今回はご容赦いただけますか。

一息に言った。面倒ごとは御免だ。私は一時的に教師をしているに過ぎないのだから。自分に言い聞かせてもいた。


函館先生。目崎さんが先生に興味を持った理由がわかりました。
向井先生は笑って言った。

は?

函館先生は、常に平身低頭で、目立たないようにしようと必死のようですが、でも、逆効果です。先生は自分の意志が介在する事柄を話す時だけ、とっても情熱的なんです。それは隠そうとしても隠せないくらい溢れ出ている。だから、そうでない時とのギャップで、むしろその情熱が際立ってしまっています。そして、平身低頭しながらも、心は全くそう思っていない。むしろ不遜さが漂っている。

面白い方。その情熱に、引き込まれてしまう生徒もいるのでしょう。例えば、目崎さんのように。(もしかしたら私も…)

さらには、勘違いもされている。私は立派な教師になんかなろうと思っていません。今日はそれに関して本当は相談がありました。

はぁ。

私、本当はずっと悩んでいたことがあったんです。でも同時に諦めてもいた。

な、なんの話ですか?よくわかりませんが、それは私に言うべき事柄ではないような気がします。

あら、鋭い函館先生なら、もう気づいたのではなくて?その模写を描いたのは私です。

やはり…
気づいた。ただ聞きたくなかった。聞いたら共感せざるを得ない。そこからまた関係が一歩進んでしまう。しかも大きな一歩になりかねない事柄だ。ここは機先を制するしかない。

いえ。気づいていませんよ。でも、一つ言えるのは、その相談は私にすべきではないと言うことです。もっと親身になってくれる相応しいどなたかにすべきです。

函館先生、何故そんなに焦っているのですか?

焦ってなど…

私が想像するに、函館先生も私と同じ悩みを抱えているのですね?だから最初に真面目な私のような教師に失礼だと言った。あなたは…

ガタンッ!
スライドドアの外で何かが落ちる音がした。


次郎と向井はその音に気を取られた。向井はスライドドアに近づくと、ドアを勢い良く開けた。

そこには教科書と絵の具を落として、青ざめている目崎が立っていた。

あら目崎さん、どうしたの?いつからそこに居たの?

あ、いえ、今、今です。し、失礼します。
走り去る目崎。微笑む向井。


どこから聞いていたのかしら。まぁいいわ。まだ何も確信に触れてはいないのだから。
大きくため息をつく次郎。

で、ではお話も終わりということで、私もこれで失礼します。

いえ、まだ終わっていませんわ。函館先生はいつまでこの学校にいらっしゃるつもりなのですか?

いや、まだ特に決めておりませんが。まぁ一年は。講師は一年更新なので。

なるほど、制度にうまい理由がつけられますね。函館先生、お互い腹の内は全く異なる思いをそれぞれ抱えているということでしょう。今後はいろいろとアドバイスいただけますよね?

え?

いただけますよね?

え、ええ。
気圧された。こんなに強気な性格だったのか、人は見かけによらない。もしかしたら、火を付けたのは自分なのかもしれない。きっとキッカケを探していたのだ。私と同じように向井先生も自分の背中を押すキッカケを。

で、では失礼します。
次郎は美術準備室を後にした。物凄く疲労を覚えた。次郎は4限の授業などぶっちぎって一刻も早く学校から離れたかったが、これがサラリーマンの苦しさだ。こんな苦しさは自分の人生には本来不要だ。やはり早く辞さなくてはならない。


次郎は背後に誰かの視線を感じた。
やはり彼女か。きっとさっき何かを嗅ぎ取ったのだろう。感のイイ子だ。しかし、それとて俺にはどうでも良い。
次郎は気づかないフリをして足早に職員室に向かった。


目崎はその後ろ姿をいつまでも見つめていた。
その瞳は強く輝いていた。



































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