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和歌心日記 5 壬生忠岑

有明の
つれなく見えし
別れより…


寒空の下、篝高道はとぼとぼと線路脇のいつもの帰り道を歩いていた。
細い三日月が冷たく輝いている。

今日はついてなかった。
出勤早々顧客情報が漏れたかもしれないという部下からの報告を受け、各所大口顧客とシステム部で全履歴を確認し、漸く漏洩は免れたということが判明したのも束の間、再発防止策の策定を言い渡され、それを作る側ら、新規案件イベントのタレントがダブルブッキングで出演できないとの報告があり、それを別の部下と共に事務所に赴き何とかねじ込んだ時にはもう夜の8時。
そこから溜まっていた決裁を片付けて、結局終電近くになっていた。

そして、今日も三谷さんから連絡は来ない。
先月出会った新進気鋭のデザイナー。一度篝が行きつけにしているバーで隣に座り、話しかけたところ、思いの外話が弾み、次は飯でも行こうとこぎつけたのに。いざ誘って見ると中々予定が合わない。

くそ、公私共に流れが悪い。

明日もまた朝から会議が続く。しかし、この会社は俺を機械かなにかと勘違いしていないか。そんな働き詰めにしたら壊れちまう。

子供のいる同僚は育児休暇をとる奴もいる。
制度が整えられていくのは喜ばしいが、独身はどんどん肩身が狭くなる。

「独身手当を作って欲しいぜ全く」
篝は独りごちた。

「今夜暇か?」
昔からの先輩社員三好からの誘い。彼ももう部長だ。しかし、おっさんからの誘いしかないなんて…とは言え他に誘いがあるわけでもなく、まして三谷さんから誘ってくるなんて万が一にもない。

「いいっすよ。どこっすか?」
「恵比寿のいつもの」
「ち、またあそこか、まぁうまいのは間違いないがな」
篝は独りごちた。

「待ってたぞ、万年独身貴族」
「それ、けなしてますよね完全に。帰ろうかな」「うそうそ、早く入れよ、寒いし」
篝は苦笑いして店に入る。
やはり万年独身だと思われてるよな。俺だってアテが無いわけじゃ…今日はないけど…。

まぁいい、腹も減ったしな。

篝はコートを脱ぐと四人がけのテーブルの残った一席に座ってビールを頼む。
「いやー、相変わらず貴族はかっこいいスーツだねぇ」
「それ、嫌味っすか?」
「何言ってんのよ、篝ちゃん、褒めてるんだよ」
「怪しいわ、先輩。まぁここは飯がうまいからいいけどさ」
「そう思って頼んでおいたんだから。我々は篝ちゃんのためにさ。どうこれ?」
先輩の他には代理店の坂本、ベンダーの横山がいた。

アジフライ、白子の天ぷら、あん肝、ワカメのナムル、イカゴロホイル焼きが並んでいた。
確かに俺の大好物ばかりだ。こいつら分かってやがる。まぁ、昔から何度もチームを組んで働いた仲だからな。
「さすがにこれを出されたら仕方ないか」
ちょうどビールも運ばれてきた。
「じゃ、乾杯!」
篝は一気ビールを流し込む。そして、たまらずアジフライにかぶりつく。
サクッというよりはザクッという衣の肌触りが心地よく、そのすぐ後からホクホクの白身が塩味と共に襲ってくる。衣にかかるソースと口の中で味が混ざると最高の逸品になる。
「うめー!サイコー!!」
「だなー!やっぱりこの店のアジフライは最高だよ!」
こんな夜遅いのに満席。夜遅くてもキッチリ料理を出してくれるここの店主は神だ。

「大変だったな」
「ええ、ありえないですよダブルブッキングなんて。全て決まった後ですからね。流石に焦りましたよ」
「いや、お前みたいな奴が運用チームにいた奇跡だな。システム系ばかりの奴らじゃとてもじゃないが捌けなかっただろう」
「ほんともう…でもこのままじゃ私は死にますよ。体制が甘すぎる。明日部長に言います」
怒りが込み上げてきた。そして一気にビールを飲み干す。
「ぷはー!もう一杯!」
「あいよ!」
「のめのめ、白子もあん肝もお前を待ってるぞ!」

「わり、俺そろそろ行くわ」
代理店の坂本が席を立つ。
「えー、まだいいじゃないすか。せっかく来たんだし」
「終電早いというか遠すぎるんだよ俺んち。多摩の奥だから。わりぃな篝、またな」
彼も昔は深夜までよく一緒に飲んでいたが、結婚して家を買ってからめっきり飲みにいけなくなった。今日は考えて見れば久しぶりだった。

ちっ、みんな幸せそうにしやがって。
篝はあん肝をまとめて口に頬張った。うまい、このぐにゃりとした食感と塩気、紅葉おろしがアクセントになって酒がより上手くなる。篝は残っていた日本酒のお銚子をそのまま飲んだ。
「ぐおー、うめー!最高だなこれは。ねぇマスターこれ何?」
「山形のお酒よ。フルーティなんだけど、後味はしっかり目という逸品」
「さすが。ほんと最高ここ」
「ありがと!」
日本酒の選定がやばい。飯と日本酒の最高の組み合わせ。これで俺よりも7個も下か。まいるな全く。

「イイ飲みっぷりだな篝。でもお前の部署の部長もお前を買ってるし、ボーナスだって良かったんだろ?」
「はい、良かったです」
「ならいいじゃんか」
「でも使う時間がありま…」
携帯が震えている。

「どうした、またトラブルか?」
携帯の画面をみる。
メッセージが数件届いている。嫌な予感がする。篝は顰めっ面で携帯を見た。

『今日この前教えて頂いたバーに来てみました。近くにいたりしますか?』
おいおい、勘弁してくれよ。
こんな時間に…気まぐれにもほどがある、しかし行けなくはない距離だ。

『今恵比寿で飲んでるんですが、まだそこにいる?』
既読にならない。もどかしい。

篝は白子の天ぷらを頬張る。口の中で白子の出汁が弾け飛んでたまらないミルクのような味わいが広がる。うまい。本当にうまいなここは。
「トラブル…ではなさそうだな?」
と先輩が聞く。
「ええ」
篝は携帯を見ながらそっけなく答える。

『いえ、全然気にしないで下さい。もう少しで帰るので、また』
『え、いや、せっかくなので、ちょっとだけ待ってて。今から行きますから』
『本当に大丈夫だから。なので…帰ってたらごめんなさい』
篝は席を立った。

「どうした?」
「トラブルかやっぱり?」
篝は残った二人を見下ろす。
「僕もたまには用事くらいあります、すいませんまた」
なんだか間に合う気がした。
篝は5000円をテーブルに叩きつけて店を出た。

「なんだ、女かぁ?、意外だなぁ」
背中から彼らの声が降ってきたが既に扉を開けて外に出ていた。すぐにタクシーを捕まえて乗り込む。
「元麻布まで」
くそ、間に合うか…。
なんでこんな焦る?相手は10も歳下だぞ。威厳がない。いや、今更そんなことに構っていられない。チャンスはすぐに失われる。
「運転手さん急いでください」
車は勢いよく恵比寿橋の交差点を広尾方面に登っていった。

ようやく目当てのバーのあるビルの前で止まる。
会計もそこそこに篝はタクシーを飛び降り、ビルの階段をかけ登る。
一旦バーの扉の前で呼吸を整える。このまま行ったら急いで来たのがバレバレだ。
篝はドアを開けた。
「いらっしゃい。あぁ、篝ちゃん」
篝は店内を見回す。男性が一人奥に座っているのみだ。
「マスターこんばんは。あの、」
「綺麗な女の子ね?」
「ええ」
「惜しかったな、ほんの5分前まで待ってはいたんだよ。タッチの差」
「まじ!?なんだよー」
極端にテンションご下がる。
「まぁ一杯飲んできなよ、せっかくだし」
「はい」
仕方なくカウンターに座り、ジントニックを頼む。
カラカラとマスターがステアを回す音が聞こえる。
「いや、この前篝ちゃんが連れてきた子っぽいよなーって思ってさ」
「なんで帰しちゃったのよ!」
「まぁ一人で1時間くらいいたし、遅いしね」
「くそー、千載一遇のチャンスだったのに」
カウンターをかるく拳で叩く篝。
「俺がいるよ」
奥の常連の斉藤さんが茶化す。
「斉藤さんがいても意味ないっしょ!」
「それは失礼だな」
「あ、すいません。取り乱しました」
マスターと斉藤さんが笑う。
「はい、ジントニック」
「ども」
篝はジントニックを、一口飲んで溜め息をつく。
『もしかして、来てくれてました?すいません。明日早くって。また今度』
篝はもう一度溜め息をついた。
「幸せが逃げるよ溜め息つくと」
斉藤さんが笑いながら言う。
「たった今逃げていきましたよ」
篝は答えた。

篝は店を出て、空を見上げるとまだ細い三日月が冷たく光っていた。
時計を見ると深夜2時を回っていた。
暁月か…なんだっけな陰気な歌があったっけ…

翌日出勤すると先輩の三好が篝の席に立っていた。
「よお色男。昨日はどうだったんだ?泊まりか?」
「なんすか朝から」
「中座しといてその言い方はないだろう」
「すいませんでした」

「で?」
「ダメでした、会えず…」
「へー、お前が女を追いかけるなんて珍しいな」
「たまにはいいでしょ」
「良い女なのか、羨ましいねぇ」
「で、なんですか?業務始まりますよ」
「お前に参加してもらいたいプロジェクトがある。柳田部長にはもう話をつけた。明日から俺の部のフロアで働いてもらう」
「え、そんな無茶苦茶な。嘘でしょ」
「すまん篝、昨日のトラブルシュートで一旦区切りもついたからな、三好の部の奴とトレードだ。お前にはおあつらえ向きのプロジェクトだと思う。大いに活躍してくれ」
三好先輩は本当に柳田部長に話をつけたようだ。ある程度柔軟な会社ではあるが、本当にやっちまうとは…
「そういうことなんでな、机の整理したら俺のところに来てくれ」
「まじかよ…」
まぁ何かやったわけでもないし…もうどうにでもなれだ。
どうにでもなれと言えば三谷さんだ、このまま終われない。
昼にでもメッセージしてみるか。

篝は机を片付け始めた。既に管理職だし、引き継ぎというほどのものもそんなになかった。後任がうまくやるだろう。

『今度夜ご飯でもいきませんか?来週か再来週』
えいやっ、少し気合いを込めて送ってみた。
ばかばかしいってか。

篝は午後になると早速三好のところに移動した。
「ちょっと打ち合わせしよう」
「はい」
会議室に入ると既に5人のメンバーが着座していた。
三好は新しいプロジェクトのリーダーとなって、各方面から優秀な奴を引き抜いて新しいアプリを開発するらしい。その進行管理とプロモーションを任された。結構ハードな仕事だった。
「期待してるぞ」
「は、はぁ。人使い荒今よなぁ」
「なんか言った?」
「い、いえ」

『はい、行きましょう。昨日はすいませんでした』
よし、返事来た!俺はまるで子供の反応ではないか。苦笑する篝。

午後は仕事の進行表を読み込んだ。しかし、頭にはどの店にすればいいのかを考えていた。
イタリアンが無難か、いや和食もいいか。寿司ってのもありだが相手がダイエットしてると厳しいか。鉄板焼きはやり過ぎか…

『今週金曜なんて空いてたりしますか?良かったら麻布十番にある良いイタリアンがあるのですが、行きませんか?』
さて、どうなるか。

何度かその後も携帯を見てみるが既読にならない。難しい子だ。結局その日は連絡が来なかった。

ちっ、ヤキモキする。
翌朝起きるとメッセージが入っていた。
『金曜まだ仕事が何時に終わるか読めなくて…』
くっ… どうするか…
『なるほど…とりあえず20時に予約だけ入れておきます。ダメになったら教えてください』
ちっ、弱腰だな。会った時はイイ感じだったのに、メッセージではもはや脈なしなのか。

「おい、篝、聞いてるか?」
「え?」
「なに間抜けな声出してるんだ。仕事中だぞ」
「あ、あぁはい。なんですか?」
「進行表の直し、いつできる?」
「明日には」
「そうか頼むぞ。それが肝だ。まぁとりあえずそれで明日会議を開く。そこで大方の方針を決める」
「わかりました」
今日も午前様だ…世の中の働き方改革はどこにあるってんだまったく。
篝は再び机に向かった。

翌朝、出勤すると、進行表を自分のパソコンで編集し、付随するさまざまなデータを揃えて、ある程度骨子が完成したのは夕方5時だった。

「出来ました三好さん」
「おお、やるな」
その場で少し眺める三好。
「なるほどな。この工程は結構時間がかかるんだな。おい、みんなちょっと会議室に入ってくれ」
おいおい、これからミーティングかよ。イタリアン遅れちまうよ。まぁ勿論来ないかもしれないが。三好はすこし顰めっ面をした。
「なんか予定でもあるのか?」
「あ、いやまだ大丈夫です」
「こういうのは熱いうちに撃つべきだ。行くぞ」
そう言って会議室に入ってから3時間半。大分叩かれたがいい計画書ができた。
時計を見ると20時45分。
いかん!店は20時だった。
携帯を取り出す。頼む、どうせ来れないというメッセージにしてくれ。いつも来ないじゃないか。

7時10分。
『今日は早めに終われそうなので時間通りに伺いますね』
8時30分
『こんばんは、お仕事でトラブルでしょうか。残念ですが、本日は失礼しますね。また誘ってください』

「…」
「どうした篝?」
「いや…」
くっそー!またしても…もう縁がないのかもしれない。怒ってるだろうし。
『大変申し訳ありません、会議が終わらず、伺えませんでした。途中抜け出す機会を逸しご連絡もできずに本当に申し訳ありませんでした。近いうち穴埋めさせて下さい』
篝は大きな溜め息をついた。
「なんだ溜め息なんて、例の恋か?」
「そんなんじゃないですよ」

そんなんだった。

なんて間が悪いんだ。チャンスをミスミス二度も逃してしまった。もうチャンスはない…か。

新しいデスクに業界雑誌が置いてあった。特集で企業イメージの特集が組まれていた。
篝はペラペラとページを捲る。その中に彼女の顔があった。彼女は企業ロゴも手掛けているらしい…なんだよ、大物かよ!
そりゃ難しいよな。むしろ2回もチャンスがあったのも奇跡じゃないか、それを俺はミスミス…悔やみきれない。

「行くか今夜も?」
「行きません。今日は帰ります」
「そうか、金曜だしな。デートか?」
「それもオジャンになりましたよ」
「あ、今夜のことか、すまんな」
「いえ。では」
本当についてない。

『また機会があればお願いします』
これって、機会が二度も訪れないという返信のテンプレートではなかったか…

篝はトボトボと線路沿いを歩いていた。
ひんやりとした細い月が夜空に輝いている。

まるで有明の月だな。
憂きものはなしってか。
篝は溜め息を吐いた。

いや、このままでは終われない。もう一度だけメッセージしてみよう。いや、もしかしたら…
篝はタクシーを止め、乗り込んだ。
「元麻布まで」

ガチャ。
「いらっしゃい。あぁ…」
マスターが無言でカウンターを手のひらで案内する。
そこに見覚えのある美しい女性の背中が見えた。


有明の
つれなく見えし
別れより
暁ばかり
憂きものはなし


続く。

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