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ゴミ袋のシワで感動できるはずって話

何の話やねんってタイトルなんですけど、感受性に関するお話です。

今回は著作とかを扱うわけではなく完全な持論ですね。


彫刻から学ぼう

19世紀にジョヴァンニ・ストラッツァという彫刻家がいらっしゃってですね。

検索して頂けると顔に布1枚がかかってるのを恐ろしいくらい精巧に再現されているわけです。

初めて見た時にとんでもない技術力に驚いたわけです。

だってこれ大理石の塊から削り出した彫刻で柔らかな布の質感を表現してるんですよ?

世界にはとんでもない人がいるんやなぁって思って少し経った後にふと思ったんです。

これ多分技術力をひけらかすために彫ったわけじゃないよなって。

多分布をまとったそのシワの細部に至る美しさに感動しなければ作品にしようと思わないはずなんです。


帰り道の高架下

ストラッツァがファミマのレジ袋に感動したらきっとビニール1枚の美しさを細部に至るまで表現したと思うし、朝起きた時の枕のシワにだって感動したと思うわけです。

つまり感受性が研ぎ澄まされていれば、そこかしこに存在する感動を見落とさないよなって。

常日頃生きてて、当たり前に存在する全てにきっと感動できるはずなのに、気付けなくなってるなってふと思ったんです。

そこからふと見た全てに対して、美しさを見出してみようと思ったんですね。

朝起きて窓から差し込む日差しだったり、駅まで続く雨が上がった後の一本道だったり、日が傾いて少し冷たい風が吹く近所の河川敷だったり。

美しさってそこいらに転がってるのに見落としてたことを改めて実感して、これまで勿体なかったなぁとか思ってたんですね。

ある日帰りが遅くなって、家路を急いでて静まり返った住宅街を通って高架下を抜けようとした時だったんですけど

信号で止まって、自分の踏みしめた砂利の音がその高架に反響してすごく綺麗に感じたんですね。

無意識にその美しさに感動できたというか、その残響さえも綺麗に感じたというか。

その瞬間に少しは感受性が少し豊かになれたかなと実感できたわけです。


周囲で流行を見せる感謝のストーリー

とある先輩がその日の感謝をインスタのストーリーに上げるのを日課にされてて、その周囲の友人達も始めたりしています。

何よりその感謝が日常に溶け込んで気付けなくなってしまった時が1番勿体ないと思うわけでもあり、感謝を綴ることで明日に彩りが生まれるよなと。

常日頃そこらに転がっている感動や感謝を見落とさない日課って素敵だよなぁと思った次第です。

とかく現代社会は情報量が多く、より高尚で難解な作品で感動することが素晴らしいと思いがちな中で忘れそうになる大切な何かがきっとそこにあるよなぁと。


貧乏舌と落とし穴

まあつまり貧乏舌であることを推奨してるような話ではあるんですね。
口にするモノ全てに美味いって感じるのとほぼ同じなので。

でもそこに大きな落とし穴があることも知るべきではあるかもしれないと。

つまり究極の貧乏舌って何があっても幸せなんですよ。

でもそこで現状を全肯定してしまうと退廃的になってしまうという落とし穴があったりするよなと。
実際のとこ自分も少し前までその落とし穴にひっかかったんで。

本当に大切なのはより良い環境に身を進めた時にどこまで貧乏舌でいられるかなんじゃないかと思うわけです。

つまり第一は、より良い理想とする状態に向けて進むこと、次にその過程で感謝や感動を忘れてはいけないこと。
そこで如何に貧乏舌でいられるか、なんじゃないかなと。

視野が狭くなると余計に忘れますからね、これは自戒の意味も込めた記事でもあります。


まとめ

要点をかいつまむと

  • 日常に転がる感動を意識して探してみよう

  • より理想に近づいた時こそ貧乏舌になってみよう

たった二点です。

多分クリエイト職だったり、何かしら創作物を扱う人達は特に大切なことなんじゃないかと思います。

自分自身も感受性をより豊かにして演奏に繋げるべきかもなぁと、ふと振り返った自戒3割くらいの記事でしたとさ。

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