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佐村河内守とは何者だったのかという話
ネットミームでは2014年は伝説の世代みたいなことを言われてましたけど、その1人ですね。
世にゴーストライターという存在を知らしめた人であるのは間違いないでしょう。
ではその佐村河内守ってそもそも何者で、我々は何を学ぶべきかって話です。
まずはWikipediaを見てみよう
佐村河内守を知らない方がいらっしゃることもあるので、ここでWikipediaを見てみましょう。
1990年代、中途失聴とされる聴覚障害がありながら『鬼武者』のゲーム音楽や「交響曲第1番《HIROSHIMA》」などを作曲した音楽家として脚光を浴びたが、2014年2月5日、自作としていた曲がゴーストライターの代作によるものと発覚[6](「ゴーストライター問題」の項を参照)。聴覚障害の程度についても疑義を持たれており[7]、ゴーストライターを務めた作曲家の新垣隆は、「佐村河内は18年間全ろうであると嘘をつき続けていた」と『週刊文春』に掲載された独占手記で主張した[8]。
つまり "聴覚障害を持ちながら素晴らしい作曲を行う「現代のベートーヴェン」" と持て囃されながら、実態はゴーストライターによる作曲であった、ということですね。
また、引用にもある交響曲第1番《HIROSHIMA》については週間オリコンチャートで推定1.9万枚の売上を記録し、その後クラシック楽曲では異例の10万枚のセールスを記録し、ゴールドディスクに認定されたわけです。
公演も行われ、その楽曲の素晴らしさに感動し、涙を流した人もまたいることでしょう。
しかしながら、ゴーストライターの存在が発覚してからのこと、非難の嵐に見舞われることになってしまいます。
果たして本当に全てが虚構だったのか
確かに耳の聞こえないという事実も、作曲を全て行っていたというのも虚構だったわけです。
世間はその虚構に怒り、バッシングしていたのだと思います。
また、扱う題材が広島原爆であったり、義手のヴァイオリニストが公演で義手を外すパフォーマンスであったり、センシティブな題材をその虚構の上に成り立たせてしまったのもまたバッシングに拍車をかける要因であったと思います。
ここまでバッシングされた要因をまとめると
耳はある程度聞こえるが、全聾と偽った
作曲家が別で存在するが、その存在を隠匿した
扱った題材がセンシティブであった
そこでふと思ったわけです。
音楽なにも関係なくね?
10万枚の売上を達成し、ゴールドディスクに認定される楽曲の価値も虚構であったのか。
素晴らしいと論評し、その成功を後押しした著名人達の感性も虚構であったのか。
公演に足を運ぶほどに期待し、感動したその瞬間さえも虚構であったのか。
ペットボトルの水
色々な飲料会社がペットボトルに水を入れて販売しています。
どこの天然水なのか打ち出し、より爽やかなCMによってイメージを打ち出し、その上で価格が設定された水を我々は手にするわけです。
勿論のこと、安さで選ぶこともあるでしょう。
ではどれほどの人達がその水の違いを認知し、深く説明できるでしょうか。
仮に「本当は天然水ではなく、高度な技術で浄水した水道水でした。品質には全く問題ありません。」
という内容が暴露されたとして、どれほどの人に影響が出るでしょうか。
つまり何が言いたいかというと、
大抵の人はラベルでしか判断できないのに、
それに踊らされたことに怒った
という事実に他ならないのではないかと。
つまり佐村河内守という、あくまでキャラクターのバックボーンから作られたラベルでしか音楽を判断できていなかったのではないか、と思うわけです。
ワインは値段を高くすると売れる、みたいな話でもあります。
つまりはブランドですよね。
では続いて、その虚構は作品価値を毀損してしまったのか、という点です。
ブランドの失墜とマテリアルの価値
「クラシック作曲家の佐村河内守」というラベルが全盛期と同様に価値を発揮されているかといえば、答えは火を見るより明らかでしょう。
しかしながら、本当にそのブランドの失墜が制作楽曲の価値を落としてしまったのか、という点では事実に無いと思うわけです。
過去に民事裁判によって楽曲の扱いに対する訴訟は行われていませんし、その楽曲によって誰かに損益をもたらした事実は無いわけです。
では楽曲単体でゴールドディスクであったり異例のセールスを達成できたのでしょうか?
素晴らしい楽曲を排出されているのは間違いありませんが、作曲されていた新垣隆さんの経歴を調べればそれは明らかなのではないかと思うわけです。
結論
これは尖った言い方になるのですが、結局佐村河内守とは何者だったのかという答えは
世の大半が本質的には音楽を聴いていない
という事実を証明した1人
だと思っています。
これは悲観することではなく、プロモーションの重要性を明らかにした実例であるとも思うわけです。
「売れてる音楽なんて全部クソだ!」なんていうクソ寒い理論ではなくて、我々の持つマテリアルをより良く打ち出すラベルが重要であるという話です。
しかしながら、それが過ぎると実態との差で怒る人が出てくるかもしれない、と。
まあ難しいですよね。
また、聴き手としても本当に自分の感性に訴えかけるものが何なのか、という部分を大切にしたいなと思うわけです。
という、ゴーストライターの記事でした。