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020築地本願寺への参拝と結婚観

こんにちは。

今日も暑いですね。それにしても、今年は異常な気候です。突然のスコールのような大雨も増えてきて、まるで熱帯のシンガポールやマレーシアのようです。週明けからは、38℃を超える予報となっておりますので、くれぐれも御注意ください。

さて、先日、東京の築地本願寺に参拝いたしました。地下鉄で築地駅まで行きまして、そこから向かったのですが、地下鉄の出口をでると、古代インドのような大きな伽藍が目の前に飛び出してきました。日本の寺院では、まず目にすることのないエキゾチックな雰囲気に圧倒され言葉を失いました。

さらに、中に入りますと、ちょうど結婚式が挙げられておりまして、パイプオルガンの調べが美しく響き渡る中、新郎新婦のお二人が、本堂を進まれ、阿弥陀さまに二人の出会いを感謝して、ご報告申し上げられておりました。ささやかながら、私も、二人の出会いを心の中でお祝いさせていただきました。

日本以外の多くの仏教国では、今も妻帯が厳格に禁止されております。しかしながら、少なくとも、日本の浄土真宗においては、宗祖親鸞聖人の頃から、結婚が行われておりました。

本来、お釈迦さまが説かれた仏教というものは、全ての執着を捨てて、迷いの世界を離れる教えです。もちろん、愛する家族であっても例外ではありません。実際に、お釈迦さまも愛する子供、妻を王宮に残して、一人、修行の旅に出られました。

では、浄土真宗の結婚とは、どんなものなのでしょうか。親鸞は、女犯偈(にょぼんげ)という夢のお告げをきっかけに、当時、僧侶のタブーとされていた結婚に踏み切ったとされています。

女犯偈ですが、おおむね、「行者よ、もしあなたが宿報によって女犯の罪を犯さずにおれないならば、救世観音の私が玉のような女性となってあなたに犯されましょう。」というような意味合いとなります。ここでいう、「犯」こそが、親鸞聖人の教えなのではないかと思います。

結婚とは、何であるのか。それは、自分が相手の人生を多かれ少なかれ、犯すことではないでしょうか。もちろん、その中には、楽しいこと、幸せなこともあるでしょう。ですが、反対に必ず、相手に、しなくてもよい苦労や苦しみをかける場面が出てきます。男が女に、女が男に、それぞれが、相手の人生でしなくていい苦労をさせている加害者の立場になる。

親鸞は、その罪を自覚したうえで、「誰もが、ありのままの姿で生きて、阿弥陀さまに救われていく」という教えを説かれ、ご自身も、遥か昔からの宿業により結婚されて、あるがままに、阿弥陀さまに、すべてをお任せして生きられたのではないでしょうか。

ある僧侶は、結婚される方に、3つの言葉を送られているそうです。

それは、
(1)結婚とは別れを約束する儀式である。
(2)結婚とは罪である。
(3)結婚とは、言葉では言い表すことができない何かである。
だそうです。

結婚とは、数限りない人々の中から、特別な因縁があって、互いに支えあって、一緒に生活していくという本当に不可思議なものです。そのご縁は、人生という苦しみの世界を歩んでいくために、阿弥陀さまが与えてくれたものではないでしょうか。

そう思いますと、私を含めて、自分本位な生き方をしていますが、もっと相手のことを大切にしなければならないはずです。一緒に苦労したり、泣いたりする。その中にこそ、浄土が見えてくるのではないでしょうか。

今の私達には、そんな思いが足りていないことを思い出させてくれる一日となりました。

合掌。南無阿弥陀仏。

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