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自分の名前は『呪』であり使命でありアファーメーションじゃないかという気づき

 最近よく兄弟子の講師の先生がおっしゃるのは、その人の名前は『呪』であると。
 たとえば親が子に名前をつけるときに、こうなってほしい、という願いが込められているとして、それはその子にとっての使命にもなれば、またその子を縛る『呪』にもなりうる。
 『剛田剛』という名前なのに、虚弱な体だったとしたら、もしかしたらコンプレックスを産んでしまうかもしれないし、
 あるいはその逆に、強い身体になろう!!と体を鍛えてマッチョになることもあるかもしれない。
 そして、自分の名前とは、普通に日本に生きていれば普段一番耳にするし、あるいは書く単語だろう(絶対ではないけど)。
 ということは、自分の名前を認識すること、意味づけすること自体が繰り返しのアファーメーションとなってその人に刷り込まれていくともいえる。

 ちなみに、兄弟子の先生の教えを受けて最近私が自分の名前を調べて知ったのは『神に祈りを捧げる』という意味もあったことだ。これは、ずっと前に漢字源で調べたときにはなかった記憶があるのだが。
 ただ、ここ最近神社にお参りにいくようになったし、神=精神世界、自然法則とするならば、
 算命学という自然法則を学ぶ学問にも触れている。
 ある種名前のとおりに生きているのかもしれない。

 ところで、『自分の名前』に関するネタはもうひとつ知っている。
 それは、姓名の文字は組み替える、、、つまりアナグラムにより、その人の使命がわかるかもしれない、、、、ということだ。
 これについては私は何人かの知人で試したが、興味深いなと感じたこともあった。
 ご興味があればお試しあれ。

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