孤独な少女の悲しい冤罪

孤独な少女の悲しい冤罪

 

高瀬 甚太

 

 「あなたの弁護をすることになった鈴木博和です。よろしく」
 ガラス越しに鈴木が挨拶をすると、少女は頼りなげに首を折り、白いうなじを覗かせた。
 国選弁護人として犯罪者の弁護をすることには慣れていたが、こんなに幼く、か細い犯罪者は初めてだと、鈴木は思った。
 無言でいる少女に鈴木はこれまでの経過を簡単に説明した。
 「あなたは、安田栄吉殺害容疑で逮捕された。安田栄吉はあなたが以前、世話になっていた養護施設の指導員です。その安田栄吉が、あなたが酒場の近くで目撃されたその日、近くの公園で殺害された。警察は、安田指導員が刺殺された現場で安田を刺したと思われる肉切り包丁を手にして倒れていたあなたを重要参考人として逮捕した。ここまでは間違いありませんか?」
 鈴木が問うと、少女は曖昧な視線を鈴木に向けてやはり無言でいた。
 「安田栄吉は鋭利な刃物で心臓をひと突きされ、失血死していた。警察は現場の状況から十七歳のあなたを躊躇なく犯人と断定したが、本当にあなたがやったのかどうか、私は疑いを持っている。安田に対してどんなに激しい憎悪を抱いていたとしても十七歳のあなたに果たして出来るだろうかと……」
 鈴木の話を聞きながら、少女は何かにすがるような悲しい目をした。青緑がかった透き通った視線の先に何があるのか、それを鈴木は知りたいと思った。

 「どうだね。弁護人の様子は?」
 所属する弁護士事務所所長の斎藤洋一に訊ねられた時、鈴木は一瞬、言葉に窮した。
 「難しいですね。ほとんど喋ってくれませんから」
 「だが、警察は彼女を真犯人と断定しているんだろ?」
 斉藤はタバコに火を点けるとゆっくりそれを吸い込み、確認するように鈴木に言った。
 「状況証拠からみるとそうですね。殺害現場に包丁を手に倒れていたという確固とした事実がありますからね」
 「刺した理由もはっきりしているんだったよな?」
 「ええ……。彼女、養護施設に入所していたんですが、その時、指導員の安田にひどくいじめられていたようなんです。そのため彼女は何度か施設を脱走しています。手を焼いた安田と施設の管理者は、精神疾患の疑いがあるとして県外の山奥に存在する精神病院へ彼女を隔離しています」
 「精神病院へ?」
 「ええ、それもひどい施設です」
 「彼女は本当に精神疾患があったのかね」
 「情緒が不安定なところはあったようですが、隔離するほどの症状ではなかったようです。ただ、養護施設の安田と病院の院長が仲が良くて、画策して彼女を病院へ放り込んだ疑いが持たれています」
 「それはひどいなあ……」
 斉藤はタバコを口から離し、灰皿に押しつけて消すと、白髪交じりの前髪をゆっくりした動作でなで上げ、呟くくように言った。
 「でも、あの娘、母親がいたんじゃなかったのか?」
 「彼女はフランス人とのハーフでしてね。父親がフランス人で母親が日本人です。ずっとフランスに住んでいたようなのですが……」
 調書を眺めながら鈴木は彼女について知り得る限りの説明を斎藤にした。
 「彼女が七歳の時、父親が交通事故に遭って四五歳という若さでこの世を去っています。平和で穏やかな母娘の生活は一変し、フランスを去って日本へ帰ることを余儀なくされたようです。
 彼女の母は、日本にいる親戚の家を訪ねていますが、周囲の反対を押し切ってフランス人と一緒になり、駆け落ち同然で日本を捨てた経緯があったものですから、彼女の母を親戚たちは歓迎しなかったようです。
 仕方なく、彼女の母は、東京の練馬区にある小さなアパートを借り、彼女を養うために英会話の専門学校で仏会話の講師を務めることになったのですが、彼女の母の美貌は多くの男たちの垂涎の的になっていたようで、多くの男たちが取り巻いたとされています」
 「よほどきれいな女性だったんだね。そのお母さんは?」
 「ええ、そのようですね。彼女のバッグに入っていた写真をみてもそれが窺われます。でも、それが結果的に災いしたようですね。その男たちの中に一人、素行のよくない男がいたんです。その男は言葉が巧みで日本人離れをしたスタイルと美しい面相をしていたと彼女を知る関係者は口を揃えて言っています。
 男は巧みに彼女の母に言い寄ったようで、やがて彼女の母の心を捉えることに成功したのでしょう。頻繁に彼女の家を訪れるようになり、やがて男は彼女を邪魔者扱いするようになったようです」
 「短期間にそこまでよく調べたものだね」
 斉藤が感心したように言うと、鈴木は、
 「いえ、偶然、精神病院の実態をレポートしているノンフィクションライターの友人がいて、その友人が今回の事件に興味を持って調査してくれたおかげです」
 と謙遜したように言うと再び話を続けた。
 「すべてその友人の受け売りなんですが、男の毒牙にかかった彼女の母は、男の言うがままに従うようになり、やがて彼女は男の手で安田のいる養護施設へ預けられることになったんです。
 養護施設に預けられることになった彼女は失望のあまり何度か自殺を試みています。母親に訴えたかったのでしょう。でもその思いは通じず、彼女は養護施設へ送られました。この時、彼女は中学一年、十三歳でした。友人の言葉によればその施設の評判はあまりよくなかったようです。公的な施設ではなく私立の施設で、一代で成り上がった某企業の会長が自費を投じて社会貢献のために創設した施設だということですが、その実態は知事に立候補を目論む創立者の思惑が働いていて、必ずしも福祉的な部分が充実しているわけではなかったようです。彼女をその施設に収容した男と安田に太いパイプがあって、その施設に入所したのですが、最初に話しましたようにこの安田という男はひどい男だったようです。暴力と苛めがひどく、彼女だけでなく、入所している多くの子どもたちが被害を受けていました。
 特に彼女に対する暴力、苛めがひどかったようです。彼女はそれに耐えきれず何度も自殺を試み、それが果たせないと脱走を試みるようになりました。安田は、彼女のそうした状況を精神障害の疑いがあるとして園長に相談、彼女を県外の山奥にある精神病院へ入院させることを計画したのです」 
 「入院させる前にきちんとした検査が行われなかったのかね。いくら何でもそれはひどいだろう」
 憤慨したように斉藤が言うと、それを受けて鈴木は、
 「これも友人の話ですが、その病院の院長と安田は普段から懇意にしていて、彼女の件も信じられないことですが二人が謀ったことのようです。
 牢獄のような山奥の精神病院へ幽閉された彼女は、医師に対して、自分はおかしくない、と必死になって訴えたようですが、医師もまた怠慢で、彼女をしっかりと診察することはなかったようです。
 人里離れた山奥の病院には、訪れる者など一人としていません。事件の数年前に、取材のためにこの病院を訪れた友人は、その病院の実態をみて驚いたといいます。
 そこは病室とは名ばかりの牢獄のように密閉された部屋で、その中に女性ばかり三十人ほどの患者がいたといいます。若くても五十代後半、八十代に及ぼうとするような人までが一つの部屋に閉じこめられていたようです。幼い彼女がこの病室に一年半もいて、おかしくならなかったのが不思議でならなかったと友人は言っていました。
 彼女がもう少し大人だったら気が変になっていたでしょうね、と精神病理の関係者は口を揃えて語っていたようです。それほど厳しい環境の中で彼女が正常でいられたのは、母に対する深い思い、会いたいという気持ちがあったからではないかと友人は言っていました。母に会うまではおかしくなるわけにはいかない。その強い気持ちが彼女を支えたのだろうと――。彼女が、ニコニコして笑ってばかりいる女性やひとりごとを言う女性、歌を歌ってばかりいる女性、そうした女性たちを彼女は愛しく感じていたのだろうな、ともその友人は言っていましたね。
 入院して一年半が過ぎた日、彼女の入院する病院が大火災を起こしました。原因は事務員のタバコの不始末だったようですが、火は勢いよく燃え広がり、病院を全焼させ、さらに山林にも燃え広がりました。部屋に閉じこめられていた彼女は、大パニックの中で運良く助け出され、隙を見計らって逃亡した。調書にはそう記録されています」
 「ひどいね。そういう病院が存在すること自体がにわかには信じられない……」
 斉藤はタバコを口にするとライターで火を点け勢いよく吸って吐き出した。
 「彼女は情緒不安定なところはありますが、精神的な障害があるわけではなさそうです。ただ、現在は言葉をあまり喋ってくれません。そのために事件の真相が明らかにならない。彼女は絶対に無実のはずなんです。冤罪に疑いありません」
 鈴木は拳を握りしめて言葉を吐いた。
 「で、肝心の事件だが、詳細を教えてくれないか?」
 斉藤の質問を受けて鈴木は事件資料を手に取ると資料に沿って語り始めた。
 「事件のあった夜、安田栄吉は殺害現場の近くの酒場で午後9時過ぎまで一人で飲んでいたようです。焼酎を五杯、ビールを一本、これは安田にとって普通の酒量だったようで、特に酒を飲み過ぎたといったような状態ではなかったようです。酒場の従業員の証言では、その日、酒を飲んでいる途中、安田の携帯電話に着信があり、それを受けて安田が、『わかった。必ず来いよ』と応えているのを従業員が耳にしています。
 安田はその店に週三回ほどやって来て、たいてい午後7時から午後10時過ぎまでいるのですが、その夜は9時に店を出たので誰かと約束でもあるのかな、と従業員は思ったようです。
 その夜の午後10時です。安田の刺殺体が近くの公園で発見されたのは。その側に安田を刺したと思われる肉切り包丁を手にした彼女が倒れていた――。これが事件の一部始終です」
 吸いかけのタバコを陶器製の灰皿に押し込みながら、斉藤は鈴木に確認するように言った。
 「目撃者はいなかったのかね。10時頃だとまだ人も通っているだろう」
 「刺殺している現場を見たものはいませんが、彼女が酒場の近くを隠れるようにして歩いていたところは目撃されています」
 「警察は彼女が犯人であることにまったく疑いを持っていないのかね」
 「一部にはあんなにか細い少女にひと突きで心臓を刺すようなことが出来るのかどうか、といった意見もあったようです。しかし、他に容疑者がいないことと、彼女に安田に対する憎悪と怨恨があり、なおかつ刺殺した証拠の肉切り包丁を手にして倒れていたことで、その意見は覆されたようですが」
 「彼女はそのことについて何も語っていないのかね」
 「そうなんです。何も語ろうとはしません。それが不思議で……。やったならやったでそれなりの言葉を吐くものですが、それもなく、やっていないならやっていないで私にそのことを告げるものなのですが、それもありません」
 斉藤は小さなため息を漏らしてソファに身を沈ませた。

 翌日、鈴木は容疑者である深町杏奈に再び面会をした。
 杏奈は青ざめた表情でいながら、この日は鈴木に対して挨拶だけは交わした。
 「一つだけ質問したいことがあります」
 鈴木は昨夜、この事件について深く考えた。その結果、一つのことに思い当たり、それを彼女にぶっつけてみようと思った。
 「病院から脱走したあなたが安田と出会うそれまでの経過を教えてくれませんか? あなたはそのことを警察にも私にも何一つ語っていない」
 しかし、彼女は、杏奈は悲しげな眼差しを空に注ぎ、相変わらず黙したまま、何一つ語ろうとしない。
 「では、私の推測を聞いてください。いいですか?」
 鈴木は昨夜、事件のことを考えていて一つのことに思い当たった。それでその疑問を杏奈にぶつけてみようと思ったのだ。
 「あなたは病院が火事になり、パニックになったその隙を狙って病院を抜け出した。ここに地図があります。病院は山麓の奥深い場所にあり、病院の側を渓流が流れています。あなたは道路を歩くと病院の関係者に捕まると思い、渓流沿いの道を選んで下流に向かった。渓流はやがて大きな川につながり、その川のさらに下に安田が飲んでいた酒場のある町がある。あなたが、安田が酒場で酒を飲んでいるということを知っていたとは思わない。偶然、その町へ逃げ出して来ただけのことだ」
 ここまで話して鈴木は杏奈の反応をみた。先程とそれほど変わりがないように思えるが、目の輝きが違ってきたような気がして、鈴木はある確信を持った。
 「ここからが大事なところです。あなたは、町にやって来て、誰かに会いませんでしたか? もしくは誰かに発見された?」
 杏奈の表情に明らかな変化が表れた。鈴木はなおも杏奈に問いかけた。
 「あなたは偶然、その男に会って、脅され公園まで一緒に連れてこられた。多分、車だったのでしょう。川から酒場までは同じ町とはいってもかなり距離がある。
 その男はあなたを脅した。何か、あなたの根元的なところにある弱みを突いたのでしょう。安田を刺したのはその男だと私は推測しました。男は、安田を刺した後、車に閉じこめていたあなたを連れだし、安田の刺殺体の前であなたを気絶させ、肉切り包丁を手に持たせて逃走した。私はそう考えています」
 杏奈の反応は異常を示した。それをみて鈴木はっきりと自分の考えは当たっていると確信した。
 昨夜、鈴木は事件を考えていて一つのことにたどり着いた。それは、安田と彼女の二人に介在する第三者の存在だった。
 そうでも考えなければ今回の事件は説明がつかなかった。杏奈が偶然、安田に会って殺害した、そんなことがあり得るはずがなかった。状況証拠のすべてがそれを指していても、そんな偶然が起こりえるはずがない。偶然が起こったとしたら別のものだ。安田ではなく、彼女が偶然、会った男、その男の存在を考えた時、すべての謎が解けた。
 杏奈は弁護士を見つめていた。弁護士を見つめながらその温かな眼差しに父の面影をみたようだ。
 フランス人の父は愛と優しさに満ちあふれていた。常に杏奈を慈しみ、心の底から家族を愛した。幼い杏奈は父の柔らかな手の平が好きで、いつも父の手を握って眠った。
 涙が一滴、杏奈の頬を流れた。
 「弁護士さん。私の手を握って」
 鈴木は笑顔を浮かべ、杏奈のその白い小さな手を握った。杏奈が思った通り、弁護士の手は父のような温かな手だった。その手の温もりに安心した杏奈は、小さな声で言った。
 「お母さんを助けてください……」と。
 ――そうだ、あの男に会ったのだ。あの時、あの場所で偶然、杏奈は坂上俊一に会った……。
 病院から逃れた杏奈は、右も左もわからぬまま、川に沿って歩いた。川に沿った道を下って行けば下流に行き着き、やがて町に出る。
 しかし、ひどい疲労と病院で飲まされ続けた薬の影響ですぐに意識がもうろうとしてきた。
 それでもしばらく歩き続けると、ようやく町らしい場所に出くわした。杏奈は空腹を癒すために灯りの点いている店を覗き込み、何か食欲を満たすものを得られないか、そう思ってそっと忍び込んだ。
 「こらっ、泥棒猫め!」
 杏奈を見つけた店の主人が大声で怒鳴りつけ、逃げようとする杏奈を追いかけて来た。ふらつく足元を気にしながらも杏奈はどうにか店主から逃れ、川を渡る橋のたもとに行き着いたところで、いきなり背後から声をかけられた。あわてて振り向くと、あいつだった。坂上が立っていた。
 「おまえ、病院に入っていたんじゃなかったのか? 食堂で飯を食っていたら店の親父が血相変えて女を追いかけていた。それを見て、もしやと思って追って来たら、やっぱりおまえだった。驚いたよ」
 杏奈は坂上から逃げ出す機会を狙ったが、それよりも早く、坂上の手が杏奈の手首を掴んだ。
 「病院が大火事になったとニュースで聞いて、心配していたんだ。おまえ、その隙をついて逃げ出したんだな、悪い奴だ」
 坂上は声を上げて大笑いしたが、その目は笑っていなかった。
 「おまえ、安田のこと憎んでいるだろ」
 「安田?」
 「指導員の安田だよ。おまえ、あいつのおかげで病院に放り込まれたんだろ」
 「指導員の安田……? ああ、思い出したわ。そりゃあ、憎んでいるけど、もうどうでもいいわ」
 もうろうとした意識の中で杏奈は坂上にそう言ったことを覚えている。  
 「安田に今日、会うんだ」
 「私は会いたくない」
 「おまえも一緒に会うんだよ」
 そう言って坂上は嫌がる杏奈を無理やり車に押し込んだ。
 公園の側に車が停車して、坂上はしばらく安田を待っていた。小さな飲み屋が寄り集まった場末の裏通りにある公園だった。ほろ酔いかげんの安田が現れたのはそれからしばらくしてからのことだ。
 「持って来たか?」
 安田の声が聞こえた。
 「ああ……」
 坂上は安田に向かってそう言った。杏奈は襲い来る眠気と闘いながら車の中で二人を凝視した。
 「薬を出せよ」
 粘ついた安田の声を聞いて杏奈は一瞬吐き気を覚えた。
 「その前に金をくれ」
 坂上が言うと、安田は、「今度払う」とだけ言って、坂上の手にした薬を奪い取ろうとした。その瞬間、坂上が懐に隠し持っていた肉切り包丁で安田の胸をひと突きにした。
 「いつまでも指導員づらするんじゃねえよ」
 仰向けに倒れた安田に言葉を吐きかけると、坂上は杏奈に向かって「出てこい」と言った。
 杏奈は目の前で起こったことを瞬時に理解出来ないまま、おぼつかない足取りで車から出た。
 「安田だ。憎たらしい顔をしているだろ」
 坂上は倒れている安田を指差して言った。
 血を流して地面に横たわる安田は、まだ息があるのか右手を上に掲げ、刺された箇所を左手で抑え、悲鳴に似た声を上げて杏奈に助けを求めた。
 血まみれの安田を見て恐怖のために身をすくませる杏奈の背後に立った坂上は抑揚のない言葉で言った。
 「こいつはもうすぐ死ぬ。殺したのはおまえだ。いいな。おまえが殺したんだ。もし、警察におれの名前を一言でも言ってみろ、おれはおまえを探しだして殺す。それに……、わかっているな」
 その言葉が終わるか終わらないうちに杏奈は気絶した。坂上が杏奈を固い棒のようなもので背後から殴りつけたのだ――

  弁護士の手のぬくもりが杏奈に当時の状況をはっきりと思い起こさせた。途切れた時間がつながり、杏奈は一瞬、ため息とも安堵とも取れない息を吐き出した。
 「きみの無実を証明するにはその男が誰であるか、教えてもらわないといけない」
 弁護士は杏奈の手を握りしめたまま、そう言った。
 ――そうだ。あいつが殺したんだ。でも、言えない。言えばお母さんが殺される……。
 弁護士は杏奈の手を両手でしっかりと包み込み、杏奈の不安を受け止めるように言った。
 「大丈夫だ。すべてを打ち明けなさい。そうすればみんなが救われる。恐いことなんか、何もない。お母さんを助けたいならそうしなさい」
 父もそうだった、と杏奈は思った。父は杏奈がどのような状態の時でも、いつも握ったその手を離さずに杏奈の気持ちが落ち着くのを待っていてくれた。
 弁護士の温かな両手が恐怖に震える杏奈に勇気を与えてくれた。杏奈は弁護士の目を見つめ、その男の名を勇気を持って伝えた。

  三日後、杏奈は自由の身になった。取り調べを終え、頭を殴られた衝撃からも回復し、警察を出た。だが、杏奈は不安だった。これから一人でどう生きていけばいいのか、まったくあてもなく、頼る人もいなかった。

 お母さんに会いたい……、警察を出る時、杏奈は心からそう願った。
 「よかったね。疑いが晴れて」
 杏奈の前に鈴木弁護士が立っていた。杏奈が笑顔を返すと、弁護士も笑顔で杏奈をやさしく包んだ。
 「でも、どうして坂上はきみを殺さなかったのだろう。きみを犯人に仕立てるとしても、きみが記憶を取り戻して発言すれば何の意味も為さないはずなのに……」
 弁護士の疑問は杏奈の疑問でもあった。
 「きみに会わせたい人がいるんだ。目を瞑ってごらん」
 弁護士はそう言って一人の人物を杏奈の前に立たせた。
 「誰だかわかるかい?」
 杏奈は目の前にいる人物が誰か、目を瞑っていたので皆目見当がつかなかった。でも、その人物が杏奈の手をそっと握った時、その人物の正体がはっきりとわかった。
 「おかあさん……!」
 「そうだよ、お母さんが迎えに来てくれたんだよ。よかったね。きみはもうひとりぼっちじゃない」
 弁護士の声を聞きながら杏奈がそっと目を開けると、目の前に少し痩せた母が立っていた。
 「お母さんは、いつもきみのことを思っていたんだよ。お母さんは言い寄ってきた坂上に薬漬けにされて急性の薬物中毒で入院していたんだ。だからきみが施設に入れられたことも山奥の病院に入れられたことも知らなかった。坂上が偶然、きみに会って、安田指導員を殺したことで、お母さんはやっと坂上の魔の手から逃れることができた。きみが坂上の名前を警察に言わなかったのは、言えばお母さんに害が及ぶと思ったのだろう。でも、もう大丈夫だ。あいつには殺人の他にも余罪が多い。おそらく二十年程度は刑務所の中で暮らすことになるはずだ」
 鈴木弁護士に感謝しながら、杏奈は母親に再び巡り会えたことに感謝した。
 あの時、坂上に出会って、犯人に仕立て上げられた時、坂上は、おれの名前を出せば母親を殺す、そう言った。でも、どうして私を殺さなかったのだろう……。杏奈はそれが不思議でならなかった。
 しかし、その疑問は母親の言葉で解けた。
 坂上もまた杏奈が入所した養護施設で育った過去があるのだと母は語った。入所中、坂上は安田指導員に散々苛められたようで、いつか復讐をしようと考えていたという。坂上はろくでもない男ではあったが、母親に対する愛情だけは本物だったようで、薬漬けにしたのは、母親に捨てられるのが恐かったから、と後で供述している。
 坂上は、母親が杏奈の名前をうわごとのように言うのを毎日のように聞いていた。親子の情愛をまったく知らずに育った坂上にとって、母親の杏奈への思いは理解不能だったようだ。
 一時期、坂上は施設へ預けた杏奈を呼び戻そうと、施設に出掛けたことがある。だが、その時、すでに杏奈は安田の手によって山奥の病院に運び込まれた後だった。
 そのうち母親が入院し、坂上は入院費用を稼ぐために麻薬の売人になった。安田もその顧客の一人だった。安田は施設にいたことのある坂上に薬を要求し、一円たりとも金を払おうとせず、その金を坂上に負担させ続けていた。坂上の中に殺意が芽生えたのはそんな時だった。
 安田に会う直前、杏奈に偶然、出くわした坂上は、杏奈を犯人に仕立て上げることを思い付いた。安田を殺した後、杏奈も一緒に殺して、安田殺害の犯人に仕立て上げようとでも思っていたのかも知れない。坂上はそのようなことを後で供述している。
 だが、安田を殺した後、坂上は杏奈を殺せなかった。杏奈の母親の杏奈を呼ぶ声が聞こえたのかもしれない。結局、男は杏奈を殺せないまま、気絶させて意識を失わせた後、犯人であるように工作した。

 弁護士の尽力で、杏奈は母と共にフランスへ旅立った。父方の祖父が病気になり、帰ってきてくれと連絡があったということもあるが、それ以上に杏奈も母親も父親の思い出をもう少し辿ってみたい、そんな気持ちが心の底にあったようだ。

 飛行機の中で杏奈は隣席に座る母の手をしっかり掴み、もう一方の手を空に伸ばすと、思い出の中の父親の温もりをそっと捕まえようとしたが捕まえられず、苦笑いをしてそっと母を盗みみた。

〈了〉


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