志乃

高瀬甚太

中編

ほうれん草のバター炒め、生姜の天ぷら――、ビールをお代わりしながら、志乃は次々と料理をオーダーした。
「ねえちゃん、ここへきたら、湯豆腐を食べなあかんよ。この店の湯豆腐は、おでんのおつゆで豆腐を煮るさかい、めっちゃ美味しいんや」
そう言って、志乃の隣りの客が湯豆腐を志乃にプレゼントした。一度は断ろうとした志乃だったが、隣りの客の顔をみてそれをやめた。前歯が抜け、頭が禿げ、そのくせ、笑顔がどうしようもなく人懐っこい。志乃は亡くなった祖父を思い出した。
「ありがとう。いただきます」
志乃は、遠慮なく湯豆腐に箸を付けた。何の変哲もない湯豆腐だった。でも、食べ進むうちに味わいが深くなってくる。人生の味がしみ込んだ湯豆腐だと志乃は思った。
「おっちゃん、これ、めっちゃ美味しい」
志乃が笑顔を湛えて言うと、隣りのおっちゃんは、喜色満面といった表情で、
「ほなら次はこれや」
と言って、モヤシをおでんのつゆで煮ただけのものを志乃のカウンターの上に置いた。
その夜、志乃は、二時間ほど、えびす亭にいた。二時間ほどいた間に、どれだけの料理を口にしただろう。ほっこり心が温まるものを感じながら、えびす亭を後にした。
マンションに戻ると、部屋の中に清二がいて、酒を呑んでいた。考えないことではなかった。部屋の鍵を清二に渡していたからだ。
「どこに行ってたんや。電話をかけても出えへんし、店も休んでからに」
すっかり亭主気取りの清二の言葉に志乃は吐き気を覚えた。
志乃は、玄関にある清二の靴を強い力でドアの外へ放り投げると、部屋の中にいる清二に怒鳴った。
「出て行きさらせ、このスカタン! あんたとは今日でお別れや。さっさと奥さんのところへ帰れ! 帰りさらせ!」
血相を変えて清二が出てきた。
「わしは独身や。奥さんなんかおらん」
その言葉を聞いた志乃がまた怒鳴った。
「この大嘘つき! あたいは嘘つきが大嫌いなんじゃ。鍵を返せ! 二度と戻って来るな。あんたとは二度と会わへん!」
酔いも手伝って、志乃の感情はいつになく高ぶっていた。
呆然と突っ立っている清二の腕を掴むと、志乃は無理やり鍵を奪い取り、ドアの向こう側へ追いやった。
「俺、ほんまにおまえと結婚するつもりやったんや」
清二が泣き声でそういうのをドアをバタンと閉めてかき消し、鍵を閉めた志乃は、部屋に入ると窓を開け、ベランダに出て大きく腕と背中を伸ばして深呼吸をした。
清二からの電話はその後も続いた。着信が数本入り、留守電に泣き声が入っていたが、それも三日ほどで止んだ。
志乃の店の料理人、定吉は、七〇歳を超えた超ベテランで、高名な料理店で修業した過去を持っていた。この店を開いた時から、志乃にとっては父親のような存在で、定吉もまた志乃のことを実の娘のようにかわいがっていた。志乃の店は定吉の腕で持っているようなところがあった。志乃は、そんな定吉にはこれまで何でも打ち明けており、清二とのこともすでに話していた。清二と別れたと聞くと、定吉は、
「よかった。わしはあの男が嫌いで、あの男と志乃さんが一緒になるのだったら、この店をやめよう、そう思っていたぐらいです」
吐き捨てるように言って、志乃が清二と別れたことを我がことのように喜んだ。
定吉は、結婚して四十年近くになる奥さんと、今も仲が良く、志乃は、その奥さんとも仲がよかった。ある時、志乃は、定吉に提案をした。
「今度、店が休みの日、奥さんと三人で呑みに行かない?」
志乃の言葉に、定吉は相好を崩して喜んだ。
「一体、どんな店へ連れて行ってくれるんですか。楽しみだなあ」
志乃の心の傷はすでに癒えかけていた。清二があれからどうしたのか、志乃には興味がなかった。志乃の店に清二がやって来ることもなかった。
志乃の店は日曜日が休日だった。その日の夕方、志乃は、定吉夫婦と待ち合わせをし、難波の有名な寿司屋に案内し、そこで寿司を食べた後、
「もう一軒、行きたい店があるの」
と告げて、えびす亭に案内した。
立ち呑みの店であったことから、定吉夫婦は最初、困惑した様子だったが、二人とも、酒は嫌いな方ではなかったので、志乃に従って店の中に入った。

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