謎の間違い電話

高瀬甚太

 救急車とパトカーのサイレンが街の中を駆け巡っていた。
 事件でもあったのだろうか。三井幸一は電話をかけようとした手を止めて、窓の外に目をやった。地上の騒音とは裏腹に、早朝の空は青く澄み渡り、白い雲がくっきりと浮かぶ上天気だった。
 地上三十四階、地下二階のタワーマンションの二十四階の一室に三井が部屋を借りて今年で二年目になる。入居当初は眼下に広がる街の景観を眺めて一人悦に入っていたものだが、今はそんなこともなくなった。ただ、眺める空の景色には飽きが来ない。
 電話の呼び出し音が聞こえたので、もしかしたら今、電話をかけようとした相手からのものではないか、三井は一瞬、ハッとして電話を取った。
 「三井公認会計事務所です」
 電話に出ると、か細い女性の声がした。
 「助けてください……!」
 驚いた三井は、間違い電話ではないかと思い、
「こちら三井公認会計事務所ですが」ともう一度名乗ると、
 「たす…け…」
 そこで電話が切れた。
 着信番号が表示されていたので、その電話番号に急いで電話をした。ツーツーと単調な呼び出し音が繰り返されるだけで応答がなかった。
 三井はあわてて警察に連絡をし、電話の件と着信番号の記録を伝え、事件の可能性があるから急いで駆け付けてほしいと伝えようとした。
 だが、警察の交換手は、すぐにはわかりました、とは言ってくれなかった。三井に根ほり葉ほり質問してくるのだ。嫌気がさした三井は腹が立って電話を切った。
 元来、神経質なところがある三井は、電話のことが気になって一向に仕事がすすまなかった。このままではいけないと思ったが、再度、警察に連絡する気にもならない。電話をしているこちらを値踏みするように質問をしてくるあの態度に腹立ちを感じていた。憤慨しながらも、女性が電話で発した「助けて」の声が、三井の耳からずっと離れなかった。
 「そうだ……!」
 ある人物を思い出した三井はアドレス帳を開いて探した。

 大樹出版はさほど大きくないマンションの一室にあった。2DKのマンションは本で一杯である。以前はアシスタントの女性がいたが、今は杉本明彦が一人でやっている。
 先日、ようやく一冊の本を完成させた杉本は、この日、朝からゆっくりとした時間を過ごしていた
 編集という仕事に就いて三十年、この仕事一筋に生きてきた杉本だったが、押し寄せる不況の波は杉本の仕事にも多大な影響を与えており、その業績は年々悪化の一途を辿っていた。
 杉森は一度、結婚をしたことがあるが、五年目に協議離婚をして別れた。以来、ずっと一人でやってきた杉森は、独身貴族を満喫する気楽な身分といえた。一時は再婚も考えたことはあったが、付き合っている間に面倒になり、そのまま自然消滅してしまった。そんな杉森だったが、最近、知り合った女性とは何となく続いている。
 杉森は一日に一度、必ず近くにある商店街を散歩する。時間はまちまちだが、日本一長いと言われる商店街の端から端までのんびりと歩いて過ごす。その日は午前一〇時を過ぎたところで事務所を出た。快晴の空を仰ぎながらしばらく歩くと、商店街のアーケードにたどり着く。
 しばらく歩いたところで携帯が鳴った。支払の催促の電話だと思った杉森はしばらくそのままにしておいた。ところがいつもはすぐに切れる電話がなかなか切れない。やれやれと思い、ため息をついて電話に出ると、
 「おれだ、三井だ」と言う。
 「なんだ、三井か。どうしたんだ?」
 三井は杉森の高校時代の同級生で、それほど仲がよかったわけではないが、年に数回、思い出したように電話をかけてくる。
 「実は……」
と、三井は自分のところにかかってきた電話の話を杉森にした。
 「警察に電話をした方がいいんじゃないか」
 杉森が言うと、三井は怒って警察の対応を詰った。
 「気になって仕方がないんだ。おまえ、昔から変な事件に首を突っ込むのが好きだっただろ。今回のこの件、調べてくれないか」
 「お断り。おれはそんなに暇じゃないんだ。もし、それほど気になるのなら探偵社にでも頼めばいいじゃないか」
 「そこまではしたくないんだ。それでも気になって気になって……」
 杉森は三井が昔から神経質で一つのことが気になり始めると何もできなくなる癖を知っていた。
 「なあ、おれを助けると思って協力してくれないか。頼むよ」
 三井が悲壮な声でいう。杉森は三井のことがあまり好きではなかった。何かといえば自慢する癖があるからだ。今もタワーマンションに事務所を借りていることを吹聴して、ボロマンションで四苦八苦している杉森を見下ろすようにして話をすることがあった。
 「今、忙しいんだ。電話を切るよ」
 これ以上関わり合いになるのが面倒臭くなって、杉森が電話を切ろうとすると、それを阻止するように三井が大声を上げた。
 「協力してくれたらおまえの事務所の家賃、今月はおれが持つ!」
 
 三井のタワーマンションは地下鉄長堀橋の駅近くにあった。当然のことながらセキュリティがしっかりしていて、入るのに杉森は少し手間取った。
 三井の事務所に入るとさすがに眺めがいい。値段も高いだろうなあと思いながら、杉森は早速、三井の元にかかってきた女性からの電話について詳しく話を聞いた。
 着信時間は午前七時一〇分になっていた。番号を控えて地域を調べればある程度の場所の推測はできる。もしかしたらすでに事件が起こっている可能性があった。
 電話がかかってきた時の状況を三井から再度確認した杉森は、数時間後にはすっきりさせてやると話して、三井の事務所を離れた。
 着信番号があったので地域の特定は比較的スムーズにいった。特定できた地域は大阪市天王寺区界隈だった。
 「助けて……」という女性の声がしたと三井は言った。問題はなぜ三井のところに電話をかけたかということだ。三井は電話の主にまるで心当たりがないといった。杉森は三井の事務所に電話をし、
 「最近、会計事務所の広告をどこかで打たなかったか?」と確認をした。
 知り合いでなければ、とっさの拍子に三井の事務所の電話番号をみた可能性があった。
 三井はしばらく考えた後、
 「自分が顧問になっている印刷所が発行しているミニコミに広告を頼まれて、載せたことがある」
 と話した。杉森はその印刷所の住所と電話番号を三井に教えてもらい手帳にメモした。
 印刷所は、谷町九丁目から東に向かってしばらく行った一角にあった。小さなビルだったが、それでも自社ビルで、一階に電話が置いてあり、そこで総務あてに電話をし、要件を伝えると三階に上がるよう言われた。
 細長いビルで、階段も急だった。エレベーターを使えばよかったのだが、荷物を上に運んでいる途中だったので遠慮をした。
 三階に上ると、でっぷりと肥えた作業服を着た中年男性が待っていた。名刺を交わし挨拶をすると、営業部長という役職で、ミニコミの責任者だと名乗った。
 杉森は配布先について尋ねた。
 「マンション関係のミニコミなので、配布はマンション中心に行っています。一応、配布は大阪市内全域となっていますが今のところ配布できているのは天王寺区と上本町周辺ですね。広告の集まりが悪くて一度にすべて配布というわけにはいかないんですよ」
 部長はそういって丁寧に説明をした。
 部長の話からある程度、場所を絞り込むことができたように思った。電話番号とも符合する。
 印刷所を出た杉森は、天王寺区の警察署に出向き、この二、三日、この地域で事件が起こらなかったか、聞いてみた。
 警察署の担当は杉森が記者であるとでも思ったのか、親切に調べてくれたが、ひったくり数件と酔っぱらいの補導があったぐらいで大した事件は起きていなかった。
 時計をみると午後五時を少し回っていた。喫茶店に入り、コーヒーをオーダーして杉森は三井に依頼された今回の事件の整理をしてみることにした。
 発端は、三井の元にかかってきた一本の電話であった。三井によれば「助けて」と女性の声で救いを求めてきたが、悪戯などでは断じてない、と三井は強調した。それほど切迫したものであったようだ。二度目は三井が気になって着信番号を元に電話をするがつながらなかった。杉森は、女性が助けを求めるために近くにあった何かで三井の事務所の電話番号をみたと推理した。実際、印刷所でもらったミニコミ紙の表紙のところには「三井公認会計事務所」と書かれた事務所名と共に電話番号が大きく記されていた。
 着信番号とミニコミの配布先をたどってある程度、地域を限定することができたが、それでも電話をかけてきた女性を割り出すには不十分な広さだった。
 念のために杉森は、もう一度印刷所に電話をして、印刷所が依頼した配布所の連絡先を部長に教えてもらった。
 配布所に電話をすると、女性が出た。かなり年配であることが電話の対応で感じられた。
杉森が、印刷所の名前を出し、ミニコミの配布について尋ねようとすると、女性がいきなり「申し訳ありません!」と謝った。
 女性は杉森が印刷所の人間だと勘違いしたようで、その女性の話によれば、
「天王寺区と上本町周辺のマンションに配布したとお伝えしましたが、実は担当の者が急な腹痛を起こして倒れたものですから、まだほんの一部しか配っていないんです。明日には出てくると言っておりますので、明日、必ず配布いたします」
と平謝りに謝った。
杉森は、「わかりました。明日、必ず配布してください。それで結構です」と伝えた後、腹痛を起こす前に配布したマンション名を教えてください」と女性に話した。女性は恐縮しつつ杉森に配布したマンション名を伝えた。

二時間後、杉森は三井に電話をして、これからそちらへ行く、と告げた。
「わかったのか?」と聞くので、杉森は「詳しい話はそちらで話す」と伝えた。
午後七時を過ぎたタワーマンションから眺める夜景は素晴らしかった。杉森は思わず、今月の家賃はいいから、ここと代わってくれ、と言いたかったが、やめた。
こんなに景色のいいところに引っ越すと仕事をする気になれない。夜景ばかり眺めて酒を呑んでいる自分の姿が目に浮かんだ。
「三井の元へかかってきた電話は、ミニコミに載せた三井公認会計事務所の広告をみて電話をしたものだとわかった。三井の顧問先である印刷所がそれを制作し、契約している配布所に大阪市内のマンションを対象に配布するよう依頼していた。しかし、全戸を対象にするととんでもないことになる。そう思った私は念のため配布所に配布の確認をした。すると幸運なことに、配布担当が腹痛を起こし、配布しはじめたところで配布を断念したことがわかった。担当が配布したのは一棟だけ、しかも天王寺区のマンションだった。
マンションを絞り込めた私は、そのマンションの住人に、今日、変わったことがなかったかどうか聞いてみた。するとその中の一人の女性が、
『お隣の様子がおかしいんです。心配してインターフォンを鳴らしても返事がないし、どうしたんだろうと思って』
と話した。その女性の案内で問題の部屋を訪ね、インターフォンを鳴らしてみた。女性が言うように応答がなかった。
『叫び声のようなものを聞いたと、朝、うちの娘が言ってたんですよ。でも、まだ五歳の子供ですからね。そういえば、毎朝、仕事に出かけるまえに私の家に立ち寄って、話をしていくのに、それも今日はなかったし……、病気でもしたのかな、と心配していたところなんです』
女性の話を聞いた私は、すぐにマンションの管理人に連絡をし、警察に電話をするよう依頼した。
 一〇分ほどで警察がやってきた。管理人が合い鍵でドアを開けると、数人の警察官が部屋の中へなだれ込んだ。部屋の中には、絞殺されたと思われる女性の死体とその横でうずくまる男の姿があった。
 男は、警察の聴取に素直に対応し、殺害を認めた。以前から被害にあった女性に横恋慕していた男は、何度か女性に言い寄ったようだが、相手にしてもらえず不満を募らせていた。男は女性が勤める化粧品会社の食堂で配膳係をしていて、『いつも大変ですね、ありがとう』と声をかけてくれたその女性に一目惚れをし、執拗に交際を申し込んでいたようだ。
しかし、思いが届かないことに絶望した男は、朝方、女性が眠っている隙にベランダから忍び込み、女性を襲った。女性の激しい抵抗にあった男は女性を殺して自分も死のうとしたが、果たせず女性だけを絞殺してしまった。
 三井に電話をかけてきたのは、男が油断した一瞬の時間だったように思う。男性に首を絞められながら女性は必死の抵抗を試み、力尽く瞬間に『助けて…』と電話をかけた。それが事件の真相だったんじゃないだろうか」
 杉森の話が終わると、三井は小さなため息を漏らした。
三井は、「助けて…」と叫んだ女性の声が今も消えず、それがなかなか消え去らないと嘆くように言い、また、ため息を漏らした。杉森はそんな三井を残して、机の上に「今月の家賃七万三千円、よろしく!」と書置きをして部屋を出た。
タワーマンションも下から眺めるとそれほど眺めがいいものではない。自分のボロマンションとそう変わらないではないか、杉森は負け惜しみのような言葉を吐いて、地下鉄に向かった。
<了>


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